気のせい?

「はる」


ふいに声が落ちてくる。

その声に思わず肩を揺らした。

おそるおそる振り返ると、そこにいたのはつかさで。


ぼんやりとした薄暗い廊下の中で、いつもと変わらない寝起きの姿だけが、現実の世界へと引き戻してくれるようだった。


パチ、とリビングの明かりをつけ、その眩しさにつかさは目を細めながらゆっくりと、目線を合わせるようにしゃがみこむ。


「……どうした?」


はる、と呼びかけた声は硬く、焦りがにじんでいたが、問いかける声は驚くほどに優しい。不安も、恐怖も、すべて包み込むとでもいうように。


張り詰めていた心の糸が、ぷつりと切れる。

堰を切ったように、涙がぼたぼたと頬を伝った。


「…つかさ、そと、そとに、なんかいて、」


途切れ途切れに、さっきまで起こったことを伝える。ドアの向こうに覗く"目"のこと、ドアノブを揺らす音、叩く音のこと。すべて。


つかさは何も言わずに静かに耳を傾けていた。やがて立ち上がると、そっとドアに近づく。


その背中にはどこか迷いが見えたような気がした。ひと呼吸置いてから、そっと覗き込む。


しばらくしてこちらを振り返った。


「……なにも、いないけど」


ただ静かに告げる。

疑ってるわけでも、嘘をついているわけでもないのは、声音でわかる。


(そんなはず……だって)


そのままモニターも確認し、異常がなかったのか、黙ってはるをソファに連れていく。


「ピンポン鳴ったよ、ドアもガチャガチャしてた、叩いてたの!つかさ、聞こえてないの?ほんとに…?」


焦りながら捲し立てるのを宥めるように、静かに首を振った。


「俺は、聞こえなかったよ」


短く、でもはっきりと。


──そんな。


「なあ、はる。夢、見てたんじゃないか?」


言葉は穏やかで、疑うような色はどこにもなかった。けれど、その声の奥には、わずかな迷いが滲んでいるのが感じられて。


つかさはほんの一瞬、視線を外して、何かを考えるように沈黙した。


夢と現実の境界が曖昧になっているような、そんな感覚に囚われたのは、きっと自分だけじゃないはずだ。


「……酔っ払いの可能性もあるけどな」


つかさは、そう言いながら、涙で濡れた頬にそっと触れた。

指先が少しひんやりしている。


「うそ、うそだ。だって、ほんとに聞こえて……」


言葉を紡ごうとするたび、震える声が喉の奥で引っかかる。

訴えたいのに、何をどう言っても、きっと信じてもらえない。そんな気がして。


「ゆめ?わたし、ゆめみてたの…?ほんとに?」


縋るようにつかさを見上げる。ほんとに?


何も言わず、ただそっと引き寄せる。

肩越しに感じる腕のぬくもりが、後頭部を支えるように回された手が、かえって不安を引き立てる。


現実がここにあるのに、たしかにあったはずの恐怖も、まだ、すぐそばにまとわりついているのに。聞こえていたのに。 


あの不気味な目。

耳元で鳴った、あの異様な音。

それが夢だったなんて、どうしても思えない。ほんとに、夢だったのか。


「……大丈夫だから」


つかさの声が、頭の上から落ちてくる。 


その声の裏には、どこか自分に言い聞かせるような力が込められていて。


大丈夫?

本当に、大丈夫?


胸の奥に、まだぬめるような不安が渦巻いている。けれど、つかさの胸にすがるしか、もう逃げ道もない。


身体の震えが止まらないまま、ぎゅっと目をつむる。

暗闇に沈む瞬間、ドアの向こうの気配をまた思い出して、反射的に体が強張る。


(ほんとに、夢じゃないのに…)


ふいに、視界を遮られて。

目の前に広がる世界から、まるで何かを隠すように、閉じ込めるようにそっと覆われる。


「……もう寝な」


低く落ち着いた声が、耳元にふわりと降りてくる。目を塞がれたことで、世界がよりいっそう暗くなった。


でも、この暗闇は不思議とこわくなくて。

あやすように背中をぽんぽん叩かれて、徐々に意識が溶けていくのがわかる。


──きっと、なにもかも夢だったんだ。

そう言い聞かせるように、静かに意識を手放していった。


つぎは、嫌な夢を見ませんように。

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