第三章《薄暮の棲み処》

―長屋に来た二人―

語り手:近所の老婆・おたえ


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この町に長く住んでるとね、人の流れが風のようにわかるようになるんだよ。

誰が引っ越してきたか、誰がいなくなったか。顔を見なくても、戸の開け閉めの音ひとつで、すぐに気がつく。


その日もそうだった。

あたしの長屋の並び――ずっと空き家だった一間に、人が入った。

若い女と、男のふたり連れさ。


最初に見たのは、夕暮れ時。

縁側にちょこんと膝を揃えて座る女と、その傍らで黙って荷を下ろす男。

なんともまぁ、場違いな風だったよ。


白い肌に、つやつやした黒髪。背筋をすっと伸ばして立ってる姿は、そりゃもう育ちのいいお嬢様って感じだった。

だけどね――目が、違った。


あの目は、年寄りの目さ。

諦めと、冷たさと、それから何か……人を見下ろすような静けさがあったよ。


隣にいた男も、また妙だった。

髪はぼさぼさで、頬はこけて、でも女のあとを忠犬みたいについて歩いてた。


「夫婦かい?」って聞かれたら、あたしゃ首を横に振るよ。

あれは主と従者だよ。影と本体ってやつさ。



そっからしばらく、夜になっても笑い声ひとつ聞こえない。

朝は男が水汲みに出て、女は火鉢の前でじっと座って動かない。


気味が悪いような、不思議なような――でも、気になって仕方がなかった。


ある日のことさ。

男がふらついて、道端で倒れそうになってたんだよ。


慌てて声をかけたら、まるで幽霊に話しかけられたみたいな顔をした。


「大丈夫かい、あんた。顔色が――」


「……大丈夫です。すみません」


それだけ言って、ふらふらと立ち去ろうとするもんだから、つい袖に手を伸ばしかけたけどね――やめたよ。


あの男には、触れちゃいけないもんがある。

見えない縄で縛られて、こっちの世界じゃないとこに生きてるような、そんな顔だったからさ。



次の日から、あたしゃときどき、夕飯のお裾分けを持っていくようになった。

煮物だったり、おはぎだったり、ほんのちょっとさ。


戸の前に置いて、「どうぞ」って声をかけると、男がぺこぺこと頭を下げて、女は奥から「いらないわ」とだけ。


でも、しばらくすると皿は空っぽで戻ってくる。

……ちゃんと食べてるんだ。それだけで、なんだかホッとした。


いや、正直に言えばね――

あたしゃ、あの男が死にやしないかと気が気じゃなかったんだよ。


女のことじゃない。

あの男の、痩せた背中の方が、ずっと気になった。



ある晩、つい覗いてしまった。

窓の隙間から、あの部屋の中。


女は畳に座って、本か何かを読んでいた。

その足元に、男が跪いて、ただじっと頭を垂れていた。


話もしない。

触れもしない。

ただ、そこにいる。


息を潜めたまま、光の差さぬ場所で重ならない二つの影。

あたしゃぞっとしたけど、目が離せなかった。



あれは、人の情じゃないよ。

恋とか愛とか、そんな生やさしいもんじゃない。


それでも思ったんだ。


――もしあの女が先にいなくなったら、あの男はどうなるんだろうか。


答えなんて、わからないさ。

だけど、胸の奥で「否だ」と叫ぶ声があった。


だから、今夜も皿を持っていくんだよ。

何も聞かずに、そっと戸の前に置いてくる。


そして、耳をすます。

あの部屋から、まだ息の気配があるかどうか――それを確かめたくてね。

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