灯台のふもとでもう一度
「なんで、あんなふうに言うの...?」
十月の夜風が、まだ冷えきらない窓ガラスを指先のように叩く。そのリズムだけが、南雲灯里の部屋を満たしていた。カーテンは閉じられ、照明も消えた部屋のなか、布団にくるまった彼女の手元だけが、青白い光に染まっている。
「もう疲れたんだ、灯里。君といると、なんか息苦しくて」
耳の奥にこびりついた遥真の声が、まるで自動再生のように何度も蘇る。思考を遮るように、鼓膜の奥で同じ台詞がぐるぐると回る。文化祭準備の写真が、タイムラインを滑るように流れ、そこに笑顔で写る自分の姿を見つけた。もう過去になってしまった笑顔だった。
「別に君が悪いわけじゃないけど、俺にはもっと自由が必要なんだと思う」
「自由って、私が束縛してたの?」
灯里は誰にでもない問いを宙に向かって呟いた。声は布団の中に吸い込まれ、どこにも届かない。指が反射的にスクロールを続けると、文化祭実行委員のグループチャットが画面に現れる。
『南雲さん、最近見ないよね』
『遥真くんと別れたって噂だけど』
『あー、あの陰キャの子? まあ、遥真くんには釣り合わなかったよね』
「陰キャ...」
言葉の鋭さは刃物のように、スマホ越しに突き刺さる。灯里の指が小刻みに震える。スマホがその震えを拾うように、ブブッと低く震え続ける。通知がひとつ、またひとつ。慰めではない。誰かを気遣う言葉ではない。押し寄せるのは、冷たい波のような嘲笑と、興味本位の噂話だけだった。
「もう、いいや」
つぶやいた声は、風に紛れて、空気の中に溶けた。彼女はスマホをそっと伏せ、まるで何かを断ち切るように、深く吐息をついた。腕を伸ばし、電気を消す。暗闇が一気に部屋を満たす。窓の向こうでは、夜の気配がより濃くなっていた。そのまま、灯里は布団の中で身体を縮こませる。心臓の音だけが自分の存在を証明していた。まぶたは重く、呼吸は浅くなっていく。痛みも怒りも、やがて何も感じなくなって、静かに、力尽きるように、目を閉じた。耳の奥で、バイクのエンジン音が遠くに鳴った。ひとつの鼓動のように、低く、熱を帯びて。そしてその音は、ゆっくりと、灯里の意識の外へと遠ざかっていった。
その夜、真壁烈は湾岸道路を抜け、潮の匂いを帯びた風を切り裂いていた。ハイビームに照らし出される白線が途切れ途切れに伸び、エンジンの重低音が鼓膜と胸骨を震わせる。
「ちっ」
マンション前に停車すると、烈はヘルメットのシールドを上げ、湿った夜気を一息吸い込んだ。冷えたアスファルトにブーツの底が触れるたび、小さく乾いた音が跳ねる。視線の先、四階の角部屋は真っ暗。
「そっとしておくか。だが、オレは待ってるからな灯里」
左拳を鳴らすと、骨が硬質に軋んだ。暗い窓は世界の光を拒むように沈黙している。烈はエンジンをかけ直し、再び夜へ溶け込んでいった。遠ざかる排気音が波のように揺らぎ、そして町の雑踏に飲み込まれていく。
三日後の夕方。放課後のチャイムが止んで久しい時刻、灯里は隣家の小さな看板を見上げていた。真鍮フレームの中で揺れるネオン文字――Cafe & Bar 灯台。柔らかな琥珀のランプが窓辺に浮かび、心を落ち着かせる。ドアベルが乾いた音を立て、わずかな線香とシトラスの香りが混ざった空気が灯里の頬を撫でた。
「あら、灯里ちゃん。久しぶりね」
カウンターの奥から振り返った砂原灯子は、琥珀色の光を纏いながらグラスを磨いている。ウルフカットの髪が柔らかく跳ね、どこか舞台袖の女優のような余裕があった。
「学校は?」
「...お休みしてます」
「そう」
驚きも詮索もなく、灯子は温めたホットミルクを差し出す。真白い湯気が曇った心の隙間を塞ぐように立ちのぼった。
「別に...、ただ、疲れちゃって」
言葉を選びきれずにいる灯里の声は、グラスの縁で弾かれた氷の音にかき消えた。
「君島くんと別れたって聞いたけど」
「灯子さんの耳にも入ってるんですね」
「この辺りじゃ、高校生の恋愛なんてすぐ噂になるわ」
灯子は流れるような所作で背を向け、洗い物を再開する。水流がシンクに跳ねる細かな音の向こうで、低く穏やかな声が続く。
「傷ついてる子って、どうして“自分だけ悪い”って思うのかしらねぇ」
灯里の肩が小さく震えた。俯いた視界に、薄いベージュのカウンターが揺れて見える。
「私は悪くないなんて...言えません。たぶん私、束縛しすぎたんだと思います」
「ふーん。で、君島くんはそんなあなたに“ありがとう”って言ってくれた?」
沈黙。遥真が最後に残したのは感謝ではなく“息苦しい”という自己都合だけだった。
「人間関係は二人で作るもの。責任は半分こよ。でもね」
灯子はふと声を柔らかく落とした。
「あなたは十分頑張った。次は自分を大事にしてみない?」
その瞬間、入口の扉越しにバイクのアイドリングが低く響いた。灯子が目線だけで窓際を示す。
「あの子も心配してるみたいね」
「あの子?」
「真壁くんよ。十五分くらい前から店の前を往復してる。子犬みたいね」
灯里が慌てて振り向くと、排気音だけを残しバイクは遠ざかる最中だった。
「灯里ちゃん、暇してるならここで手伝ってみない?手を動かすと頭が軽くなるものよ」
しばらく無言の時を過ごし、灯子が灯里を仕事に誘う。誘いは思いのほか自然で、カウンターの内側から漂う温かさが灯里の胸を揺らす。
「いえ...。私なんかが入っても迷惑だと思います」
声は蚊の鳴くように小さかった。灯子は少しだけ眉を上げ、磨いていたシェーカーを置く。
「迷惑かどうかは私が決めるわ。ここは“灯台”よ。迷子が入港する場所だもの」
それでも灯里は視線を落としたまま。カウンターに映る自分の影をじっと見つめている。
「けど、失敗するかも」
「はは、バンドやってた常連なんて五百回失敗してるわよ。人は失敗談で繋がるの。成功譚なんて聞いても腹は膨れないでしょ?」
灯子はグラスに水を満たし、そのまま灯里へ滑らせた。水面がほの暗い照明を反射して揺れ、波紋がゆっくり広がる。
「...。一度だけ、試してみます」
灯子は満足そうに目を細め、店内奥の棚から黒いエプロンを取り出した。
「いらっしゃいませ、見習いさん。失敗したら掃除すればいいだけ。ね?」
灯里は小さく息を吸い込み、頷いた。エプロンの紐を結ぶたび、固まっていた肩の筋がほぐれていく。胸の奥で何かが、小さく光を取り戻す気がした。
夜が深まるにつれ、店内には人生の寄港者たちが集う。夢を追いかけて散った元バンドマンは、割れたピックをコインのように弄びながら苦笑する。恋に破れて酒を煽るOLは、口紅の跡がついたグラス越しに「次こそ」と呟く。転職に悩むサラリーマンは、シングルモルトの琥珀色を見つめて未来図を描き直す。灯里は万年筆を走らせ、クラフト紙のノートに彼らの言葉を丁寧に書き写す。そのインクが乾く音さえ、今の彼女には救いだった。
一週間後の夜。港町特有の潮の匂いに、スプレー塗料の甘い刺激臭が混じって漂う。灯子に案内され、灯里は錆びたフェンスの切れ目から廃倉庫の裏手へと足を踏み入れた。そこは、薄闇に浮かぶスケートボードパーク 《FLAME》。コンクリートの空洞に若い歓声とエンジンの余韻がこだまする場所だった。壁面には何層ものグラフィティが重なり、まるで幾度も塗り替えられた傷跡のように色を競い合っている。中央に据えられた青色LEDの投光機がBurn your doubtの文字を冷たい光で縁取り、闇の中で小さく脈打つ心臓のように瞬いていた。
「ここが烈くんの溜まり場よ」
灯子の言葉に合わせるように、ストロボライトが観客席代わりのコンクリ斜面を照らし出す。低いローファイビートがPAから滲むと、ドロップの瞬間、一気にロック調へ転調。スケーターたちが宙を切り裂き、ボードが金属レールを擦る甲高い音が火花のように飛び散った。
「おっ、灯子さん!」
赤錆の手すりを跳び越えて現れた青年が、照明を浴びて髪の赤茶が炎めいた。真壁烈。彼は額の汗を拭いもせず、灯里の前で速度を緩めた。
「...。久しぶりだな灯里。元気か?」
「まあまあ」
「嘘つけ。全然元気じゃねぇじゃん」
苦笑交じりに言いながら、烈は手にしていたスケボーを灯里の方へ突き出した。木目に走る擦り傷は数え切れない失敗の証拠だが、それでもボードは艶を失っていない。
「やってみ?」
「無理です。転んじゃいます」
「転んでもいいんだよ。ここにいる連中は、みんな転んで膝小僧を犠牲にしてきた連中だからな」
差し出された節の張った拳は、灯里にとってどこか懐かしい形をしていた。躊躇いながらも指先を重ね、片足をボードへ。倉庫のひさしで空気が淀み、鼓動が耳の後ろでうるさく跳ねる。
「ちょっ、むずっ!」
バランスを崩すことなど、試す前からわかっていた。それでも体勢は思ったよりも保てず、支点を失った瞬間、灯里の世界は反転した。次の鼓動の刹那、彼女は烈の腕へ吸い寄せられるように倒れ込む。どっと上がる歓声と拍手。荒い息、跳ね返る鼓動、スプレー塗料と汗の匂いが混ざった夜気が胸いっぱいに入り込む。
「ナイストライ!」
「初回にしちゃ上出来だぜ!」
悪意のない笑い声に包まれ、灯里は頬が緩むのを止められなかった。
烈の腕の中、そこで記憶の蓋が、思いがけず軋んで開いた。
まだ中学一年の春、灯里は美術室裏の渡り廊下で数人の同級生に囲まれていた。スケッチブックを取り上げられ、「陰キャのラクガキ」と嘲笑される声。膝が震え、返してと言えない自分が情けなくて涙が滲んでいた。
「おい」
そこへ低く短い怒声が飛んだ。二年のジャージを羽織った上級生が、スケッチブックを無造作にひったくると、相手の胸倉を掴んで壁に押しつけた。赤茶色の髪を無造作に刈り上げたその少年こそ、真壁烈だった。
「他人の宝をバカにして笑うって、よっぽど暇なんだな」
手を離すと同時に、烈はスケッチブックをそっと灯里に手渡した。ページが少し折れていたが、彼は何も言わず隅を指で直し、ちらりと見えたイラストに目を細めた。
「絵、うまいな。続けろよ」
その一言で、灯里は震える指を止め、涙をこらえて小さく頷いた。以来、階段ですれ違うたびに「描いてるか?」とだけ声をかけてくれる先輩、それが烈との始まりだった。
「あの時、オマエのスケッチブックを守ったこと覚えてないか?」
烈の声で灯里は現在に引き戻される。LEDの青が彼の輪郭を淡く縁取り、鼓動のリズムと重なるように光が瞬く。
「...。覚えてるよ。けど、ただ助けてもらっただけで」
「違ぇよ。オレはあの日、オマエを守ったことで初めて“守りたい”って感覚を知ったんだ。それまでは喧嘩とバイクと俺自身しか見えてなかった」
灯里は少し息を呑んだ。烈のまなざしは火を宿したように真剣だ。
「だから今度は、オレがオマエを支える番だ。これは中学の時から決めてたんだ」
夜風が二人のあいだを駆け抜ける。
Burn your doubt――疑うものを燃やせ
グラフィティの言葉が青くまたたき、まるで祝詞のように闇へ溶けていく。灯里は胸の奥で何かが解けるのを感じた。遠くPAスピーカーがビートを落とし、空気の熱が一瞬緩む。照明がゆっくりと回転し、倉庫全体を淡い青に染める。
「ありがとう、烈先輩」
『先輩』という二文字が舌の上で幼い名残を宿す。それでも、顔を上げた灯里の目には、もう怯えではない光が浮かんでいた。烈は弾むように笑い、灯里の手からボードを受け取ると輪を描くようにスケートランプへ走り出した。鉄の音が再び火花を散らし、パークの照明が強い白へと切り替わる。青白い文字――Burn your doubt――が二人の背を押すように輝き、その炎の残光が夜空へ高く舞い上がった。
翌朝。まだ陽の光が薄桃色で、部屋の隅にまで届かない刻。枕元のスマホが、けたたましいバイブ音と共に青白い光を閃かせた。通知の山。送り主はすべて君島遥真。
『灯里、話がある』
『俺たち、もう一度やり直せないかな』
『君がいないと、やっぱり寂しいんだ』
『返事して』
『無視しないでよ』
『なんで既読スルーするの?』
深夜0時03分から、現在5時40分まで、合計二十通を超える連打。布団に潜っていた灯里の指が、わずかに震えながらスクロールを繰り返す。画面の白光が頬を照らし、心臓の鼓動は耳の奥でドクドクと膨張していく。呼吸が浅く、喉の奥が引きつる。
『君が俺を避けるなら、学校で直接話すよ』
『逃げないでほしい』
――逃げないで。
その一語で、胸の内に冷えた鉄棒が差し込まれたように感じた。灯里は逃げたいわけじゃない。ただ、息ができないのだ。指先からじわりと汗がにじむ。視界の端がチリチリと滲み、過去の記憶がフラッシュバックする。
夜更けの通話で「位置情報をオンにして」と迫られた。
着信を取らないと、SNSのDMに怒りのスタンプが連投された。
文化祭の準備中、友達と笑っただけで「俺のこと軽く見てる?」と責められた。
(嫌だ。もう戻りたくない)
だが、“嫌”だと叫び返すたび、また同じ波が押し返してくる気がして、灯里の言葉は喉に貼り付いたままだった。その瞬間、昨夜の《FLAME》の青いLEDが脳裏に灯った。
Burn your doubt――疑いも恐れも燃やせ。
烈の腕に救われた温度、灯子のカウンターで感じた琥珀色の灯り、常連たちの“失敗談”をノートに写し取った静かな充実。あの場で身体中に集めた火種が、今やっと彼女の心臓の底で火花を立ち上らせた。
「終わらせるなら、今だ」
灯里は跳ね起き、机に積んでいたクラフト紙の手帳を開いた。ページ中央に、まだインクの匂いが残る昨夜のメモ。
“自分の人生に集中する。他人は変えられない。変えられるのは、自分の選択と行動だけ”
ガタン、とペン立てが倒れ、鉛筆が転がる音さえ背中を押す。深呼吸。肺に朝の冷たい空気を満たし、震えを抑えるように掌を強く握り込む。スマホを手に取り、画面いっぱいの未読を一瞥してからキーを叩き始めた。
『お疲れさま。でも、もう戻らない。ありがとう、でも、さようなら』
文面を確かめる指は、不思議ともう震えていなかった。灯里は送信ボタンを押す間際、ふと窓の外を見やる。夜の名残を薄く溶かしながら、朝日が桜色のグラデーションを東の空に描いている。鳥の細いさえずりが新しい一日のスイッチを入れ、街路の先からパン屋の香ばしい匂いが流れてきた。
タップ――送信。
灯里はスマホをそっと机の上へ裏返し、息を吐き切ってから窓を開け放つ。冷たく澄んだ空気が頬を撫で、曇りきっていた胸の靄を一気に洗い流すようだった。
「やっと、すっきりした」
囁くような独白が、静かな部屋に溶ける。朝日がカーテンを透かして床に落ち、その光の輪が少しずつ広がっていき、灯里のノートと、丸めた布団の上を柔らかく照らし始めた。
秋の陽射しは角度を増し、木洩れ日がカウンターの一升瓶をステンドグラスのように透過していた。午後三時をまわった店内は客足が途切れ、琥珀色の静けさだけが残る。扉の鈴が鳴り、灯里がそっと顔をのぞかせた。制服の袖口にはまだアイロンの折り目が残り、胸元には緊張の色が滲む。
「ママ、私、遥真に別れを告げたよ」
言い終えた瞬間、背筋の力が抜け、肩が数センチ沈んだ。灯子は布巾を置き、店内の湿度を測るように一度視線を巡らせると、カウンター越しに手を伸ばした。
「そう。よくやったわね、灯里ちゃん」
手の甲で髪を撫でられると、石の殻を割るように胸が軋んだ。コーヒー豆を挽く低い音が遠くで唸り、ランプシェードの影がテーブル上をゆらりと横切る。
「もう、誰かのために生きるんじゃなくて、自分のために生きたい」
灯里の語尾は震えず、奥歯で決意を噛んだ跡が残った声だった。灯子は頷き、カウンターに指先で円を描く。
「他人は変えられない。だからこそ自分の行動を選び直す勇気、ね」
言葉よりも、その穏やかな横顔が何よりの肯定だった。深く息を吐いた灯里は、鞄からクラフト紙のノートを取り出し、手のひらほどの原稿を示す。
「文化祭で配る冊子を作ろうと思うんです。同世代の本音を集めたフリーペーパー」
「タイトルは?」
「『再登校ミッションZINE』なんてどう?」
灯子は指で“ZINE”の文字をたどり、満ち足りた笑みを浮かべた。
「あなたらしいわ」
カウンターの片隅で湯気が立ちのぼり、シナモンの香りが微かに漂う。窓の外では、街路樹の銀杏が黄を濃くし、歩道に金色の斑点を落としていた。
薄曇りの空が夜の残り香を消し去り、校門前には催促のようなチャイムが鳴り響く。灯里は久しぶりに袖を通したブレザーの前を正し、自作のフリーペーパーを胸に抱えていた。ページの僅かな凹凸が掌に心拍のように伝わり、深呼吸ごとにインクの匂いが広がる。正門の脇、バイク用のパドックに寄りかかる長身の影がひとつ。紺色ではなく、深緑の学ラン。
「おう、今日も“生きててえらい”な、オマエ」
烈は照れ隠しのように拳を鳴らした。自校の文化祭は前週に終えたばかりで、この日は“年休扱い”を取ってきたとぶっきらぼうに告げる。
「それ、灯子さんの受け売りでしょ」
「バレたか」
頬をかすめる風が乾き、銀杏の葉が二人の足もとを転がる。烈は自分の制服の袖口をつまみ、胸ポケットの校章をトントンと叩いた。
「違う学校でも関係ねぇ。ここでお前が配る瞬間、見届けなきゃ意味ねぇからさ」
ブレザー越しに灯里の肩を軽く叩き、並んで校門へ歩みだす。靴裏がアスファルトを踏むたび、小さな埃が陽光に舞った。灯里は足取りを確かめるように一歩、また一歩。太陽は雲間を割り、彼女の髪だけをスポットライトのように照らす。校舎の窓ガラスが反射し、光の矢が交差した。
「ここに、ちゃんといるよ」
呟きは校舎へ吸い込まれ、遠く吹奏楽のチューニング音が応えるように揺れた。 二つの制服の背中が朝日に溶け、開かれた門の奥へと、等間隔の影を落として進んでいく。
廊下ですれ違う生徒たちの視線を感じながら、灯里は胸を張って歩く。教室に入ると、何人かの同級生が声をかけてきた。
「南雲さん、久しぶり!」
「体調大丈夫?」
思っていたよりもずっと温かい声だった。昼休み、灯里は校内でZINEを配り始めた。
「これ、私が作ったんです。よかったら読んでください」
最初は恐る恐るだったが、受け取った生徒たちの反応は予想以上に良かった。
「これ、すごくいいこと書いてある」
「私も同じこと思ってた」
「これ、泣ける」
廊下に響く生徒たちのざわめき。灯里のZINEを手にした生徒が「泣ける」と呟く。誰かの心に、灯りがともる瞬間だった。
「...。今日も"生きててえらい"な、オマエ」
放課後の始まりを告げるチャイムが余韻を引くころ、烈は照明の落ちた中廊下の陰に身を潜めていた。臨港工業高校の学ランの上からパーカーを羽織り、背後の非常口ランプだけを頼りに視線を巡らせる。
「来たか」
階段下から、早足で上がってくる紺ブレザーの影。君島遥真。目の下に薄い隈、ネクタイは緩み、胸ポケットのスマホが震え続けている。落ち着きなくキョロキョロと辺りを探るさまは、狩り損ねた獲物を追う捕食者のようだった。遥真の視線が前方に凍りつく。十数メートル先、ZINEを配る灯里の姿。彼は呼吸を荒げ、足を踏み出した。その瞬間、烈が壁際から一歩、通路中央へ出た。
「悪ぃな、通行止めだ」
低い声で明確な拒絶を言い放つ烈は肩を広げ、腕組みの姿勢で進路を塞ぐ。遥真の眉がわずかに跳ね上がり、次いで作り笑いが貼り付く。
「邪魔しないでくれる? 灯里に用があるだけだ」
「用ならメッセで十分だろ。二十通も送ったらしいじゃねぇか」
烈の言葉に、遥真の笑みが剥がれ落ちる。逡巡の影が一瞬過ぎ、次の瞬間には苛立ちが上塗りされる。
「彼氏と元カノの問題に他校のヤンキーが口出すなよ」
烈はゆっくり首を振る。空調の風が二人のあいだを抜け、ZINEをめくる紙の音が遠く聞こえた。
「もう“彼氏”じゃねぇんだろ。あいつは、今やっと前に進み始めた。どうしても足を引っ張るってんなら、俺が付き合ってやるよ」
――どこまでもな
言葉の奥に潜む熱を感じ取り、遥真は一歩退いた。手の中のスマホがまた震える。画面には〈既読〉の文字が増えていない。
「わかったよ」
かすれた呟きは烈だけに届き、遥真は踵を返して階段へ消えた。足音が遠ざかるのを見届けてから、烈は息を吐き、拳をそっと開いた。掌に残った爪痕が、ささやかな痛みで脈打っている。
練習S.S. きょしょー @kyosho-
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