定点観測
研究室へと続く階段を上がりながら、ふと後ろを振り返る。誰もいない。ただの思い過ごしだ。そう思い直して、足を止めずに進む。
ドアを開けると、部屋の奥から安藤がちらりと顔を上げた。
「お、つかさ。珍しく遅いな」
「わるい。ごたごたしてて」
部屋に足を踏み入れる。目線は無意識に、窓際のいつもの席を探していた。
「汐見は?」
「今日はまだ見てないけど、連絡したん?」
「電話、出ないんだよ」
ぼそっと答えて、窓の外にちらりと目をやる。
「ちょっと探してくる」
肩にかけたバッグを軽く持ち直す。
「おー」と気の抜けた返事と共に安藤はパソコンに向き直る。
扉が閉まる音が静かに響いて、つかさの足音が廊下にのびていった。
⸻
中庭をぐるりと見回して、つかさは足を止めた。
陽のよく当たる場所は空いているのに、大きな木の下──その木陰のベンチだけが、ひっそりと占領されている。
近づいてみると、ベンチにはひとり。
手にしていた分厚い本を顔に乗せて、無防備に寝息を立てている。
片足はベンチから投げ出して、もう片方は折りたたむようにして。いつもの気怠そうな空気もそのままだ。
つかさは足音を殺すようにゆっくりと近づいて、ベンチの端に立つ。
しばらくそのまま見下ろしてから、低く呼びかけた。
「……汐見」
うっすらと目を開け、ぼんやりと声のする方へと意識を向ける。
本が滑り落ちて、顔を隠すのをやめた。すぐに目が覚めたわけではなさそうで、少し寝ぼけたような表情が残っている。
「………つかさ?」
やっと声を出して、眠そうに体を起こす。
腕を伸ばして軽く背伸びをすると、肩に乗っていた本が完全に落ちて、地面にパタリと音を立てた。
「なに?何か用?」
目をこすりながら、首を傾げる。
つかさはあきれたようにため息をつきながら、地面に落ちた本を拾い上げ、ぱたぱたと軽く払う。
「…おまえが探してたんだろ」
その言葉に、汐見は少し驚いた顔をして、「は?」と、目を細めてつかさを見上げるが、すぐに納得したように手を伸ばして本を受け取った。
「ああ、そっか。忘れてた」
汐見は寝ぼけたまま、ボソッとつぶやくと、再び背中をベンチに預けて身を沈める。
「…つかさのほうが、俺に用があるんじゃないの?」
低く静かな声。問いかけというより、事実確認のように。
「は?」
思わず聞き返す。
見下ろした視線の先、汐見はまばたきもせずこちらを見ていた。
眠気はすでに抜けていて、鋭い目だけがじっと射抜いてくる。
ざあっと風が吹き抜ける。大きな木の枝が揺れて、葉の擦れる音が耳に残った。
少し離れたところから、学生たちのたのしそうな笑い声が風に乗って届いてくる。
見透かすような視線に、しばらく黙ったまま、空気の揺れる音を聞いていたが、やがて低く問いかける。
「おまえ、怪奇現象に詳しいか?」
汐見は「へーえ?」とでも言いたげに、片眉をわずかに上げた。
日差しを遮る葉の影が、頬にゆらゆらと揺れている。
「……全然詳しくないけど?」
とぼけた口調のわりに、目だけは探るようにじっとしていた。
つかさは眉ひとつ動かさずに、はっと息を吐いて言葉を返す。
「嘘つけ。最近オカルト研究会かなんかに入り浸ってんだろ。教授がぼやいてたんだよ」
その言葉に、汐見は少しだけ目を伏せて鼻で笑った。だがすぐに顔を戻し、肩を軽くすくめながら言う。
「……知ってんのに、わざとかまかけてくんの、なに?」
口調は軽いが、その視線の奥にはわずかに警戒のようなものが滲んでいる。
風がまた一度、木々をざわつかせた。
「……詳しくないならいい」
少し視線が外れる。声の調子は変わらないはずなのに、どこか冷えていて。
言葉の端々に、わずかな苛立ちが混じる。
そんな空気を感じ取ったのか、まるで何かを測るように、ほんの一瞬だけその様子を静かに見つめている。
つかさの目の奥に、怒りでも困惑でもない、何か別の感情があることに気づいたのかもしれない。
もう一度、なにかを考えるように木々を見上げて。
「そういうの詳しいやつなら知ってるけど」
思いついたような口調だった。
考えあぐねた末の答えというより、ふいに浮かんできた記憶を、ぽつりと差し出すような言い方で。
その声に、つかさはふと顔を上げる。目が合ったわけじゃない。けれど、あえて目をそらしているような仕草に、胸の奥がわずかにざわついたような気がした。
「気になるなら来てみれば?オカ研」
――ざあざあとなびく風が、揺れる木々が、耳にまとわりついてうるさい。
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