灰頭

 篠原優也は今日も目覚めることが億劫だった。瞼の裏に広がる闇は彼の現実世界の色彩と寸分違わぬ灰色だ。身体は鉛のように重く、布団から抜け出すという単純な行為すら途方もない労力が必要に思えた。窓の外からは、今日も止むことのない雨音が、彼の心にまとわりつく重い澱をさらに深くしていく。シトシトと、時にはザアザアと、絶え間なく降り続く雨は、優也の無気力な日々を象徴しているかのようだった。

「もう、どうだっていい」

 心の中で、優也はそう呟いた。声に出す気力すら湧かず、その言葉は彼の内側だけで反響し、虚しく消えていった。布団にくるまりながら、ぼんやりと天井の染みを眺める。そこには彼の今の生活と同じように、何の変哲もない、ただの灰色が広がっていた。金もない、幸せもない、タンパク質も足りない。不足しているものばかりが頭の中を駆け巡り、まるで彼の存在そのものが欠落だらけであるかのように感じられた。


 一ヶ月前、優也は前職を辞めた。理由は明快で、過労とストレスにまいったからだ。真面目に、誠実に、精一杯やってきたつもりだった。しかし仕事は終わらず、誰かの期待は容赦なく降りかかり、やがて自分自身の声さえ、どこか遠くに押しやられてしまった。気がつけば、何も感じなくなっていた。

 その日から、優也の世界は灰色に染まった。朝が来ても夜が来ても、心の色は変わらない。食事も、シャワーも、外出も、ただ必要に迫られて体を動かすだけ。何も考えずに、ぼんやりと天井を眺める時間が増えた。


 唐突に腹減り虫の鳴き声が室内に響き渡った。ここで初めて優也は昨日の夕食以来、何も口にしていないことに気づく。仕方なく布団から這い出すと、スウェットのままキッチンへ向かった。冷蔵庫を開くと、寂しい空間が広がっていたが、その隅に安売りで買った卵と、しなびかけたピーマン、そして使いかけのニンニクが残されていた。

 フライパンを火にかけてオリーブオイルを垂らす。ニンニクを包丁の腹で潰してから油に落とすと、じゅう、と小気味良い音がした。その瞬間、優也の意識がわずかに現実へと引き戻されるのを感じた。鈍っていた嗅覚がその刺激的な香りを捉え、彼の胃の腑が小さく鳴った。

「……悪くない」

 思わず、独り言が漏れた。ニンニクの匂いひとつで、これほど感情が揺れることに自分でも驚いた。ピーマンと卵を入れて炒め、皿に盛る。粗末な朝食だったが、湯気とともに立ち上る匂いに誘われるように箸を動かした。

 その香りは、彼の記憶の奥底に眠っていた、ある日の夕食の風景を呼び起こした。母が作ってくれた、ニンニクの効いた料理。温かい食卓を囲み、他愛もない話に花を咲かせた、遠い過去の記憶。その記憶は、今の彼とはあまりにもかけ離れた、明るく、温かいものだった。香りが鼻腔をくすぐるたびに、彼の心には微かな温かさが灯り、凍りついていた感情が、ほんの少しだけ溶け出すような気がした。


 食後、優也は再びソファに沈み込む。テレビを点けても、ワイドショーの騒がしさが耳障りですぐに消した。無意識にスマートフォンを手に取り、動画サイトを開く。おすすめに挙がっていた「お笑い芸人のモノマネ特集」をなんとなく再生してみた。

「...。くだらないな」

 画面の中で、芸人が奇妙な動きで有名俳優のモノマネをしている。最初は半ば呆れたような気分で眺めていたが、ふいに、思わずくすりと笑ってしまった。

 その瞬間、彼自身も驚いていた。

(笑ったのは、いつぶりだろう)

 たった一瞬の小さな笑いだったが、胸の奥にぽっと灯るものを感じた。大げさかもしれないが、彼はそれだけで、少しだけ今日を肯定できる気がした。



 昼過ぎ、優也はふらりとSNSを眺めていた。すると、とある書き込みが目に入った。

「動きたくない時は、とりあえずジャンピングジャック一回だけやってみるといい。体が軽くなるよ」

 彼はしばらく画面をじっと見つめていた。ジャンピングジャックなんて中学生以来やったことがない。それでも、試しに一回くらいやってみようか、という気持ちが湧いた。どうせ今は誰も見ていないのだから、と優也は思った。

「……とりあえず、一回くらいならやってもいいか」

 ソファから立ち上がり、屈伸を一つ。息を吸って、腕を広げて跳んだ。ばさり、と体が空気を切る。たった一度、ジャンピングジャックをしただけで息が少し切れた。

「……だめだな、体力」

 彼は自嘲気味に呟きつつも、なぜか嬉しそうだった。たった一回でも、彼の体がぽっと熱を帯びた。優也はソファに戻り、しばらく余韻に浸った。

 その夜、優也はふと日記を書いてみようと思い立った。彼には記録をつける習慣はなかったが、今日は何かを残したい気分だった。彼がスマートフォンのメモアプリを開き、指を動かす。

 202X年X月X日

 面白かったこと:無気力でも、なぜか食欲だけはある自分。 感謝したこと:ニンニクの香ばしさ、物まね動画の意外な楽しさ、自分が少しでも動けたこと。


 書き終えた時、彼の胸の奥に小さな満足感が残った。何もしていないようで、今日は昨日より少しだけ前に進んだような気がした。そうして、優也は静かに目を閉じた。



 次の日も天気は相変わらずだった。だが、優也は昨日より少しだけ早く起きることができた。朝食には昨日と同じようにニンニクを使った。火にかけた瞬間に広がった香りに、彼は今日も迎え入れられたようなありがたさを覚える。

 彼は昼に別のお笑い動画を見て笑い、夕方には昨日より多くジャンピングジャックを試した。わずか三回とはいえ汗がにじみ、息が切れたが、その分だけ体は軽くなった。



「篠原さん、お元気ですか?」

 数日後、スーパーのレジで背後から声をかけられた。振り向くと、近所に住む年配の女性、田中さんが微笑んでいた。

「……あ、はい。まあ」

「最近見かけなかったから、心配してたのよ」

 突然の気遣いに、優也は胸の内が温かくなるのを感じた。

「ありがとうございます。ちょっと調子を崩していて」

「無理しちゃダメよ。若いんだから」

 田中の穏やかな笑顔に、優也はほっと息をついた。

「今日は何を作るの?」

「チャーハンです」

「あら、うちの息子も好きよ。ニンニクをしっかり炒めるのがコツなのよね」

「そうなんですか?」

「ええ。それから最後に少しごま油を回しかけると、香りが引き立つわよ」

「それ、試してみます」

 思いがけない料理のアドバイスに、彼の胸には小さな嬉しさが芽生えた。

「また何かあったら遠慮なく声をかけてね。三〇四号室だから」

「ありがとうございます」

 優也は田中と別れ、雨の中を帰路につく。雨脚は相変わらずだが、以前ほど憂鬱には感じていなかった。

 その夜の日記には、田中との会話と、ごま油を加えたチャーハンの感想が記された。



 一週間が過ぎ、優也の暮らしには小さな変化が芽生えていた。

 朝はジャンピングジャックを二十回。息が切れるものの、以前より長く続けられている。朝食を作り、食べ、動画を見て笑い、日記を書く。それだけの単純な日課が、彼に確かな達成感をもたらしていた。

『今日は何をしようかな』

 そんな言葉がふと頭に浮かび、久しぶりに「明日」を考える自分がいることに気づく。

 そのとき、スマートフォンが鳴った。画面に表示された名前を見て、彼は目を見開いた。

「中村だと?」

 相手は前職の同僚だった。退職後、連絡を絶っていた人物からの呼び出しに、一瞬ためらったものの、何か理由があるのかもしれないと考え、彼は通話ボタンを押した。

「もしもし、篠原です」

「おう、篠原か。久しぶりだな。元気にしてるか?」

「まあ...なんとか」

「実はさ、来週の土曜に、会社の連中で飲み会やるんだ。お前も来ないか?」

 優也は言葉につまった。人と会う気力があるだろうか。しかし、この一週間の小さな変化が、彼に微かな勇気を与えていた。

「...行けるかどうか分からないけど、考えておくよ」

「おう、待ってるぜ。場所と時間はメールしとくわ」

 電話を切ると、不思議と胸がざわついた。恐怖と期待が入り混じる感覚。でも、それは完全な無気力よりもずっと生きている感じがした。



 土曜日の朝、優也はスマートフォンをじっと見つめていた。中村からの飲み会の誘いはまだ返信のないまま通知欄に残っている。行けば久しぶりの再会になるが、空白の時間が大きな壁のように思えて踏み出せない。湿った空気が漂う部屋には、雨上がりの匂いとわずかな不安が混じっていた。

 誘いに応じるべきか否か――

 その逡巡は、心の天秤を左右に揺らし続ける。家を出たい気持ちもあれば、布団に潜ってやり過ごしたい思いも強い。答えの出ないまま時間だけが過ぎ、時計の針が九時を指す頃、玄関のドアが小さく叩かれた。優也が身じろぎすると、ドア越しに微かな足音が静止する。近所付き合いは少ない。来客の理由も心当たりもなく、彼は首をかしげながらスリッパを履いた。

 ドアを開けると、上品なラッピングの袋を抱えた田中が立っていた。病み上がりの若者を気にかけるような温和な表情が、朝の光を柔らかく反射させていた。

「おはよう、篠原さん。これ、うちで作ったクッキー。よかったら食べてね」

 田中の言葉に、優也は瞬時に戸惑いの色を浮かべた。突然の贈り物に驚きながらも、彼女の手の温もりが袋越しに伝わり、胸の奥にじわりと染み込んでいく。

「え、ありがとうございます。でも、どうしてわざわざ……?」

 彼は受け取った紙袋を抱えたまま首を傾げた。バターと砂糖が溶け合った甘い香りが、紙の隙間からほのかに漏れ出す。その匂いは、薄暗い部屋の空気をやわらげ、少しだけ温度を上げた。

「この前、元気なさそうだったから。甘いものは気持ちを明るくするわよ」

 田中が微笑みながらそう告げると、その優しさが言葉の形を超えて、優也の心を穏やかに揺らした。誰にも求められていないと思っていた自分の存在を、静かに肯定されたような気がする。胸の奥で何かがほどけ、目頭がわずかに熱を帯びた。

 優也は照れを隠すように視線を落とし、丁寧に頭を下げた。袋の中でクッキーがかすかに触れ合い、小さな音を立てる。

「本当にありがとうございます」

 田中は深く頷くと、歩幅のゆったりした足取りで廊下を去っていった。足音が遠ざかるにつれ、玄関先には静寂と甘い香りだけが残る。優也は扉を閉め、袋を抱えたままリビングへ戻った。封を開くと、焼き色のそろったクッキーが丁寧に並び、柔らかな光沢を放っている。彼は一枚をそっと摘み、口に運んだ。

「……美味しい」

 バターのコクと程よい甘さが舌の上で溶け、熱を持った甘さが喉の奥へと広がる。途端に、固く閉ざされていた心の扉の隙間から、温かな空気が流れ込んだ。甘い余韻が残る口元をほころばせたまま、優也はテーブルに置いていたスマートフォンを手に取る。

 ディスプレイには、依然として中村のメッセージが光っていた。迷いの声はまだ内部でさざめいているが、クッキーがもたらした小さな光は確かに彼の背中を押す。

〈短時間でも顔を出せばいい〉〈久しぶりに笑ってみるのも悪くない〉

 そんな考えが、かつての同僚たちと過ごした賑やかな夜を思い出させる。

 彼はゆっくりと息を整え、親指で返信欄を開いた。画面のキーボードに浮かぶ文字列が、迷いを押しのけ確かな形を取り始める。

「行くよ。少しだけでも顔を出す」

 送信ボタンを押した瞬間、胸の奥で小さな決意が結晶化した。甘い香りがまだ漂う部屋で、優也は背筋を伸ばし、今夜の予定に思いを馳せる。クッキーの余韻は、彼に踏み出す一歩の甘さと温かさをそっと教えていた。



 居酒屋の入り口で優也は足を止め、肺いっぱいに夜気を吸い込んだ。暖簾の隙間から漏れる笑い声と油の香りが、小さな勇気を後押しする。震えそうな指で引き戸を開けると、店内は仕事帰りの客で埋め尽くされていた。

「おっ、篠原じゃないか! 来てくれたんだな!」

 奥の座敷から手を振る中村の声が響く。懐かしい呼びかけに背中を押され、優也はぎこちなく靴を脱いだ。座敷に向かう途中、視線の端でいくつも知った顔が笑みを浮かべている。足元の畳はわずかに湿っており、空調の風が汗ばんだ襟足を冷やした。

「久しぶり……」

 首をすくめるようにして着座すると、卓上のジョッキから泡があふれ落ちている。湯気の立つ串盛りの香りが腹を鳴らし、胸に渦巻いていた緊張がわずかにほどけた。

「どうしてた? 元気そうじゃん」

 隣から気さくな声が飛び、優也はジョッキを手に取った。揚げ物がはじける音や店員の威勢のいい掛け声が、途切れがちな会話を自然に橋渡しする。仕事の近況や共通の知人の噂が次々と卓にのぼり、笑いのたびに肩の力が抜けていくのがわかった。

「篠原、次の仕事決まったの?」

 不意に向けられた問いで、彼の手はジョッキの中ほどで止まった。湯気で曇る眼鏡越しに中村の表情を探り、正直な言葉を選ぶ。

「まだ……探し中かな。最近ようやく前向きになれてきたところなんだ」

 泡のはじける音がわずかな沈黙を埋めた。箸置きに置かれた串の影が揺れ、照明の淡い光が卓面に複雑な模様を描く。

「そっか。焦らなくていいさ。俺も一度休職したことあるし」

 思いがけない告白に、優也はまばたきを忘れた。陽気で疲れ知らずに見えた男の過去が、不意に自分の隣へ腰を下ろすように感じられる。

「実は俺、昔うつになってさ。三ヶ月休んでたんだ」

「え……知らなかった」

 中村は苦笑を浮かべ、ジョッキを軽く傾けた。炭酸の泡がグラスを駆け上がり、柔らかな照明が溶け込む琥珀色の液体を揺らす。

「言ってなかったからな。でも、少しずつ良くなってきたよ。お前も焦るなよ」

 重さを帯びた励ましが、胸の奥底へ静かに沈んでいく。湯気と笑い声が交錯するこの場で、彼の世界がわずかに色彩を取り戻したようだった。

 店を出る頃、暖簾を揺らす風が生ぬるさを運んでいた。歩道には細かな雨粒がまだ残り、街灯の光をほそく反射している。小雨に濡れたアスファルトが放つ匂いは、幼い頃に感じた夏の夕立を思い出させた。以前は憂鬱の象徴だった雨音が、今夜は少しだけ清々しく耳に届いている。



 一か月後。優也の部屋には、目立たないながらも確かな変化が芽吹いていた。窓際の小さな観葉植物は瑞々しい葉を広げ、本棚には図書館で借りた料理本が肩を並べる。壁には手書きの日課表が貼られ、赤と青のペンで規則正しくチェックが増えていた。毎朝のジャンピングジャックは五十回へと達し、週に二度は川沿いをランニングする習慣が根づいている。田中とは週一でレシピを交換し、ときおり一緒に緑茶をすすりながら味の感想を語り合う。中村とも連絡を取り合い、月に一度の飲み会を心待ちにするまでになった。

(あの頃の灰色が、少しずつ薄まっている) 

 今日、優也は久しぶりに履歴書を書いていた。机上のランプが白い用紙を照らし、ペン先が止まるたび胸がわずかに高鳴る。小さな出版社の編集アシスタント募集を見つけ、幼いころ好きだった読書の記憶が背中を押した。

「どうなるかわからないけど……やってみよう」 

 独り言が静かな部屋に溶ける。窓の外では雨雲が切れはじめ、淡い陽光の筋が街路を照らしていた。優也は深く息を吸い込み、胸の奥に残る不安をそっと受け止める。

(大丈夫、少しずつ進めばいい)

 まだ無気力に襲われる日もあるが、灰色の中に潜む光を見つける術を手に入れつつあった。

 日記帳を開き、今日の出来事を丁寧に綴る。

〈七月十日 雨のち曇り〉

 履歴書を書き終えた誇らしさ、田中から教わったレシピの美味しさ、中村から届いた次回飲み会の知らせ。それらの行に続けて、雨の匂いや窓を叩く音まで愛おしく感じたことを記す。

(雨の日も悪くない、生きている証だ) 

 ページを閉じると、インクの匂いがかすかに立ちのぼる。優也は窓際へ歩み、雨上がりの街を見下ろした。濡れたアスファルトが街灯を映し、静かな輝きを放っている。明日はどんな景色が見えるのか。そう思うだけで胸が少し温かくなった。口元には穏やかな笑みが浮かび、その小さな弧が彼の内側から生まれた光を映している。

(きっとまた躓くだろう。それでも一人じゃない)

 灰色の光は今も隣にあり、歩みを照らし続ける。優也は明日へ向かって、そっと拳を握り締めた。

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