午後4時、雲の下

「オカ研の子たち、カフェにいるってさ」


大学の門を抜けてすぐ、汐見がスマホから目を離さずに告げる。

つかさは軽く頷いて、並んで歩き出した。


傾いた陽が、アスファルトをゆるく照らしている。少し冷えはじめた空気が服のすき間を抜けていく。


夕方の街に沈黙が落ち始めていた。


いつもなら人通りの多い交差点。

ふと、つかさの視線が少し先を歩く小さな背中に吸い寄せられた。


歩き慣れたようすでその人は、何も気に留めることもなく、だれもいない横断歩道へと足を踏み出している。

風に煽られ、栗色の髪が揺れる。


(……はる?)


心の中で名を呼ぶより早く、視界の端に異質な気配が割り込んでくる。


交差点の角。曲がり角の死角から、不自然なスピードでトラックが進んでくる。 


赤信号を無視して、右折のウインカーをだしたまま。

交差点を渡るその子のことなど眼中にないかのように。 


明らかに速すぎる。

減速の気配がまるでない。


冷たい感覚が、背筋を走る。


「……嘘だろ」


思わず漏れたつかさの声に、汐見が顔を上げる。

風を裂く音が、鼓膜をひやりと撫でた。


「……っ、はる!!」


頭より先に、身体が走り出していた。

間に合うかどうかなんて、考えている余裕もなかった。


はるは、まだ気づいていない。

すぐ背後から迫る危険なんて微塵も感じていない。


迫ってくる轟音に、空気がひきつれる。


(──間に合え、頼むから)


腕を伸ばす。

差し出した手が、はるの背中に触れる。

その小さな身体を、力任せに思いきり押し飛ばした。


衝撃が、世界の色を跳ねさせた。



世界が、裏返ったかと思った。


地面に叩きつけられた感覚がして、頬が焼けるように熱い。

見えていた景色が灰色で埋めつくされる。


頭の中がチカチカと明滅している。

視界も揺れていて、焦点が合わない。


何が起きたのかもわからず、ただ茫然としていた。

膝から、手のひらから、血がぼたぼたと垂れているのを見ても、痛みも感じない。

ただ、心臓だけが狂ったように鳴っていた。


誰かが、わたしを呼んでいたような気がする。


足音。叫び声。怒鳴り声。

どれも、水の底から聞こえてくるみたいに遠く、籠もっている。現実味がなくて、まるで遠い別の世界の音のよう。


騒ぎの方へと振り返ると、交差点の縁に、トラックが停まっていた。

急停止したであろうその車体は、やけに無機質で、冷たい。


その向こうには、人だかり。

地面に誰かが倒れているのが、かろうじて見えた。


人の波が遠巻きに漂っている。

自分の鼓動の音だけが、不自然に耳に響いている。


その人は、信じられないくらい静かで、ぴくりとも動かない。


視界が滲む。

胸の奥がざわめいて、喉が乾いてうまく呼吸ができない。まるで地面に縫いとめられているように、足も動かない。


それでも、這うようにして

一歩ずつ、近づいていく。


嫌な、予感がしていた。


地面に広がる赤い色。

揺れるように伸びた影。

投げ出された靴と、歪んだ携帯。

そのすべてを、なぜか知っている気がする。


誰かが、はるの肩を掴んで止めようとする。

何かを言っている。でも、聞き取れない。


「つかさ!!」


誰かの声が、頭に割れるように響いた。

その名が呼ばれた瞬間、はるの胸の中で何かが砕ける。


視線が吸い寄せられる。

倒れているのは──


「つかさ………?」


まさか。ありえない。違うはずだ。


「うそ。……うそ。……なんで?」


呆然とつぶやく。

頭が追いつかない。

どうして?

どうしてここにいるの?


ぼやけた視界の先に、見慣れた服。

今朝、風に揺れていた袖を見た。

だらりと地面に落ちた指先だけが、違った。

でも全部が、知っているものだった。


頭の中が真っ白になっていく。

心臓だけがずっと悲鳴のように叫んでいる。

耳鳴りのように、響いている。


動かないで、と止める誰かの手を振り払って、その身体に駆け寄った。


頭から血を垂れ流しながら、つかさは静かに横たわっていた。まるで寝ているみたいで、血に濡れた手で、その頬に触れる。


冷たい。冷たすぎる。


「やだ、……やだ、つかさ……おきて、」


何度呼びかけても、揺すっても、なんの反応もない。息もしていなかった。


気づけば、その顔にも、はるの手にも、血がべったりとついている。どちらの血なのかもわからない。


声にならない叫びが、胸の奥で音を立てて崩れていく。

現実が迫ってくるのに、心だけが拒み続けていた。


その瞬間、微かな電子音が聞こえた気がした。どこか遠くで──サイレンなのだろうか。それが近づいているのかさえわからない。でも、もう、どうでもよくて。


視界の端が、ゆっくりと暗く沈んでいく。


音も色も、すべてが吸い込まれるように消えていった。


──戻さなきゃ。


小さくこぼした言葉は、誰にも届かない。

世界が崩れる音が、確かに聞こえたんだ。

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