第五章《囁きと噂》

―人妻・絹代の回想―

語り手:長屋の隣人・絹代


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あの二人が、うちの隣に越してきたのは、いつだったかしらねぇ。

最初に見たときから、ちょっと変わった雰囲気だったのよ。


若い女と男の二人連れ。

女のほうは、白い肌に黒髪がつやつやしてて、まるで“お嬢様”って言われて育ったような立ち居振る舞い。

いつもすました顔で、背筋をぴんと伸ばして歩いていた。


男のほうはというと、なんだか疲れ切った顔でね。

女の一歩後ろを、まるで召使いみたいに黙ってついて回る。


「仲がいいのか、悪いのか――」

そんなふうに、ご近所ではひそひそ噂になってたけど、誰も本気で関わろうとはしなかったわ。


だって、あの空気、なんだか普通じゃなかったもの。



あれは秋のことだったかしら。

夜更けに布団に入っていたら、隣から何やら音が聞こえてきたの。


くぐもった、男のすすり泣き。


最初は気のせいかと思った。

けど、耳を澄ませば、それは確かに――あの静かな男の声だった。


泣いていたのよ。

まるで、何かを失ってしまった子どもみたいに、息を殺して。


その声が耳から離れなくてね。

布団をかぶっても、ずっと響いてる気がして、とうとう朝まで眠れなかった。


……今思えば、あの夜が、何かの“始まり”だったのかもしれないわね。



それからよ。

女のほうが、夜になると、ひっそり外出するようになったのは。


最初はただの用足しかと思ってたけど、回数が増えるにつれて、気づいたの。

あの歩き方、あの服装、あれは“目立たないようにしている”姿だって。


深夜、静まりかえった町を、すっと影のように出ていく。

そして、朝方には帰ってきて、また火鉢の前で何も言わずに座っている。


何をしていたのか――

見たくなかったわよ。

でも、わかっちゃうのよね。ああいうのは。



いちばん許せなかったのは、男の方よ。


女が夜に出て行って、帰ってきても、何も言わずに黙って出迎えるだけ。

問いただすでもなく、怒るでもなく、ただ、そばにいる。


あれが、気味悪くて仕方なかった。

何かが壊れてるとしか思えなかった。


「普通じゃないわよ」

「まるで何かに取り憑かれてるみたい」

そんな噂が、日に日に広がっていったわ。


だけど……ある日、戸の隙間から男の顔がちらっと見えたの。


その顔がね――どうしようもなく弱々しくて、

まるで、自分のすべてを喰い尽くされて、ただ残された殻みたいだった。


それを見たとき、なぜか胸がざわついたの。

ああ、この人は、ほんとうに壊れてるんだって。


……嫌悪っていうより、

怖かった。

でも、それ以上に――目をそらせなかったのよ。



その日から数日後、私は団子を多めに作った。

ほんの思いつきで、ひと皿分だけ、あの家の戸口に置いたの。


理由なんてなかったわ。

ただ、何か――何かせずにはいられなかったのかもしれない。


でもね、次の日になっても、団子は手つかずのまま、冷たくなって返ってきた。


その冷たさが、指先にいつまでも残ってたのよ。


……ああ、もう届かないんだって思った。


あの二人は、もうとっくに人の声が届く場所にはいない。

見えてはいるけど、どこか別の場所にいる。


私はその団子を引き取って、ただ静かに捨てたわ。


そして、その夜も――

布団に入っても、男の泣き声が耳から離れなかった。

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