第六章《最後の灯火》
―老女・おたえの証言―
語り手:長屋の隣人・おたえ
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いやねぇ、まったく、あの二人には驚かされっぱなしさ。
あれはもう、秋が深まって、冬の匂いが漂い始めた頃だったかねぇ。
朝っぱらから、隣の部屋から聞こえてきたんだよ――ひどい咳が。
ゴホッ、ゴホッて、胸の底をかき回すような、そんな苦しそうな音でさ。
最初は風邪かと思ったけどね。若いもんだし、すぐ治るだろうとタカくくってた。
だけど、どうも違った。
昼になっても、夜になっても、咳は止まらないし、時おり呻くような声まで混じってきた。
なんだか、もう――死の匂いがしてたのよ。
*
心配になってさ、煮た団子でも持っていこうかと、戸口に近づいたの。
けど、手を伸ばしかけて……ふっと止まった。
戸の向こうの空気がね、じとぉっとしてて――重たくて、足がすくんじまったのさ。
あたしの耳には、かすかに布ずれの音が聞こえた。
どうやら秋彦が、琴音を抱えて、額に冷たい手拭いでも当ててるようだった。
まるで、親が病気の子を看病してるみたいだったよ。
でもね――あれは、親でも恋人でもない。
もっと、こう……なんて言うか、言葉にできない何かだった。
*
あの男、秋彦ってのはさ、もう何もかも捧げちまってるんだよ。
自分の食べるもんも、寝る時間もぜんぶ削って、ただ、あの子のそばにいるだけ。
何度か声をかけようと思ったけど、できなかった。
あの部屋の空気に、一歩でも入っちゃいけない気がしてさ。
夜中に見たんだよ。
琴音が苦しそうに喉を鳴らしてるときの顔。
あれはね――「死にたくない」顔じゃなかったよ。
もう、どうでもいいって顔。
ただ、目を閉じて、なにもかも終わらせたいような……
でも、秋彦は違った。
あの子は、まだ願ってた。琴音が生きててほしいって、必死に祈ってる顔だった。
その違いが、余計に痛かったのさ。
*
次の日さ、あたしゃまた団子を作って、こし餡のやつ。
あの子たち、甘いもんなんてずっと口にしてないだろうと思ってさ、せめての気持ちで、戸口にそっと置いたんだよ。
夕方になっても、翌日になっても、団子は手つかずで残ってた。
まるで時間が止まっちまったみたいに、冷たくなって、そこにあった。
戸の前で立ち尽くして、思わずね――こう呟いたんだ。
「せめて……ひと口くらい、食べとくれよ」
誰に言ったのか、自分でもわかんないさ。
でも、なんだか胸がぎゅうっとなって、手が震えちまって。
その場を離れられずに、しばらくじっとしてたよ。
戸の向こうからは、もう何の音も聞こえてこなかった。
*
そのとき思ったのさ――
あの部屋の中は、もう生きてるとか死んでるとか、そんな区別がないんだって。
ふたりは、ふたりで終わろうとしてる。
誰にも見せず、語らず、ただ静かに――そう、灯火が風に消えるみたいに。
そして、それは、
どうしようもなく悲しいのに、
どこか――ひどく美しかったんだよ。
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