第8話 心に残る傷、それでも前へ
彼女と息子さんと3人で出かける日が、少しずつ日常になってきた。
動物園、公園、回転寿司――子供が喜びそうな場所を選びながら、
俺たちは“家族みたいな空気”を自然にまとうようになっていった。
けれど。
それでも、彼女の中に“踏み出せない何か”があることに、俺は気づいていた。
その日、息子さんを実家に預けて、久々にふたりきりの夜。
近所の居酒屋で軽く飲んだ帰り道、彼女がふと立ち止まった。
「……ねぇ、私、まだ全部ふっきれてないんだと思う」
「うん」
俺はすぐに答えず、静かに待った。
「元旦那さ、外では良い顔する人でさ。だから周りは信じなかった。
でも家では……私が口答えするだけで、怒鳴られて、物投げられて。何度か、腕とかも……」
言葉の端々に、痛みが滲んでいた。
「逃げるの、遅かった。子供が泣くの見て、やっとだった」
「怖かったね」
「うん。……いまでも、誰かが大きな声出すと、体が反応する」
彼女の声が震える。俺はそっと手を伸ばして、彼女の指を握った。
「無理しなくていい。俺は急がないよ」
「……やさしいね。ほんとにさ、こういうの信じられないくらい、優しい」
「“彼氏”って、優しくあるべきでしょ?」
彼女は少しだけ笑った。
「私が今まで知ってた“彼氏”って、違ったからさ」
「じゃあ、これから上書きしていこう。いい記憶で」
しばらく沈黙があった。春の夜風が、少し冷たかった。
「……ほんとはね。もう、進みたいって気持ちもある」
「うん」
「でも、こわい」
「それでいいよ。怖がりながらでいい。俺はずっといるから」
彼女がうつむいたまま、小さく「ありがとう」と言った。
その夜、部屋まで送ったあと、彼女がドアの前でふと振り返って言った。
「“彼女”って、呼んでくれてうれしかったよ。……ちゃんと、そうなりたいと思ってる」
「もう、そうじゃないの?」
「……半分くらい」
「じゃあ、残りの半分も埋めていこう。ゆっくりでいいから」
そのやり取りのあと、ドアが閉まり、静かな夜が戻った。
彼女の過去を完全に癒すことはできないかもしれない。
でも、それでも――一緒に未来を作ることはできる。
俺は、そう信じていた。
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