ハダカの自立論 

 虚無という名の霧が、八重樫蒼やえがしあおいの意識を包み込んでいた。それは重く、粘着質で、まるで彼の魂そのものを溶かそうとしているかのようだった。午後の光が窓辺で踊っているのに、彼の心は深い海の底にいるような感覚に支配されている。時間という概念が曖昧になり、昨日と今日の境界線が見えなくなる。そんな日々が、もうどれほど続いているのだろうか。


 六畳間の部屋は、以前と比べて格段に整理されていた。床に散乱していた衣類や雑誌は姿を消し、代わりに殺風景なほど整然とした空間が広がっている。しかし、その整理された空間は、彼の心の混沌を隠すための仮面に過ぎなかった。机の上には使い古されたプロテインシェーカーが置かれ、その隣には「筋肉ダイアリー」と手書きで記された日記ノートが佇んでいる。窓辺の観葉植物だけが、この無機質な空間で確実に成長を続ける唯一の存在だった。丸い葉が午後の光を受けて、緑色に輝いている。


「今日で何日目だっけな」


 蒼は独り言のように呟いた。その声は低く、少しかすれている。寝起きの声はさらに低く、まるで地の底から響いてくるようだった。174センチの身長に68キロの体重。体脂肪率12%前後を維持している筋肉質な体は、彼が唯一誇れるものだった。肩幅は広く、腕にはダンベルを握り続けた証として薄っすらとした跡が刻まれている。だが、その強靭な肉体とは裏腹に、精神は常に霧の中を彷徨っているような感覚だった。


「アオ、お昼ご飯よ」


 廊下の向こうから、母・理絵の声が聞こえてきた。その声には以前のような厳しさはなく、代わりにどこか遠慮がちな響きが混じっている。まるで、息子という存在に対してどう接すればいいのか分からなくなったかのような、そんな微妙な距離感が滲んでいた。


「今行く」


 蒼は立ち上がり、意識的に背筋を伸ばした。猫背になりがちな体を矯正するのも、彼の日課の一つだった。眼鏡をかけ、鏡に映る自分の姿を見つめる。黒髪はぼさぼさで、眼鏡の奥の黒い瞳には、まだ迷いが宿っている。軽度の色弱のせいで、世界の色彩は他の人とは少し違って見えるのだろうが、それでも彼には十分に美しく映っていた。


 台所では、理絵が栄養士らしくバランスの取れた献立を並べていた。彼女の動きは几帳面で、パンくず一つ残らない。158センチの細身の体に、肩下のストレートヘアをまとめ髪にした姿は、どこか品があった。老眼鏡越しに蒼を見つめる視線には、期待と、わずかな焦燥が混じっている。


「今日は何か予定あるの?」


「特にないよ」


「そっか。でも、ハローワーク、また行ってみたら?新しい求人も出てるみたいだし」


 理絵の声は柔らかいが、芯がある。その芯が、蒼の心を刺すことがある。彼女もまた、息子の将来への不安と期待の間で揺れ動いているのだと、蒼は理解していた。


「うん、分かってる」


 会話はそこで途切れた。味噌汁を啜りながら、蒼は自分の存在がこの家にとっての重石になっているような居心地の悪さを感じていた。




 昼食後、蒼は自室で筋肉ダイアリーを開いていた。今日の筋トレメニューを記録し、その時に胸へ湧き上がった感情を数行で綴る。これだけが、今の彼に許された創作行為だった。


「午前中、胸と三頭筋。ダンベルプレス10 kg×10回、3セット。虚無感、やや軽減。しかし、明日へ向かう具体的な光はまだ見えず」


 ペンを置くと、蒼は拳をゆっくりと開いた。鍛錬で厚くなった掌には、鉄を握りしめた圧痕がうっすらと紫がかり、まるで沈黙の勲章のように浮き上がっている。それは誇りの証でもあり、自分が自分に課した檻の刻印でもあった。握り締めれば締めるほど未来は近づくはずなのに、その距離感は霧の中にぼやけたままだった。


 その時、スマホが鳴った。見慣れない番号だったが、反射的に応答する。


「おー、アオか?覚えてるか、俺だよ、馬場征司!」


 耳元で響いた声は、湯気の立つスープのように温かく、包み込むような中低音だった。まるで熊が笑っているかのような朗らかさに、蒼は思わずスマホを持つ手を握り直す。脳裏には、中学時代に家庭科室の調理台を占領していた丸々とした同級生の姿が蘇った。


「征司?久しぶりだな。どうしたんだ、いきなり」


 声を出した瞬間、舌の奥にわずかな乾きを覚えた。友人を懐かしむ感情の裏で、【今の自分】を晒すことへの怯えがのどを締めつける。


「どうしたもこうしたもねーよ!たまたまそっちの方に来ててさ、アオの家の近く通ったから、ひょっとしてと思って連絡してみたんだ」


 底抜けに明るい声が、散らかった心の隅々まで一気に照らす。部屋の空気がほんのり温度を上げたように感じられ、蒼は背筋を伸ばした。


「どうだ? 久しぶりに会わないか?」


 一拍置き、蒼は壁時計に視線をやる。針の音がやけに大きく、無職の身でいることを秒単位で刻まれている気がした。だが電話の向こうにいる“熊”はまったく気にしていない様子で、同時にそれが蒼をいっそう居心地悪くさせる。


「今、時間あるか?なんか食いたいもんある?俺、今から仕入れに行くんだよ」


「仕入れって?」


「あー、説明が足りなかったな。俺、今フリーランスで料理家やってんだ。レシピ開発とか、フードトラックとか、色々やっててな。せっかくだから、お前の家で料理作らせてもらおうと思って」


 同い年の征司が、もう自分の腕一本で稼いでいる。その事実が、蒼の胸に重くのしかかった。ダンベルを担いで鍛えた肩でさえ、この重さは受け止め切れない。指先に汗が滲み、スマホのガラス面に微かに曇りが走った。


(俺は、何の仕込みもできていないキッチンみたいなものじゃないか)


 自嘲気味の比喩が頭をかすめる。無職、実家暮らし、筋肉以外取り柄なし。履歴書に書けるのはベンチプレスの自己ベストだけ。友人に胸を張れる要素がないことが、いまさらながら鋭く突き刺さった。


「アオ?聞こえてるか?」


 一瞬の沈黙を、征司の笑い声が柔らかく埋めた。その笑いは“馬場征司”そのものだ。気遣いと豪快さを同時に備えた稀有な音色。


「...。ああ、もちろん」


 声を絞り出すと同時に、蒼の背中をじんわりと汗が伝った。母の作った昼食で温まった胃の奥から、言いようのない後ろめたさが昇ってくる。それでも言葉にした「もちろん」の二文字だけが、彼の小さなプライドを辛うじて守ってくれた。



 数十分後、インターホンが鳴った。蒼がドアを開けると、そこに立っていたのは、中学時代の面影を残しつつも、さらにスケールアップした巨漢だった。178センチの身長に105キロの体重。その体型は完全に「熊」と呼ぶにふさわしい。茶色の柔らかいおかっぱ気味のボブヘアが、その巨体にどこか愛嬌を与えている。


「よお、アオ!相変わらずだな!ってか、ちょっと痩せたか?いや、筋肉ついたって感じか?」


 征司はまるで昨日の続きのように話しかけてくる。彼の大きな手から、冷蔵庫に収まりきらないほどの食材が次々と現れる。新鮮な野菜、肉、魚。そして、見たこともないようなスパイスの瓶。


「何なんだ、これ全部」


「今日の晩飯だよ!せっかくだからな。あ、そうそう、俺、最近『ベアリスト』って自称してんだ」


「ベアリスト?」


「知識と体脂肪率の共存を許された存在って意味でな!熊みたいな存在感だろ?料理の知識も豊富だし、体も大きいし、まさに現代の熊って感じでさ」


 征司は楽しそうに笑った。その屈託のない笑顔と、淀みなく繰り出される言葉の数々が、蒼の心をかき乱す。



 キッチンに立つ征司の手さばきは、まさにプロのそれだった。両利きの器用さを活かし、左手で野菜を刻みながら右手でスパイスを調合していく。


「お前、本当にすごいな」


 蒼の口から出た言葉は、賛辞でありながら、どこか諦めにも似た響きを持っていた。


「何がすごいって?」


「だって、もう独立して、自分の仕事持ってるじゃないか。俺なんて、まだ何者でもないのに」


 征司の手が一瞬止まった。明るい茶色の瞳が、蒼を見つめる。


「アオ、お前、そんなこと考えてたのか?」


「考えてたって、事実だろ。お前は料理家として成功してる。俺は無職で、親に養ってもらってる。筋トレしかできない」


「筋トレしかできないって、それ、すげー才能だぞ?俺なんて、三日坊主の常習犯だからな」


 征司の声は、いつもの明るさを保ちながらも、どこか真剣さを帯びていた。


「でも、それで食べていけるわけじゃない」


「食べていくって、そんなに急がなくてもいいんじゃないか?俺だって、転職ばっかりで、やっと最近安定してきたんだぞ」


 その時、理絵が台所に現れた。征司の存在に少し驚いた様子だったが、すぐに笑顔を浮かべる。


「あら、お友達?」


「あ、すみません。馬場征司です。アオの中学時代の友人で」


「まあ、征司くん!久しぶりね。大きくなったのね」


 理絵の声は、久しぶりに明るさを取り戻していた。征司の存在が、この家の空気を変えているのを、蒼は感じていた。



 夕食の時間。テーブルには、艶やかに照り返すタンドリーチキン風の鶏肉、クミンとコリアンダーが香るキャロットラペ、ミントの葉を浮かべたヨーグルトソースなど、色彩も温度も異なる皿がまるで万華鏡のように並んでいた。鉄鍋から立ち上る蒸気には、ローストしたスパイスの甘さと微かなスモーク香が交じり、鼻腔をくすぐるたびに唾液がせり上がる。ひと口ごとに、火を通したパプリカの奥から蜂蜜のような甘みが顔を覗かせ、後追いで青唐辛子の刺激が舌先を小さく跳ねさせた。


「うまい」


「だろ? これ、俺のオリジナルレシピなんだ。地元の食材を使って、ちょっとエスニック風にアレンジしてみた」


 理絵も、いつになく饒舌だった。


「征司くんは、本当に料理が上手ね。アオも、こういう友達がいて良かったわ」


 その言葉に、蒼は複雑な味を噛みしめた。母が笑っていることは嬉しい。けれど皿の上で踊る鮮烈な味わいと、征司の確かな技術を目の当たりにすると、自分の空っぽの履歴書が急に重く感じられる。


「アオ。お前、料理に興味ないか?」


 征司が箸を置き、真正面から尋ねた。フライパンで焼き色を付けたインゲンが、まだパチパチと微かな音を立てている。


「料理?俺が?」


「そうだよ。筋トレやってるなら栄養のことも考えるだろ? 料理できれば、自分の体に必要な栄養を自分でコントロールできるじゃないか」


(確かに、プロテインだけでは限界がある...)


「でも、俺、不器用だし」


 言い訳のように漏れた声が、自分で想像していたより頼りなかった。器やフライパンが壁を塗り替えるほど存在感を放つ食卓の前で、変わることへの恐れが膝の下にまとわりつく。もし包丁を握った瞬間、何もできない自分が露わになったら。そんな不安が、フォークより重く指を沈ませた。


「不器用? ダンベル持ち上げてる奴が不器用なわけないだろ」


 征司は笑い、厚い手で鶏肉をほぐす。


「料理も筋トレも、基本は同じだよ。継続とちょっとした工夫」


 その言葉は、冬の窓をこじ開ける春一番のように蒼の心に吹き込んだ。だけど同時に、鍋の底で跳ねる油の音が、まだ見ぬ失敗を囁く。胸に芽生えた熱と冷たい不安がせめぎ合い、彼は自分の皿に残る最後のひとかけをゆっくり噛みしめた。



 その夜、蒼は筋肉ダイアリーに新しいページを開いた。ボールペンの先が紙に触れる直前、夕食の席で飛び込んできた征司のひと言が脳裏に残響する。


「筋肉で自分を守るのはいい。でも、“何者でもないまま”鍛え続けても、結局は重い鎧を着て逃げ回るだけだぜ、アオ」


 胸の奥で小さく火花が散った。征司の言葉は笑いながら放たれたのに、鋼球のような質量を持って腹底に沈んでいる。蒼は息を整え、ゆっくりと書き始めた。


「今日、征司が来た。料理を作ってくれた。そして、料理を教えてくれると言った。筋トレと料理、どちらも“自分を形づくる”行為。重ねれば、鎧ではなく身体そのものを鍛え直せるかもしれない」


 ペンを置いた瞬間、かつての失敗がフラッシュバックする。深夜のファストフード、惰性で続けたバイト、早朝の空っぽの改札。あの頃の自分には、筋肉の張りもダイアリーもなかった。けれど今は違う。机の横に置いたダンベルと、台所に残るスパイスの香りが、手触りのある未来を示してくれる。


 窓の外では、夜の静寂が街灯のオレンジに溶け込み、遠い踏切の音がかすかに揺れる。かつては耳を塞いでいた静けさが、今はスタートラインの合図のように感じられた。


 観葉植物の葉先が、エアコンの微かな風に揺れている。薄い葉脈に走る緑の血管は、一晩で目に見えないほど伸びるという。その成長スピードに背中を押され、蒼は再びペンを握り締める。


「逃げるための筋肉は今日で終わり。食べる、動く、学ぶ。全部合わせて、俺という生き物を作り替える。明日は、試しに包丁を握ってみよう」


 最後の行を書き終えると、インクが乾く前に小さく息を吐いた。


「明日も生きていたい」


 その言葉はもう願いではなく、約束のように響いた。

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