浜辺×釣りの成果×約束の代行

 カサゴ釣りはそう難しいものではない。仕掛けを投げ入れ、それが海底まで沈むまで少し待ち、探る。底に着いたらリールで少しずつ糸を巻き取りながら、小さく竿の先端を上げる。そうすると仕掛けが海底から浮き上がるので、また数秒待って海底に沈むのを待つ。上げて下げる――基本的にこれの繰り返し。カサゴは大抵の場合、岩の根本や割れ目、海藻の隙間なんかに生息している。近くに餌があれば積極的に食いついてくるので、“そこにいれば”釣れるようなタイプ。

 以上の釣り方を、実演を交えながら教える。ケイとサキちゃんは初心者なので、なるべく根掛かりしないコツも補足する。竿を水平より少し立たせた状態を保つこと。糸をできる限りピンと張っておくこと。釣れる確率は少し低くなるが、それでも諸々のトラブルでがっかりするよりはマシだ。


 サキちゃんとケイには、比較的足元が安全そうな岩場で釣ってもらうことにした。私はしばらく、釣りに興じる二人の背中を少し離れた位置で見守った。次第に彼女たちの動作からたどたどしさが薄れていく。もうつきっきりになる必要はなさそうだ。私は少し離れた位置に移動して岩礁の突端、足場が不安定だが良く釣れそうな岩場で釣ることにした。ブランクもあったので足を滑らせないか少し怖かった。恐る恐るの動作で数回投げると、コツを思い出してきた。かつての感覚が戻りつつある。それなりの手つきで海底を探る余裕も生まれてきた。やっぱり釣りは良い。海底がどうなっていて、どこにどう投げたら上手くいきそうか想像する楽しさ。久しぶりに私は、忘れかけていた釣りの魅力を存分に味わっていた。


……私はつい夢中になってしまっていて周りを見ていなかった。完全に油断していた。そんなだから、私の左で釣りをしていた二人の方を振り向いた時、何が起こったか一瞬分からず、思わず二度見してしまった。

 ケイは根掛かりを起こしているようだった。彼女はぶっきらぼうに竿を上下左右に振り回している。今そうなったのか、それとも長い間そうしていたのかは分からない。私は竿を置いてケイに近づく。

 私は「大丈夫?」と声をかけた。聞こえていないようだった。ケイは持ち前のジト目に思い切り力を込め、母なる広大な海を睨みつけながら、機械的な単調さで竿を操作している。さながら、その場に相応しくないセリフや動作を繰り返す、バグったゲームキャラのように。彼女は孤独に、この異常動作を繰り返し続けた。


 問題はサキちゃんの方だった。私はこの無惨な姿を見て、自分の不注意さを恥じた。どうしてこんなになるまで放っておいたのか、後悔の念で押しつぶされそうだった。

 サキちゃんはどうやら、被っている黒ニットのボンボンの部分に釣り針を引っ掛けてしまったようだった、で、そこから何をどう間違ったらそうなるのか、全身を釣り糸でぐるぐる巻きにされていた。がんじ絡めで身動き一つ出来無い状態。

 彼女の瞳はほとんど点に近かった。何が起きているのか理解出来ない、という様子だった。意識はあるようだが、私の言葉には反応がない。一種の放心状態。彼女はその状態でひたすらに口を噤み、苦しみを一身に受けて耐えていた。自らへの罰、とでもいうのだろうか? 何の?

 私が自問自答していると、背後でケイが不気味な笑い声を上げた。

「ふへへ、へへへ――」

 喉奥から絞り出される、かすれた笑い。例えるなら、イカれた殺人鬼キャラが獲物を狩ろうとして、逆に強キャラに返り討ちにされた時みたいな感じの。私が引き気味い彼女を見守っていると、ケイはゆっくりとこちらを振り返った。

……意外にもその顔はいつもの無表情で固定されていた。不気味な笑い声も収まっていた。彼女はしばらくこっちを見ていたが、サキちゃんの惨状を見て眉根を寄せた。

「うわ、全然気づかなかった。なにそれ、どうなってんの。愉快すぎる」

 サキちゃんからは何の反応もなかった。

「ヨークシン編で、クラピカに捕らえられたウヴォーギンみたいになってんじゃんね」

 ケイがそう続けるとサキちゃんが目を点にしながら俯いた。


 私はひとつずつ問題を処理することにした。まずはサキちゃん。この“束縛する中指の鎖チェーン・ジェイル”を何とかしなくては。私はボンボンに引っかかった仕掛けの結び目をラインカッターで切った。緊張のほぐれた糸がするすると解き放たれて落ちていき、サキちゃんの足元に束を作る。私が糸束を拾って自分のポケットに入れると、サキちゃんは何も言わずドヤ顔で握手を求めてきたので、それに応じる。二人は長い間、握手をしながら互いを見つめ合った。何の時間なのか全く分からなかったので、きりの良いところで止めた。


 次はケイ。彼女は自分でこの課題を解決したいようだった。私はアドバイスをしながら、彼女に竿やリールを操作してもらう。何度かの試行の後、大きく曲がった釣り竿がゆっくりと元の位置に戻っていった。どうやら根掛かりから外れたようだ。ケイが安堵したように口を開いた。

「ありがと――けど、何かちょっと重くね?」

 彼女は釣り竿の不自然な重さに違和感を覚える。釣り針に何かが付いているようだった。注意深くケイが糸を巻き取ると、先端の仕掛けに缶バッジがくっついていた。テニスボールより少し大きいくらいの直径の、白い缶バッジ。黒字で大きく「44」という数字が書いてある。宙にぷらぷらと浮かぶそれを見たケイが、ぽつりと言った。

「――これ、ヒソカのじゃね?」

 ……ヒソカのだった。ハンター4次試験のキーアイテム。主人公ゴン=フリークスに与えられた標的の番号。宿命の敵が持つ因縁のプレート。ケイはそれを釣り針から外し、私の眼前で掲げた。

「いつか顔面にパンチしながら返すね」

 少し考えてから、私は「待ってるよ」と言った。

 ……缶バッジはケイが気に入ったらしく、持って帰ることにしたようだ。


 気がつけばもう日が沈んでいた。海は重たげな黒色に染まり、ついさっきとは異なる様相を呈している。石油のような海面に光の帯が鈍く照り返し、所々がギラギラと瞬いた。スマホを見ると17時39分だった。そろそろ切り上げ時。少し名残惜しかったが、帰り支度を始める事にした。

 カサゴは結局、私が釣り上げた。24cmのぼちぼちサイズ。私は獲物を折りたたみ式のビニールバケツからクーラーボックスへと移した。


 支度を終えると、サキちゃんがグループLINEに報告をした。私たち3人と、ミセス・ウィークエンドの計4人のLINEグループ。喫茶Pardisoを出る前に作っておいたものだ。

念の為に私とケイは事前に示し合わせて、名前を変更してから連絡先を交換していた。サキちゃんは占いの時に手話で自己紹介をしてしまっていたので、以前のまま「サキ」。ケイは「井之頭五郎」。どうして孤独のグルメの主人公の名前を選んだのかは分からない。私は「ツムツム」。LINEを開く時、スマホ画面にあるツムツムのアプリアイコンが目に入り、何となくちょうど良さそうに思えたから。

 本来であれば、この自衛手段はサキちゃんこそ講じるべきものだった。もしミセス・ウィークエンドに関する噂が真実で、彼女が呪い師だというのであるなら、相手を呪う際に本名が必要そうに思えたからだ。ゲームやアニメ、漫画といった創作物の中ではしばしばそのような設定が用いられる。これは無い知恵を絞って考案された、急ごしらえの対策だった。

 発案者はサキちゃんだ。自分は本名を知られているにも関わらず、彼女は私とケイにそうするよう提案したのだ。おそらくサキちゃんもこの怪しい占い師を警戒している。単純にうさんくさいし、怪しい。それでも万が一、本当にあの占いが黒猫捜索に有益であるなら――これはサキちゃんが選んだ、ひとつの自己犠牲だった。そしてこれ以上誰かが同じ道を通る必要も意味もない。そういうことだった。


 数分後に、ミセス・ウィークエンドから返信がきた。


【クエスト達成、おめでとうございます。良いハンターは魚にも好かれるんでしょうね(ハンター✕ハンターの名言をもじったものだった。この人、マジ物のエスパーか何か? と隣でケイが独りごちた)。

 とにかく、これで目標は達成されました。喫茶Paradisoの入っているビルの前で落ち合いましょう。きっとあなた達にとって素敵な結果になる事でしょう】


 何だかちょっと脱力感を覚える文章だった。私がそう思っていると、更にもう一件、彼女からメッセージが届く。


【それと、サキさんに渡した缶の入れ物――魚釣りに夢中できっと忘れていたでしょう? オープンワールド・ゲームで、後回しにしたサブクエストの達成条件みたいに?――それを砂浜に埋めてください。

 これはちょっとしたお使いです。最近亡くなった私の友人との約束を果たさせてください。その人は近所の『Y市 散文詩同好会』の仲間です。彼は先月亡くなりました。素敵な詩と共に向こうへと旅立ったのです。

 以前、私は彼と約束をしました。自分が死んだら、私の書いた最後の詩をどこか海の見える場所に埋めて欲しいと。きっと良い弔いになるだろう、と。自分でやるのが筋ではありますが、最近は歳のせいか、ちょっとばかりの遠出でも非常に疲れてしまうので――そういう訳でよろしくお願いしますよ。

 そうそう! 渡す時にも伝えましたが、恥ずかしいので出来れば箱の蓋は開けないでくださいね。これは私の行った占いの対価と思ってもらってかまいません。あなた達から謝礼を貰おうなんて、これっぽちも考えていませんでしたもので!】


 サキちゃんは出かける前、確かにミセス・ウィークエンドから箱を受け取っていた。ハガキくらいの大きさの、缶で出来た入れ物。ケイと私は手で砂浜に穴を掘って、サキちゃんがそれを埋めた。中身は見なかった。


 私たちがParadisoに戻ると、ミセス・ウィークエンドが雑居ビルの入口で待ち構えていた。私が透明なビニール袋に入れたカサゴを手渡すと、何も言わずに帰ってしまったので、私たちも解散した。


 翌日の日曜日、朝早くにサキちゃんがグループラインで集合の号令をかけた。私が喫茶Paradisoの前に着いた時、サキちゃんは階段下に置いたの中を覗き込んでいた。彼女はビニール袋に入ったカサゴの干物の頭部を、注意深い手つきでその中に入れようとしていた。聞くところによると、朝早くにサキちゃんの個別LINEにらこうしろと指示が送られてきたという。カサゴの頭は2階の喫茶Paradisoの入口前に置かれていたらしい。

 この非常にシュールな儀式は、私の顔と、遅れてやってきたケイのそれを歪めるのに充分な不自然さだった。

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