停滞する
プロジェクターの光をぼんやりと眺めていた。スライドに写された文字も図も、教授の解説も、すらすらとノートに記していく。
びっしりと書き込まれたページをめくる。
カチ、カチと指先でペンをノックする音がやけに大きく聞こえて。
その音が、まるで何かを呼び覚ますかのように記憶を揺り動かしていた。
***
──朝、目が覚めてリビングに行くと、つかさはいつも通りだった。まるで何事もなかったかのように、淡々と朝食を作っていた。
「おはよう。ごはんできてる」
はるは小さく挨拶を返し、促されるままに椅子を引く。あれは夢だったのか、それとも現実だったのか。どんどんと記憶があやふやになっていく。
きのう、と言いかけてやめた。
つかさは何も聞いてないと言っていた。
それなのにこれ以上なにを尋ねたいのか、聞いてどうしたいのか自分でもわからなくて、黙ったまま箸を取る。
「今日、何限から?」
「……3限」
ごくんとごはんを飲み込んでから、問いかけにこたえる。
つかさは、手元の腕時計に視線を落とした。
文字盤を覆うガラスが、朝の光をうっすらと弾いている。
「……つかさは?もう出る?」
ためらいがちな口調に、自分でも、不安を隠しきれていないのがわかる。
かちり、と目が合う。
つかさはわずかに首を傾けるようにして、はるを見つめた。
「いや、一緒に行く」
柔らかく、けれど迷いのない声。
その返事に、はるは思わず「…へ?」と声が出る。意外だった。てっきり「先に行ってる」と言われると思っていたから。
「俺も遅いから。大学、一緒に行こう」
まるで、最初からそう決めていたかのように告げる。
(…2限って言えばよかったかな)
そんなことを思いながら、
こくりと頷いた。
⸻
ふたりで並んで家を出る。
春の空気はまだ少し冷たくて、通りを吹き抜ける風が、シャツの裾をふわりと揺らした。
歩幅を合わせるようにして、つかさがほんの少しだけペースを落としてくれる。
まだ、あの夜のことは頭の片隅をぐるぐると巡っている。
けれど、隣を歩くつかさの横顔を見ていると、心に滲むざわめきが少しだけ静まっていった。
「今日、寝坊しかけてただろ」
不意に、つかさが口を開いた。
はるは一瞬きょとんとして、すぐに小さく笑う。
「……バレてた?」
「アラームの音聞こえなかったからな」
つかさがわずかに口元を緩めて言うとはるは肩をすくめて苦笑いを浮かべた。
二人の間に流れる空気は軽く、気負いのないものだった。
緩いやりとりを続けながら、やがて大学の構内へと足を踏み入れる。
ちょうど昼休みの時間帯で、ベンチではグループで談笑する学生たちの声がにぎやかに広がる。芝生の上には教科書を開いて眠ってしまったらしい学生の姿も見える。
澄んだ春の光が、建物の白い壁と新緑の並木を明るく照らしていた。
ふと、ふたりは敷地の入り口で足を止めた。
足元には、木漏れ日がまだらに落ちている。その光を浴びながら、はるはつかさを見上げた。
「じゃあ、あとで連絡する」
つかさが軽く手を上げる。小さく頷き返す。
広い教室の後方。空いていた席に腰を下ろす。
トートバッグからノートとペンを取り出すと、教授のマイク越しの声が教室に響いた。
***
── 気づけば、教授の声が耳に飛び込んできた。ハッとして白いスクリーンに映る文字を見て、慌ててペンを握る。
置き去りにされた時間を埋めるようにノートに書き込んでいく。
今にも遠ざかってしまいそうな何かに縋るように、まるで、それだけが繋ぎとめる手段だとでもいうように。
ふとペンを走らせるのをやめた。
前の席の学生が、静かに背中を伸ばして椅子にもたれかかる。淡い色のシャツがふわりと揺れて、また元に戻る。その何気ない動きが、なぜか目に残る。
窓の外には、木々が風に揺れているのが見える。枝がかすかに震え、落ちる影がゆらゆらと形を変える。遠くを流れる雲を見ていると、ここだけが取り残されたような気がした。
日常は、何事もなかったかのように進んでいく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます