はじめから
アラームの音で目が覚めた。
まだ寝ぼけている頭に、ビリビリと電子音が容赦なく突き刺さる。
辺りに手を伸ばして、枕の下に隠れていたスマホを掴んだ。画面も見ずに適当にタップすると、けたたましい音がぴたりと鳴り止んだ。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、ぼんやりとした視界に入り込む。
眩しさに顔をしかめながら、しばらくベッドの上でぼうっとしていた。
やがて、重たい身体をゆっくり起こす。
──何か夢を見ていた気がする。
多分嫌な夢だった。
けれど、思い出そうとすると、手のひらから砂が溢れるようにさらさらと逃げていく。なぜか、胸の奥が少しだけざわざわしている。
でも、それが何に対してなのかはわからない。まるで昨日の記憶の一部が、寝ている間にすっぽり削ぎ落とされたような感覚だった。
思考を振り払うように呟いて、ベッドから這い出す。朝食もそこそこに家を出て、駅に向かった。
⸻
大学に着くと、構内はすでに朝のざわめきに包まれていた。
広い教室の後方。空いていた席に腰を下ろす。
トートバッグからノートとペンを取り出すと、教授のマイク越しの声が教室に響いた。
プロジェクターの光をぼんやりと眺めていた。スライドに写された文字も図も、教授の解説も、すらすらとノートに記していく。
集中していないわけではない。
だけど、どこかふわふわと、地に足がつかないような感覚が続いている。
──最後につかさと話したの、いつだっけ。
ペンを動かしていた指が、ふと止まる。
記憶をたどりながら、無意識にスマホへと手を伸ばしていた。
呼びかけというより、確認するように。
ぽつりとその名前だけを送信する。
しばらく画面を見つめていたけれど、何も変わらない。そっと伏せて机に置くと、またペンを手に取った。
⸻
講義終了のチャイムが鳴る。
椅子を引く音や話し声が一斉に広がる。
机の上に置いたままだったスマホが、小さく通知音を鳴らす。
手に取ると、そこには短いメッセージが表示されていた。
──どうした?
文字列を見つめたまま、指先だけが少し動いて止まる。どう返すか決めかねていたら、気づけば講義室にぽつんと取り残されていた。
ポップアップ通知と睨めっこをしながら、
キャンパスの端、木陰に並ぶベンチのひとつに腰を下ろす。
風が抜けるたびに、新緑の葉がさわさわと音を立てている。
とりあえず、今日帰ってくるかきこう。
画面をゆっくりとなぞって、いつも通りの口調を意識して打ち込む。
──かえるよ
直後に届くその短い言葉に、張りつめていた何かがほどけていく。なぜか、ひどく安堵している自分に気付いた。
画面を閉じて、空を仰ぐふりをして目を閉じた。木漏れ日がまぶたを透かしている。
空はまだ白くて、まっすぐに伸びた歩道の先では、誰かが笑っている声がした。
⸻
フライパンから立ち上る湯気を置いて、ひとつふたつと食卓が彩られていく。
テーブルを挟んで、ふたりが座る。
「今日さ、」
箸を止めて、少し首をかしげながら呟く。
つかさはお椀を持ち上げながら、視線だけをはるに向けた。
何か言おうとして口を開いたのに、それが何なのか思い出せなくて、視線が宙をさまよう。
「………あー、なんかぼけっとしてて、教授の説明なんも頭に入らなかった」
そう言って、ごまかすように笑う。
「五月病かも?」
冗談っぽくつけ加えると、つかさは小さく鼻を鳴らした。
「しっかりしろ、もう6月だぞ」
肩をすくめながらも、目元はやさしい。
少し口をとがらせて「は〜い」と返す。
ご飯をひとくち大きめに頬張った。
窓の外はいつの間にかすっかり暗くなってカーテンの隙間から、ぼんやりと街灯の光がにじんでいる。
椅子のきしむ音が妙に際立って聞こえる。
時計の針が、静かにひとつ、時を進めた。
⸻
はっと目が覚めた。
また、嫌な夢を見た気がする。
涼しい季節なのに、冷や汗が止まらない。
携帯で時間を確認する。──夜中の二時。
喉が張り付いたような感覚が気持ち悪い。
冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターはひんやりとしていて、それが喉を通るたび、かろうじて現実に引き戻されるような気がした。
ソファの背もたれに体を預け、天井を見上げる。ぼんやりと、何もない空間を見つめる。
ピンポーン。
丑三つ時に、鳴るはずのない音が耳を打つ。
びくりと肩を震わせた。
(……こんな時間に、誰?)
心臓が、小さくドクンと跳ねる。
慌ててモニターを確認するが、画面は真っ暗で、何の反応もない。……故障?
恐る恐る玄関へ向かう。
廊下は静かで、外の気配もない。
そっと耳をドアに当てる。
何の音もしない。静まり返った夜。
(ほんとに鳴ったよね……?)
ふいに、背後の闇から視線を感じたような気がして、慌てて振り返る。
誰もいない。ただ、じっと、夜の空気が息をしているだけ。
どこからか、風が吹き込んでくる。
冷たくて、生ぬるい風だった。
呼吸が苦しくなり、胸元の服をぎゅっと握りしめる。
ギシ──
床が、かすかに鳴る。
その音に、心臓がまた跳ね上がった。
──ピンポーン。
再び、鳴る。
(あれ……わたし、これ知ってる……?)
胸の奥が、ざらりと音を立てた気がした。
既視感とかではなく、もっとこう──染みついて、剥がれなくなった記憶。
忘れてはいけなかったはずのもの。
(なにを、忘れてるの……? わたし、なにかを、)
この先に、その答えがある。
そんな気がしてならなかった。
深く息を吸い込んで、ロックに指をかける。カチャ、と小さな音がして、それだけで手が少し震えた。
(こわい……でも、開けなきゃいけない気がする、)
ドアノブにそっと手を添える。ひんやりとした金属の感触が、指先からじわじわと冷たさを伝えてくる。
「はる」
扉の向こうから、聞き覚えのある声がした。
「開けちゃダメだ」
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