第四章《歪んだ契り》

―女衒・岩永の証言―

語り手:元庭師・岩永


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まさか――まさか、あの嬢さんが俺のとこに来るなんて、夢にも思わなかった。


華月庵を出てから、もう何年も経ってた。

あの家の名も、あの屋敷のことも、すっかり記憶の隅っこに押しやったつもりだった。


俺はいま、女衒なんて柄にもない稼業をしてる。

胸を張れる仕事じゃねえが、戦のあとじゃ、綺麗ごとだけじゃ食っていけねえ。

女を扱い、人を売る。そんな暮らしだ。



その晩のことだ。

裏口に妙な気配がして、戸を開けてみたら――そこに立っていた。


煤けた灯りに照らされたその顔。

紅も引かず、白粉もなし。それでもすぐにわかった。琴音様、あんたに間違いねぇ。


「……嬢さんか?」


その言葉を発しながら、俺の喉が勝手に詰まった。

胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるような思いだった。


あのとき――俺がもっと、強く言ってやれば。

あの屋敷で、あの関係に楔を打ち込んでいれば。

あの男を引きはがしてでも、あの女から遠ざけてやっていれば――


けど俺は、黙って背中を見送った。

庭師ってのは、根っこをいじるのが商売だけど、人の根っこに触れる度胸なんてなかった。


だから、あの日あいつを置いてきたんだ。


……それなのに、目の前に、また立ってる。



「どうしてここが?」


「つけてきたの。偶然、あんたを見かけたから。……女を連れて歩いていたわね、さも楽しそうに」


その言葉に、背筋がぞわっとした。

声は穏やかだったが、芯に氷を仕込んだような棘があった。


それは、あの頃のままだった。

どこまでも自分が中心で、他人の痛みなんぞ蚊帳の外――そんな“令嬢”の傲慢さ。


……けど、違う。

その眼差しだけが、違ってた。


何もかもを知って、全部を呑みこんで、それでも立っている目。

生き延びた者の、薄く乾いた光。


「用件はわかってるんでしょう?」


「ああ、まあな……」


俺の言葉は、濁るばかりだった。

言いたいことは山ほどあったのに、舌が回らない。情けねぇ。


「……男はいないのか?」


「いるわ。秋彦がいる。だけど、あの人は、私のためにしか生きていないの。……私に、しか、意味を持てない人なのよ」


「……」


「その人に、生かされ続けるのは、もう……苦しいのよ」


「……嬢さん」


「私、いくらになる?」


その言葉が、まるで刃物だった。

誇り高くて、何も屈しなかったあの女が、自分の値段を問うている――


……俺は、あの瞬間、自分の中で何かが音を立てて崩れるのを感じた。



裏路地を抜けて歩いた。

灯りがひとつ、またひとつ、遠ざかっていく。

白い指が、俺の袖の端を、ほんのわずかに掴んでいた。


「怖くねぇのか」


「怖くないわ。生きるほうが、よほど怖い」


「秋彦には……話したのか?」


「……言ってない。言えば、止めるでしょうから」


そう言って、嬢さんは薄く笑った。

あれは笑いなんかじゃねぇ。

毒を含んだまま、笑って死のうとする顔だった。


「いいの。気づいてくれれば、それでいい」


「何を……」


「私が、生きるために、死の方を選ぼうとしてるってことよ」


俺は、黙るしかなかった。


あのとき――


俺があの子を追い出しておけば。

あの家を捨てる前に、誰かが“人としての線”を引いてやっていれば。


……だけどな、俺はそれをしなかった。

だからいま、こうして黙って道を歩いてる。



女を地に落とすのは、いつだって簡単だ。

けど、自分でそこへ身を投じようとする女を、見送るのは――堪える。


かつて庭を手入れしていたこの手が、

今は、女の背を押すことしかできねぇのか。


夜の路地に風が吹いて、嬢さんの細い肩が、すこしだけ揺れた。


嬢さん。

あんたは、まだ間に合うのか?


……その問いだけが、今も夜の中で残っている。

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