はじめから②

外の空気が、ぬるく入り込む。

夜の匂い。アスファルトの湿ったような匂いと、かすかな土の香り。


視界に、影が落ちた。


──そこに、いた。


月明かりが細く差し込んだ先に、誰かが立っている。変わらない立ち姿。変わらない、目の奥に曇りを抱えたまなざし。


でも、ほんの一瞬、その奥がかすかに揺れた気がした。


「つかさ………?」


すぐに、胸の奥がざわりと波立つ。

違う、違う。これは、おかしい。


胸の奥がどくんと跳ねた。


その頭部から、額から、真っ黒に変わりかけた血が、顎を伝いぽたぽたと足元に滴っている。顔の左側は血で覆われ、どこが傷口なのかすら判別がつかない。


顔だけじゃない。袖は裂け、布の繊維がほつれて垂れ下がっている。

胸元には擦れ跡が広がり、地面に強く押しつけられたように、生地が歪んでいた。

膝のあたりは黒く焦げたように汚れていて、ところどころ、繊維が焼けたように固まっている。

頬や首筋、手の甲には、乾いた血が薄くこびりついていて、ただ立っているだけのはずなのに、あまりにも静かで、不自然で、まるでそこだけ時間が止まっているみたいだった。


そして、もっとも異様だったのは

──彼の左腕だった。


その腕は、明らかにおかしかった。

肘の関節が通常とは逆の方向に折れ、肘から先がだらりとぶら下がっている。

力が入っていないのではない。

骨そのものが砕けているんだ。


それでも、彼は立っていた。

真っ直ぐに、こちらを見て。


(……知ってる、この姿…どこかで)


呼吸が詰まる。心が追いつかない。

立っているのは、まぎれもなくつかさだった。


目を背けたくなる。

でも、なぜか、目を逸らせなかった。


血で濡れた頬にわずかに浮かぶ。

悲しそうに笑って、どこまでも優しげに見つめている。


「……ダメだって言ったろ」


易しく諭すような声音。

低く、穏やかで、いつもと変わらないはずなのに、どこか、遠くから聞こえているようにぼやけている。


手が震える。

足元から冷たい何かが這い上がってくる。


どうして。なんでそこにいるの。そんな姿で。


言葉にならない言葉を抱えたまま、ゆっくりと手を伸ばした。

触れたい。そこにいるのなら、確かめたい。

その姿が幻でも、夢でも、それでも。

そんな気持ちだけが先走る。


指先が、つかさの袖に触れかけた。

そのとき──


「……来るな」


ほんの少し強く、拒むように低く告げる。

かすれた声と、目が、わずかに伏せられる。

それは、言葉にならない後悔のような何かを、諦めてるように見えて。


瞬間、すっと世界が傾いた。

足元の床が抜け落ちるような感覚。

息が詰まり、景色が揺れ、真っ暗な何かが視界を覆っていく。


その姿が、遠ざかる。

声も、光も、もう届かない。


落ちる。


そう思った瞬間には既に何も見えなかった。


音もなく、身体が、意識が、闇に吸い込まれる。深く、冷たい底へと沈んでいく。



── 気づけば、教授の声が耳に飛び込んできた。ハッとして白いスクリーンに映る文字を見て、慌ててペンを握る。


一瞬遅れて、自分がどこにいるのかがはっきりしてくる。講義室。周囲のざわめきとプロジェクターの音。


安心しかけたそのとき、ふと手を止める。


……夢?


なに、いまの。


胸の奥が妙にざわつく。

頭の中にこびりついたあの赤い色と、血の匂い。それと、誰かの声。


それが、まだ指先に残っているような気がして、思わずかすかに震えている自分の手を見下ろした。


普段と何も変わらない。

けれど、妙に胸の奥だけが、

締めつけられるように痛かった。

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