第四章《歪んだ契り》
―女衒・岩永の証言―
語り手:元庭師・岩永
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まさか――まさか、あの嬢さんが俺のとこに来るなんて、夢にも思わなかった。
華月庵を出てから、もう何年も経ってた。
あの家の名も、あの屋敷のことも、すっかり記憶の隅っこに押しやったつもりだった。
俺はいま、女衒なんて柄にもない稼業をしてる。
胸を張れる仕事じゃねえが、戦のあとじゃ、綺麗ごとだけじゃ食っていけねえ。
女を扱い、人を売る。そんな暮らしだ。
*
その晩のことだ。
裏口に妙な気配がして、戸を開けてみたら――そこに立っていた。
煤けた灯りに照らされたその顔。
紅も引かず、白粉もなし。それでもすぐにわかった。琴音様、あんたに間違いねぇ。
「……嬢さんか?」
その言葉を発しながら、俺の喉が勝手に詰まった。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるような思いだった。
あのとき――俺がもっと、強く言ってやれば。
あの屋敷で、あの関係に楔を打ち込んでいれば。
あの男を引きはがしてでも、あの女から遠ざけてやっていれば――
けど俺は、黙って背中を見送った。
庭師ってのは、根っこをいじるのが商売だけど、人の根っこに触れる度胸なんてなかった。
だから、あの日あいつを置いてきたんだ。
……それなのに、目の前に、また立ってる。
*
「どうしてここが?」
「つけてきたの。偶然、あんたを見かけたから。……女を連れて歩いていたわね、さも楽しそうに」
その言葉に、背筋がぞわっとした。
声は穏やかだったが、芯に氷を仕込んだような棘があった。
それは、あの頃のままだった。
どこまでも自分が中心で、他人の痛みなんぞ蚊帳の外――そんな“令嬢”の傲慢さ。
……けど、違う。
その眼差しだけが、違ってた。
何もかもを知って、全部を呑みこんで、それでも立っている目。
生き延びた者の、薄く乾いた光。
「用件はわかってるんでしょう?」
「ああ、まあな……」
俺の言葉は、濁るばかりだった。
言いたいことは山ほどあったのに、舌が回らない。情けねぇ。
「……男はいないのか?」
「いるわ。秋彦がいる。だけど、あの人は、私のためにしか生きていないの。……私に、しか、意味を持てない人なのよ」
「……」
「その人に、生かされ続けるのは、もう……苦しいのよ」
「……嬢さん」
「私、いくらになる?」
その言葉が、まるで刃物だった。
誇り高くて、何も屈しなかったあの女が、自分の値段を問うている――
……俺は、あの瞬間、自分の中で何かが音を立てて崩れるのを感じた。
*
裏路地を抜けて歩いた。
灯りがひとつ、またひとつ、遠ざかっていく。
白い指が、俺の袖の端を、ほんのわずかに掴んでいた。
「怖くねぇのか」
「怖くないわ。生きるほうが、よほど怖い」
「秋彦には……話したのか?」
「……言ってない。言えば、止めるでしょうから」
そう言って、嬢さんは薄く笑った。
あれは笑いなんかじゃねぇ。
毒を含んだまま、笑って死のうとする顔だった。
「いいの。気づいてくれれば、それでいい」
「何を……」
「私が、生きるために、死の方を選ぼうとしてるってことよ」
俺は、黙るしかなかった。
あのとき――
俺があの子を追い出しておけば。
あの家を捨てる前に、誰かが“人としての線”を引いてやっていれば。
……だけどな、俺はそれをしなかった。
だからいま、こうして黙って道を歩いてる。
*
女を地に落とすのは、いつだって簡単だ。
けど、自分でそこへ身を投じようとする女を、見送るのは――堪える。
かつて庭を手入れしていたこの手が、
今は、女の背を押すことしかできねぇのか。
夜の路地に風が吹いて、嬢さんの細い肩が、すこしだけ揺れた。
嬢さん。
あんたは、まだ間に合うのか?
……その問いだけが、今も夜の中で残っている。
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