昼下がりの高校

《ここまでの話》

黒猫レヴナントが喫茶Paradisoから姿を消した。

偶然出会った黒人の、声帯の無いろうあ者のおばあさん、「ミセス・ウィークエンド」の占いに従って、「私」たちは猫を探し始める。

魚釣り、ペットボトル・ロケットの打ち上げ、ニトリでのバグ技じみた行為――色々あった末、占いが示す「すべき事」はこれで完遂した。

黒猫は見つかるのか。そして端々で見え隠れする、ミセス・ウィークエンドの本当の姿とは。


主な登場人物

・ツムギ(私) 

Y市の高校一年生。新作ゲームにうつつを抜かし、年末の中間テストで散々な結果を残した。

・ケイ(長良 景子)

Y市の高校一年生。「私」のクラスメイト。くせ毛気味の黒髪ショートヘア。ちっこい。いつもやる気の無いジト目と平坦な声をしていて、何を考えているのか分かりづらい。

・サキ

Y市の高校一年生。「私」たちのひとつ隣のクラス。良く下校時に二人に置いていかれる。長い金髪をポニーテールにしている。スラッとしていて、朗らかな笑顔と目の持ち主でクラスの人気者。喫茶店Paradisoの店主の娘で、忙しい時は店の手伝いをする。喫茶店で黒猫レヴナントを飼っている。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 マクドナルドから出て通学路を行く最中に、私は担任に電話を入れた。


「ご心配かけてすみません。今、学校に向かっている所です」


 私がそう伝えると、「大丈夫ですか?」と、担任の先生の丸っこい声が返ってくる。


「連絡を受けた先生から登校が遅れるとは聞いていましたが――体調が優れないとか?」

「いえ、ちょっと家庭の事情がありまして。ええ、もう大丈夫です、もう解決しましたから」

「そう、無理しないでね?」

「ありがとうございます」

 電話を切ると、高校は目の前だった。私は心のなかで、担任の先生の言葉を繰り返した。無理しないでね。私は、自分が最近サキちゃんに同じ言葉を伝えていた事を思い出した。


 学校はちょうど昼休みの時間だった。私が教室の扉を開けると、何人かの生徒の意外そうな顔つきに迎えられる。彼らは各々のグループに別れて座り、お昼ご飯を食べていた。それぞれの独立したコミュニティからランダムに選ばれたであろう代表者が、不思議そうに私を見つめ、それにつられて他の所属者も義務的に――あるいは反射的に――こちらに顔を向けた。

 だがそれも少しの間だけだった。この出来事自体、手応えがイマイチだった不出来なトピックスのひとつとして処理されたのか、彼らはすぐに視線を元に戻し、やがてそれぞれの興味ごとの中へと帰っていった。


 ケイは窓際の自分の席に突っ伏して寝ていた。一番奥の最前列でグループを形成するれいちゃん――クラス一の人気者――彼女に至っては、私が教室に入ってきた事にも気が付いていなかった。

 きっと私が欠けたまま朝のホームルームが始まっていた事にも気が付いていないだろう。それに何か思う所がある訳でも、不満がある訳でも無かった。

 仮に彼女と私が逆の立場になっても、私も半日間、その事実に気が付かないかもしれない。フツーの現象。そしてそれはこの教室にいる人間の大半も同じ生態系を持つ。教室の外もきっとそうだった。

 それぞれの正しい「つながり」――私はミセス・ウイークエンドが言っていた言葉を、心のなかで呟いた。きっとそういう事なのだろう。


 私が席に着いて、弁当を出そうとカバンの中を覗いていると、誰かが近づいてきた。顔を上げると、れいちゃんがいた。クラスの人気者。私はほとんど会話をしたことのない相手。

 彼女は私を見て口角を上げ、私の肩を軽く二度叩く。

「お疲れぃ、何かあった? まあいいや! 午後からでもガッコ来るの、めちゃ偉いじゃん。アタシには出来ないね!」

 一方的にそう言った後、彼女は私の対応も待たずにただ一言、「じゃね!」とだけ言い残して、再び自分の生み出した輪の中へと去っていった。

……世の中はそう単純なものではない。私は彼女とクラスメイトに心のなかで謝った。


 そうこうしていると、今度は月宮さんがやってきた。長い黒髪が眩しい。

「おはよう。学校来て大丈夫なの?」

 彼女の勝ち気な目が、緩んでいる。私は苦笑いしながら言った。

「うん、大した事じゃなかったんだ。体調が悪かった訳でもないし、大丈夫だよ」

 月宮さんは「良かった」と、小さく安堵のため息を漏らした。それから彼女は、離れた場所に座った幸田さんに声をかけた。幸田さんが軽快なサムズアップと持ち前の猫口で合図する。

 私の前の席は幸田さんだった。“お許し”が出た今、月宮さんはその席の椅子をこちらに向けて座る。私は目の前でお弁当を広げる月宮さんに誘導されるように、自分の昼食を机に出した。

「良かった、配してたのよ? 6月の時みたいに風邪でも引いたのかと思ったわ」

「心配かけてごめんね」

 私が謝ると、「ホントだよ」という月宮さんの物ではない声が聞こえた。いつの間にか私たちの隣にケイが立っていて、会話に割って入ったのだ。彼女の不意打ちに月宮さんが驚いた声を上げる。

「ビックリしたぁ……いつの間に起きたのよ」

「さっき」

「目の下のクマ、すごい事になってるわよ」

 ケイは月宮さんの言葉を無視しながら、隣の席の椅子――坂崎クンのだ――を断りもなく引きずってきて、そこに座った。手に携えた小さなコンビニの袋から、チョコレートコーティングのクロワッサンを取り出して封を開け、食べ始める。


「何してたの?」と、ケイが口元をもしゃもしゃしながら私に尋ねた。

「随分、遅かったじゃんね」

 私は「ちょっと、ね」とはぐらかした。

「家の用事だよ」

「ふ~ん」

 彼女はいかにも裏のありそうな、間延びした相槌を打った。月宮さんが首を小さく傾げた。

 私はこれ以上サキちゃんの件をややこしくしたくなかったので、思わず苦い顔になる。


 そのタイミングで校内放送がかかった。クリスマスイベントの告知だった。演劇部によるクリスマス・カロルの上演と、吹奏楽部によるクリスマス演奏会のお知らせだった。

 ケイはどちらに聞くでも無く、空中に放り投げるような調子で疑問を口にした。

「カロル? キャロルじゃないの?」

「昔の言い方じゃないの? 良くあるじゃない」

 月宮さんが、卵焼きを食べるその口元を手で隠しながらそう応じた。

「今でもあるじゃない? エナジーとエネルギーとか、インクとインキとか――今と昔で言い方が違ったり、由来が違ったりするみたいね」

 私はそれに乗っかる形で付け足した。

「ボムとボンブとか? 昔のボンバーマンのCMで爆弾のことボンブって呼んでたよ」

 月宮さんは首を傾げ、ケイは「ほう」と頷いた。正反対の反応。月宮さんは一旦この流れを置いておく形で、言及する。

「……まあ、そんな感じでクリスマス・キャロルって古典文学だから、呼び名が二つあるんじゃないかしら」

「知らないや。誰の作品?」

 ケイがそう質問すると、月宮さんはまた首を傾げる。彼女の代わりに私が「ディケンズって人だよ」と答えた。

「チャールズ・ディケンズ」

 今度は二人揃って、「へぇ」と小さくため息をついた。ちょっとだけ得意になった私はこう補足した。

「確か、イギリスの作家で、産業革命の時代の人だよ」

 私がそう言うと、ケイが掘り下げてきた。

「詳しいじゃん。読んだことある?」

「無い」

「エアプ?」

「本、読まないもん」

 ケイが肩をすぼめた。私は気にせず続けた。

「友達に読書家がいたんだ。読んだ本の感想とかを勝手にしゃべるタイプの」

 私はそう弁解した。

……妙にそわそわする。その「友達」とは他でもない、ナナミのことだ。彼女は今もどこかにいて、この話を聞いていたりするのだろうか。


 私が自分の背後をやたらに気にしていると、月宮さんのスマホに着信が入った。通知画面に浮かぶ文字を見て、彼女は大きくため息をついてから電話に出た。

 月宮さんは初めこそ落ち着いた様子で応対していたが、段々と語気が強くなっていった。その一部始終を見ていたケイがそれを茶化すように、「笹食ってる場合じゃねえ」と小さく呟き、にやけた。

 私は渋い顔を作り、首を横に何度も振って無言の内にそれを諌めた。その間にも月宮さんの口調はエスカレートしていく。

 しまいには「はあ?」とか「ちょっと!?」なんて、強い口調を持ち出し始めた。本当に“笹を食べている場合”ではなさそうかもしれない。


 電話が終わると、月宮さんはまた大きなため息を机に向かって吐いた。

「ごめんなさい、ちょっと野暮用ができちゃったわ。行かなくちゃ」

 急いで空の弁当箱を包みにしまう彼女を見て、ケイが言った。

「例の部活がらみと見た」

 すると月宮さんは回答の代わりに、更なる巨大なため息をついた。それを意にも介さない様子でケイが付け足した。

「何だっけ? SOS部?」

 ……それは往年の人気ライトノベルのやつ。私はとっさに「SCP部」と答えた。

「ええと、地域問題? 解決? その為の部活? みたいな名前の――」

 記憶があやふやだった。答えた手前で後戻りできず、ひどく漠然とした説明になってしまう。月宮さんは再び巨大なため息をつき、感情に欠けた調子で私の誤りを修正した。

「……Solve Community Problem部。地域問題解決の為の部よ」

 続けざまに乾いた笑いが彼女から飛び出す。

「……あ、とうとうソラで言えるようになっちゃったんだ、あたし」

 それは何かを諦めたような口調だった。色彩のない乾いた笑いが彼女の喉元から排出され続ける。

 月宮さんは虚ろな笑みを浮かべぬるりと立ち上がる。そのまま幽霊のような足取りで自分の席に向かっていって弁当箱を置き、そのまま教室を出ていってしまった。


「まだあの部に入ってんだね、あいつ」

 教室から出ていく月宮さんの背中を見ながら、ケイが言った。

「毎日ドタバタ騒ぎで、愉快そうじゃんね」

「初めは無理やり入らされたって言ってたけどね」

「そういうもんじゃん? 物語の中心になる主人公的な立ち位置のキャラってさ」

「結局何をする部活なのかな?」

「さあねぇ。噂じゃ夜な夜な、街を脅かす怪奇現象をこっそりシバキ倒してるとか。ダークヒーローじゃんね」

 ケイがそう皮肉りながら、ジト目をこちらに向ける。

――彼女は何か聞きたそうに見えた。そしてこれは不自然な話にはなるが、私は何を聞かれそうになっているか、何となく分かっていた。

 しかし私は同時に、その問いに対して、自分が上手く答えられる自信が無い事も分かっていた。時間的パラドックスが生じ、矛盾を含んだ思考の逆行が起こる。

 私は「その時」が来てしまうのを、阻止しなくてはならなかった。話題を替えるべきだと思った。


「それはそうとさ。ケイ」と私は言った。こちらが聞きたい事を、先に聞いてしまおう。

「この前、言ってたよね。幽霊が見えるって」

「……突然、何さ」

 ケイは僅かに眉をひそめる。ほとんど誰も気が付かないくらい、ささやかな変化。

 私やサキちゃんはこの表情を引き出すのが割と好きだった。この困った顔に向かって、しばしば追撃を加えるのだ。冗談やからかいの種を――

 私はわざと興味のなさそうな態度を取った。

「――本当?」

「……見えるなんて言ってないし」

「でも、何が起こっているかは分かる?」

 ケイはこちらから目を逸らして、ダルそうに頬杖をついた。その先には何も無いように見えた。あえて言うなら黒板があった。彼女はそれをじっと見つめていた。長い沈黙だった。彼女の表情はこちらから見えない。

 物言わぬ後頭部――それを見ていると、深く暗い海の底で立ち尽くす、彼女の背中がイメージされた。私は窓の外を見ることにした。


 彼女は次に、何をどう言うべきか考えているようだった。さらに長い時間が過ぎる。


 そうしている間の私の耳には、色々な音が飛び込んでくる。

 教室内のがやがやした雑多な歓談の声。校内放送が流す、V6の「UTAO-UTAO」。窓の外を見ている私の視界の端で、ケイが時々、何かを言いたそうにこちらを振り向きかけた。


 それでも私からは何も言わなかった。窓の外には午前中よりも分厚くなった雲が、空を覆い隠している。

 いかにも冬らしい有り様だ、と感じた。冬の心細さで重くなった、ペーソス漂う灰色の雲。

 私は重苦しく、含みのあるその輪郭を頭の中でなぞりながら、しかるべきタイミングが来るのを待った。

 悪くない時間だった。沈黙――穏やかな沈黙。一日じゅうでも返事を待てそうだった。

 私はほんの少しずつ流れていく雲を見つめながら、この心地良い持久戦をやり過ごした。


「ひとつ言えるのはさ」

 ケイはそう切り出した。相変わらず黒板を見つめながら。

「ツムギ一人で抱えるべきじゃないってこと。この件はきっと何とかなるよ」

 そう言って、彼女はこちらに振り向いた。消極的な瞳がそこにはあった。彼女はすぐに躊躇うように視線を落とした。この仕草が二度繰り返された。

 やがて何かが噛み合ったのか、その気だるげな半開きなジト目を真っ直ぐ私に合わせて言った。

「まあ、信じてよ。それに助けが必要なら呼んで」

 ここまで真剣な顔つきで聞いてきたつもりだったが、私はつい吹き出しそうになった。私は何とかそれに堪え、努めて真面目な態度を崩さないようにして、ケイに耳打ちをした。

「――“ひとつ言える”、って最初に言ったけど、ふたつ以上になってるよ」


 だしぬけに、奇妙な怪音が教室じゅうに響いた。はるか遠い国に隠れ住む、聞いたこともない類の怪鳥が発する、不気味な鳴き声のようだった。

 それは聞くものを震え上がらせ、教室中の人間の体温を瞬く間に奪った。我々の本能の深い部分に根ざす、根源的な恐怖心を煽る警告音。


 それはケイの笑い声だった。ひとしきり続いたそれが止むと、たじろいでいた教室中の人々もやがて平静を取り戻した。

 案外世間とはドライなものだ。

 この1年3組という閉じられた生活圏に住まう市井の人々は、あの恐ろしい怪音が、どうやら人間から発せられた笑い声だったのだと把握すると、とたんに興味を失い、彼らの輪の中へと再び帰っていった。

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