夢なんかじゃない
何かを言いかけたつかさも、木々のざわめきも、すべてを遮るようにポケットから電子音が響いた。
彼はわずかに眉を動かながら、画面を確認する。
汐見がちらりと手元を覗きこんだ。
そのまま応答をタップすると、電話口の向こうから慌ただしい雑音が飛び込んでくる。
『もしもし、つかさ?汐見いた?』
『いたよ』
安藤の声はいつもよりせわしなくて、どこか焦りを含んでいた。
『どうした?』
『教授から呼び出し!汐見も連れて戻ってきてくれ』
『わかった。すぐ行く』
通話終了の表示と共にテロンと軽快な音が流れた。
淡く揺れる木漏れ日が、彼の頬にまだらな影を落とす。風にそよいだ葉の音だけが辺りを包んでいる。
「なんだって?」
「教授が呼んでる。おまえも一緒に来いってさ」
何気なく尋ねると、つかさはポケットにスマホをしまいこみながらそう答えて、振り返ることなくさっさと歩き出す。
「えー……面倒なんだけど」
あからさまに不満を漏らしても、まるで聞こえていないかのように歩みを止めない姿に、汐見は小さくため息をついて渋々その背中を追うように歩き出した。
舗装されたキャンパスの小道を並んで歩くふたりの間に、しばし沈黙が流れる。
──交わることのないはずの思考が、どこかで静かに接触しているような、そんな気がしていた。
研究棟へ向かう彼らの影に、枝先からこぼれた若葉が一枚、ひらひらと落ちて重なる。
⸻
研究室に入ると、安藤が何か書類をまとめているところで、つかさたちを見ると「ごめん!あとは頼む」とだけ告げて足早に去っていく。
ドアが閉まる音と同時に、部屋に静寂が戻る。
散らかった机の上に残された資料を、黙々と片付ける。重ねられた紙の端をそろえながら、ファイルに収めていく。
部屋の隅のプリンターがいつの間にか作動している音を聞きながら、つかさは席に着き、ノートパソコンを起動する。
室内には、紙をめくるかすかな気配と、流れるようなタイピング音だけが満ちていた。
どちらも言葉を交わさないまま、目の前の作業に集中している。
言葉にならない思考が、淡々とデータの中へ沈んでいく。
⸻
「で、さっき言ってた怪奇現象って、なんなの?」
しばらくして、紙の束がトレイに落ちる軽い音を背に、ふと話題を戻す。汐見は椅子にもたれ、コーヒーのマグカップを手にしながら問うた。
つかさは、ノートパソコンの画面から目を離さずに、指だけを止めた。数秒の間、無言のまま思案するように沈黙が流れる。
視線はなおも画面に向けられたまま、やがて小さく息を吐いて答えた。
「……深夜にインターホンが鳴った。それだけなら、まあ済ませた。けど、ドアノブをずっと回してたり、叩いたり。……あぁ、後、ひっかくような音もしてたな」
視線を伏せたまま、静かに言葉を継いでいく。声の調子は淡々としているが、その奥には微かな警戒がにじんでいた。
汐見は「ふうん」と気の抜けた声を出しながら、マグカップをテーブルに置く。
陶器が天板を打つ、乾いた音が部屋に跳ねた。
「不審者じゃない?」
彼は眉をわずかに上げ、首をかしげてそう答えた。
「エントランスはカードキーをかざさないと開かない仕組みなんだよ。……まあ、部屋を間違えた可能性もあるけどな」
そこまで言って、つかさは言葉を区切った。
カチ、カチ、とマウスをクリックする音だけが短く続いた後、不意に動きが止まる。
「ただ、」と低く付け足すように呟いた。
「モニターにな、映ってんだよ。黒い影が」
声のトーンがわずかに落ちる。部屋に流れていた静けさが、ぐっと色濃くなり、汐見がかすかにたじろいだのがわかった。反応を飲み込んで、言葉を選ぶように沈黙が流れる。
「……それ、録画残ってる?」
軽い声とは裏腹に、視線だけがじわりと深く沈む。冗談では済まないと察したのか、さっきまで気の抜けたようにマグを傾けていたのが嘘のように、目の奥に宿った光がほんの少しだけ鋭くなる。
「いや、」
視線は少し下を向いて、何かを躊躇うように、軽く息を吐いた。
ほんの短い間に何かを測るように黙りこむ。
それは、説明することよりも、"正直に言う"ことに引っかかっていたようにも見えて。
まるで、どの言葉なら嘘にならないかを探っているようだった。
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