第五章《囁きと噂》
―人妻・絹代の回想―
語り手:長屋の隣人・絹代
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あの二人が、うちの隣に越してきたのは、いつだったかしらねぇ。
最初に見たときから、ちょっと変わった雰囲気だったのよ。
若い女と男の二人連れ。
女のほうは、白い肌に黒髪がつやつやしてて、まるで“お嬢様”って言われて育ったような立ち居振る舞い。
いつもすました顔で、背筋をぴんと伸ばして歩いていた。
男のほうはというと、なんだか疲れ切った顔でね。
女の一歩後ろを、まるで召使いみたいに黙ってついて回る。
「仲がいいのか、悪いのか――」
そんなふうに、ご近所ではひそひそ噂になってたけど、誰も本気で関わろうとはしなかったわ。
だって、あの空気、なんだか普通じゃなかったもの。
*
あれは秋のことだったかしら。
夜更けに布団に入っていたら、隣から何やら音が聞こえてきたの。
くぐもった、男のすすり泣き。
最初は気のせいかと思った。
けど、耳を澄ませば、それは確かに――あの静かな男の声だった。
泣いていたのよ。
まるで、何かを失ってしまった子どもみたいに、息を殺して。
その声が耳から離れなくてね。
布団をかぶっても、ずっと響いてる気がして、とうとう朝まで眠れなかった。
……今思えば、あの夜が、何かの“始まり”だったのかもしれないわね。
*
それからよ。
女のほうが、夜になると、ひっそり外出するようになったのは。
最初はただの用足しかと思ってたけど、回数が増えるにつれて、気づいたの。
あの歩き方、あの服装、あれは“目立たないようにしている”姿だって。
深夜、静まりかえった町を、すっと影のように出ていく。
そして、朝方には帰ってきて、また火鉢の前で何も言わずに座っている。
何をしていたのか――
見たくなかったわよ。
でも、わかっちゃうのよね。ああいうのは。
*
いちばん許せなかったのは、男の方よ。
女が夜に出て行って、帰ってきても、何も言わずに黙って出迎えるだけ。
問いただすでもなく、怒るでもなく、ただ、そばにいる。
あれが、気味悪くて仕方なかった。
何かが壊れてるとしか思えなかった。
「普通じゃないわよ」
「まるで何かに取り憑かれてるみたい」
そんな噂が、日に日に広がっていったわ。
だけど……ある日、戸の隙間から男の顔がちらっと見えたの。
その顔がね――どうしようもなく弱々しくて、
まるで、自分のすべてを喰い尽くされて、ただ残された殻みたいだった。
それを見たとき、なぜか胸がざわついたの。
ああ、この人は、ほんとうに壊れてるんだって。
……嫌悪っていうより、
怖かった。
でも、それ以上に――目をそらせなかったのよ。
*
その日から数日後、私は団子を多めに作った。
ほんの思いつきで、ひと皿分だけ、あの家の戸口に置いたの。
理由なんてなかったわ。
ただ、何か――何かせずにはいられなかったのかもしれない。
でもね、次の日になっても、団子は手つかずのまま、冷たくなって返ってきた。
その冷たさが、指先にいつまでも残ってたのよ。
……ああ、もう届かないんだって思った。
あの二人は、もうとっくに人の声が届く場所にはいない。
見えてはいるけど、どこか別の場所にいる。
私はその団子を引き取って、ただ静かに捨てたわ。
そして、その夜も――
布団に入っても、男の泣き声が耳から離れなかった。
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