終章《残響》
―語り手:元一条家の女中・お雪―
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華月庵へと続く私道を歩いたのは、何年ぶりだったでしょうか。
けれど、あの道の玉砂利の感触は、今も確かに足の裏に覚えておりました。
先日――勤め先の娘の言葉に琴音様の面影を見てしまってから、心のどこかが騒がしくなり、それを鎮めるように、私はあの二人の行方を探し始めたのです。
誰に頼まれたわけでもなく、何か義務があったわけでもありません。
けれど、このままではいけないという思いだけが、足を動かしておりました。
ぽつり、ぽつりと耳にした噂をつなぎ合わせ、ようやく辿りついたのは、町はずれの、古びた長屋の一角。
戸口は閉ざされ、返事はありませんでした。
けれど、なぜだか、そこに“終わり”があることだけは、すぐにわかりました。
風雨に晒された板戸、乾ききった空気、そして――
扉の傍らに、埃をかぶった皿がひとつ。
中には、干からびたままの団子が乗っておりました。
「……ここなのですね」
私は小さく呟き、手を合わせました。
*
戸が開いていたわけではありません。
けれど、ひと吹きの風が、かすかに隙間を押し広げたのです。
それを“招かれた”のだと感じたのは、私の勝手な思いでしょう。
中には、誰の姿もありませんでした。
けれど、確かに、ふたりがいた痕跡が、そこには残されておりました。
火鉢のそばに、くたびれた座布団がふたつ。
棚の隅には、秋彦様の筆跡と思われる家計簿――最終ページだけが破られ、何も書かれておりません。
鏡台の脇には、私がかつて琴音様にお渡しした櫛。
まるで、時間が止まったように静かに置かれておりました。
そして、座布団の上に、埃をまといながら佇む一羽の折り鶴。
その翼の隙間に、薄い紙片が挟まっているのに気づきました。
そっと手に取ると、琴音様の筆跡――細く、けれど確かに彼女のもの。
私は、紙を開く勇気を持てませんでした。
その紙には、琴音様が秋彦様に遺した何かがある。
愛だったのか、執着だったのか、それとも――ただの女の願いだったのか。
胸の奥で、琴音様の声が響くようでした。
「秋彦」と呼ぶ、かすかな、けれど確かに温かい声。
私は折り鶴を胸に抱き、そっと目を閉じました。
二人の影は、今もこの部屋に寄り添っている。
それは、悲しいだけの影ではありません。
静かに――ただ、静かに、確かに残る“響き”なのです。
戸を閉じ、長屋を後にしました。
風が袖をかすめ、まるでさようならと告げるように――
あるいは、ありがとうと囁くように。
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