曇り空
小さく、小脇に咲いていた花に視線を落とす。午後の陽射しはやわらかく、まだ湿気も重たくなりきらずに、どこか初夏の余白を残している。
ちょうどそのとき、細かな枝葉を揺らすような軽い足音とともに、木々の向こうから聞き慣れた声が届く。
「お待たせしました。ちょっと長引いてしまって」
部長が手をひらひらと振りながら姿を現した。どこかでひっかけたのか、スラックスの裾には、草の実がいくつかくっついている。
笑いながらそれを払う様子が、どこか牧歌的で、肩の力が抜ける。
「汐見さんですか?」
そう尋ねると、部長は「うん。よくわかりましたね」と目尻を下げ、手にしていたスマホをポケットへと戻した。
「汐見くんのお友達が、なにやら聞きたいことがあるようでね。……ふたりとも、先に大学に戻ってくれる? 僕はもう少し、ここで調べていくから」
「はーい、わかりました」
なぎが軽く応じる。声の調子はいつも通り明るく、どこか気持ちを切り替えるような軽やかさがあった。
続けて、るいも「はぁい」と少し間延びした調子で、手早く資料を鞄へと収めていく。
「あとで合流します。話、聞いてあげてね」
そう告げる部長の声に、なぎが小さくうなずいてからふと後ろを振り返る。やわらかく首を傾け、顔をのぞきこむようにして問いかけた。
「るい、大丈夫だよね?」
その視線を感じて、わずかに眉を寄せた。返事をするまでに、ほんの短い沈黙が挟まる。
「……たぶん」
肩に鞄をかけながら、どこか自分に言い聞かせるように呟く。声の端に少しだけ頼りなさが混じるが、それでも歩き出す足はしっかりと地を踏んでいた
ふたりは来た道をゆっくりと戻り始めた。背中越しに聞こえる鳥のさえずりにまじって、空の一角を、重たげな雲が静かに覆い始めていた。
⸻
部長から『カフェで待っていてくださいね』とだけ書かれたメッセージが届いたのは、駅の改札を出てすぐのことだった。
ふたりは顔を見合わせて、ゆるい足取りで人の波から離れる。
向かったのは、歩いて十数分ほどの場所にある、見慣れたカフェだった。
テーブル席の窓際。午後の光が斜めに差し込んで、木の影が床を揺らしている。
「いっぱい歩いて疲れた〜……」
そう言って、るいがソファの背にもたれるようにして体をゆるめる。ぐでんと両足を崩して座って、鞄が肩から滑り落ちる。
「スニーカーにすればよかったのに」
メニューを手にしたなぎが、ちらりと足元に目をやる。ソファにもたれたまま、同じように目線だけ動かしてばつが悪そうに笑った。
「何も考えずに履いちゃった」
視線の先には、薄い生成り色をしたぺたんこのパンプス。
さらりとした涼しげな素材で、舗装されていない道や神社の参道にはいささか不向きに見える。小石とか踏んだら痛そう、とどこか他人事のように思う。
なぎはくすりと笑って、手にしていたタッチパネルを軽やかに閉じる。
そのまま自然な動きで顔を上げ、タイミングよく近づいてきた店員に声をかけた。
「カフェオレとアイスティーお願いします」
言い慣れたような口調で、迷いもなく二人分の注文を済ませる。
本人がメニューを見て迷う前にとさっと決めてしまうのも、もう日常のひとつだ。
「ありがと〜」と気の抜けたような声が、ふと窓の外に意識を向ける。
先ほどよりも雲が目立つ空を見上げている。
「…雨ふるかな?」
「んー、降りそうじゃない?」
なぎも同じように窓の外を見て、空の色をじっと見定めるように眺めた。
「通り雨かもね〜」
店員が静かに近づいてくる。
テーブルに、コツンと小さく響くガラスの音がふたつ。
「かさ持ってる?」
るいがアイスティーを一口飲んで、ぼんやり窓の外を見つめ続けながら問いかける。
「大学に置いといたやつあるかも」
「わたしも、折りたたみ置いてる」
「じゃあ大丈夫だね。最悪、大学までは走ればなんとかなる」
頷いて、ふとテーブルの端に視線を落とす。
なぎが笑い混じりにそう言うと、るいもつられるように小さく笑った。
「走るのやだ。なぎ先にいっていいよ」
「じゃあ、一緒に濡れて歩こうか?」
「仲良しか」
店内には静かな音楽が流れていて、スチーマーのやわらかい音が時折重なる。外はほんのりと暑いが、冷房の風が足元でさわさわと揺れていた。
たわいない言葉を交わしながら、ふたりの空気はゆるやかに溶けていく。
── 突然、外から、何かが激しくぶつかる音がした。
金属の軋むような、重たい音だった。
数瞬の間、店内のざわめきが一斉に止まる。
「……何、今の音」
ふと眉をひそめて、窓のほうに目をやる。
びくりと全身を震わせ、そのまま固まっていたるいも、やがてソファから半身を起こして、おそるおそる音のした方角を探すように首を傾けていく。
「……事故、かなあ」
その声も、どこか現実味を帯びていない。
でも外の空気だけが、少し濁って見える。
氷がカランと軽快な音をたて、
ガラス越しに、きらきらと溶けていく。
その日、いつまで経っても汐見たちは現れなかった。
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