無職と地下闘技場
無職と地下闘技場
第一章 薄闇に潜む呼吸
薄暗い更衣室で一色康介は静かに肺を満たした。コンクリート壁の毛細管から滲んだ湿気が、冷えた膜のように肌へ絡みつく。蛍光灯は虫の息で瞬き、まるで上空で震える星屑のように影を跳ね上げた。汗と血が折り重なった甘い腐臭が空気を浸食し、古い鉄扉の錆が舌の奥に残る。
(また、ここか。三十になっても俺はまだ地底を彷徨っている)
「なんで俺はこんな場所にまだいるんだ」
声は靴底で潰れた雨粒のように虚しく広がり、壁に吸い取られた。拳の裏で淡く脈動する《絶対防御》の紋章は、微弱な発光を繰り返している。攻撃を一切許さない盾。しかし刃を持たぬ剣でもあった。
更衣室の蝶番が軋み、黒曜石めいた革靴が床を叩く。空気がわずかに震え、冷気が忍び込む。
「今夜もよろしく頼むよ、一色君」
切り取った氷のように冷えた声。高級仕立てのスーツは絹鳴りを立てて微動だにせず、男の眼だけが硝子のように光を返す。康介の表情は揺れなかったが、瞳孔はわずかに収縮した。
「ああ」
会話は屑鉄同士が触れ合うほどの短さで終わる。必要最小限、呼吸と同じ反射だ。
(俺はこいつの金づるでしかないのか)
第二章 炎輪
観覧席が円形劇場のようにそびえ、熱気と歓声が渦巻いていた。床材は何度も焼け焦げを経験して黒く染まり、空調は唸り声をあげながら無力を晒す。観客の膨張した欲望が、会場全体を低い鼓動のように震わせている。
身を横切る風は硫黄と油の匂いを混ぜ、照明の尖った光がリング中央を白く切り取る。そこに立つ《焔纏い》は、指先で火玉を転がしながら舌なめずりをした。朱色の炎が衣服を舐め、光の尾を引いて康介の周囲に壁を築く。
「燃え尽きろ、防御屋!」
「派手にやれ!」
炎の輪が狭まり、空気は一瞬で灼熱へ転じた。だが康介は一歩も動かない。靴底の下で床が溶け始めても、彼の呼吸は微動だにせず《絶対防御》が無音で展開し、紅蓮を泡沫へ還元していく。
(ここが灼かれても、俺の皮膚には届かない。ただ、心の奥で鈍い痛みが燻っている)
《焔纏い》は熱を上げようと火力を増したが、炎は紫煙のように消え、掌に残るのは乾いた焦げ跡だけ。十度目の爆熱を放ったところで、男の膝が落ちた。
レフェリーの旗が静かに下ろされる。勝者は康介。だが拍手は乾いた紙片のようだった。観客の義務感だけが叩き出す音。
(退屈は罪か? いや、退屈に甘える俺こそが罪だ)
リングを去る康介の背を、観客の視線が追う。熱も歓声も、彼には冷めかけた湯気のようにしか届かなかった。
第三章 道元の灯
コンクリート階段を上がると、夜は刃物の冷たさを帯びていた。雨上がりのアスファルトが遠い街灯を逆さに映し、排気ガスと夜露が混ざった匂いが鼻を刺す。康介は裏路地の奥で、温かい電球色のネオンサインを見つけた。
《Bar Dogen》
扉を押すと、木製カウンターの奥で髭を撫でていた老マスターがグラスを磨く手を止め、薄く目尻を下げた。店内にはジャズのトランペットが低く流れ、スモーキーな香りが漂う。
「今夜も勝ったのか」
「ああ」
琥珀色の液体が硝子肌を滑り、照明を折り返して揺れる。アルコールが喉を焼き、乾いた胃を温めた瞬間、康介はようやく息を吐くことを思い出した。
「顔が暗いな」
「なあ、俺はいつまでこんなことを続けるんだろう」
老マスターは黙って氷を回す。氷塊がグラスと触れ、ひび割れる音が静かな店内を満たす。
「それは君が決めることだ」
カウンターの木目に染みた年月の匂いが、不思議と胸を落ち着かせた。
(選ぶ、か。選ぶことが一番怖い。だが、いつかは向き合わなければ)
第四章 新緑の問い掛け
翌日、公園のベンチは新緑に縁どられ、雨粒を孕んだ葉が朝陽を跳ね返していた。橘真理子はスーツの襟を整え、テイクアウトのコーヒーを手に康介を迎える。彼女の周囲には、仕事帰りの学生や犬を連れた老女が行き交い、平日の穏やかなリズムが流れている。
「コウちゃん、本当にあの仕事を続けるの?」
康介は答えに窮し、落ち葉を踏む靴音を数えた。
「収入は安定してる」
「それだけ?」
失望と焦燥が水面の波紋のように広がり、彼女の声は微かに震えた。
「危険に晒されて、夜通し血を吐く生活で満足なの?」
返答は喉で凍りつく。
(満足してるわけじゃない。けれど他の道も見えない)
「俺には、これしかない」
「そんなことない!」
拳を握りしめた彼女は、幼い頃に康介が怪我をした時と同じ顔で睨んでいた。
「コウちゃんは優しいし、頭もいい。普通の仕事だって絶対できる」
「普通って何だ? 朝起きて会社に行く、それが【生】?...。少なくとも命の危険はない、か」
沈黙の切っ先が二人の間に落ちる。遠くで子どもたちの笑い声が弾け、新緑の香りが風に運ばれてきた。
第五章 絶対攻撃
無機質な蛍光灯が脈動する事務室で、九条はデスクの上に新たな資料を滑らせる。スクリーンには巨躯の男が雷光を纏い、観客の悲鳴を背に吠える映像が映し出されていた。
「次は特別だ。お前を無敗のままでは帰さない」
雷鳴とともに映る男のコードネームは《雷神》――あらゆる防御を貫通する《絶対攻撃》の持ち主だ。
「断ったら?」
「契約書を忘れたか?」
薄い笑みが硝子の刃のように光を返した。逃げ道は無い。康介は資料を閉じ、火照った掌を机の冷気に預けた。
(逃げ道は塞がれた。なら進むしかない)
第六章 稲妻の檻
アリーナは稲妻の咆哮で震えていた。真紅のスポットライトがリングを囲み、観客の鼓膜を震わす低周波が地面から突き上げる。雷鳴を纏った
「盾よ、砕け散れ」
ゴングが鳴るや否や、青白い電撃が蛇のように走り、空気中の水分を爆ぜさせながら康介へ襲い掛かる。防御結界が軋むたび、火花が硝子を引っ掻くような高音を上げた。
(痛い。怖い。だが生きている!)
フロアは硝子片のような閃光で満たされ、嵐のような轟音が肺を締め付ける。康介は膝を折るが、拳で床を抑え立ち上がる。血塗れの唇から荒い息が漏れた。
「コウちゃん!」
観客の叫びが多重に反響し、心拍を急かす。雷神の槌のような拳が振り下ろされ、閃光とともに床が抉れた。
「俺の能力は、戦うたび、厚みを増す」
防御結界が飽和光を放ち、稲妻を冷たい海へ沈める。雷神の巨体が一瞬たじろいだ隙を突き、康介は肩で押し込む。白煙が弧を描き、リングロープが悲鳴を上げる。
巨体は鈍い音を残しリング外へ転落した。勝敗を告げるブザーが鳴り、観客は総立ちとなる。
拍手はさざ波から高潮へ変わり、熱は梯子のように天井へ昇っていった。
第七章 夜明けの防人
更衣室に戻ると、蛍光灯は白い残響を撒き散らし、医療班の足音と金属皿のぶつかる音が重なった。痺れた四肢を引きずりながらベンチに腰を降ろす康介の前に、真理子が駆け込む。
「大丈夫?」
「ああ、今夜は違った。本当に戦った気がする」
彼女は汗と血で濡れた手を迷わず握り、震える掌で温度を確かめた。
「逃げずに、ね」
九条が遅れて現れ、薄い掌声を送る。
「見事だった。次の相手も...」
「断る」
答えは剣閃のように鋭く短い。
「契約違反だぞ」
「構わない。俺には、次の本当の【生】が待っている」
九条は舌打ち一つ残し、足音だけを残して消えた。真理子は安堵の息を漏らし、康介の手を強く握る。
(もう、隠れ蓑は要らない)
第八章 歩き出す盾
街灯が霧雨に滲む舗道を、康介と真理子は肩を並べて歩く。遠いサイレンと車のホーンが夜の景色に交じり、湿った空気が鼻腔を洗う。
道元のバーに寄ると、老マスターが準備していたウイスキーが二人を迎えた。最初の一杯は勝利に、二杯目は決別に捧げられ、琥珀の光が静かに揺れた。
「明日から何をする?」
「まだ分からない。でも、もう逃げない」
木目のカウンターに映る彼の顔は、炎でも雷でもなく、柔らかな電球色に照らされていた。
(防御は攻めにも変わる。俺自身が、その証明になる)
数日後、職業安定所で「警備員」の求人票に判を捺した康介は、窓口の若い職員に礼を述べた。防御の力は今度、人を守る仕事へ転じる。
外へ出ると、新しい朝が雲間を割って街を淡く照らしていた。ぬれたアスファルトが陽光を跳ね返し、歩道に虹を描く。康介は拳を開き、その掌で脈打つ《絶対防御》を太陽へ掲げた。
(今度は、未来へ向けて掲げよう)
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