第三章《薄暮の棲み処》
―長屋に来た二人―
語り手:近所の老婆・おたえ
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この町に長く住んでるとね、人の流れが風のようにわかるようになるんだよ。
誰が引っ越してきたか、誰がいなくなったか。顔を見なくても、戸の開け閉めの音ひとつで、すぐに気がつく。
その日もそうだった。
あたしの長屋の並び――ずっと空き家だった一間に、人が入った。
若い女と、男のふたり連れさ。
最初に見たのは、夕暮れ時。
縁側にちょこんと膝を揃えて座る女と、その傍らで黙って荷を下ろす男。
なんともまぁ、場違いな風だったよ。
白い肌に、つやつやした黒髪。背筋をすっと伸ばして立ってる姿は、そりゃもう育ちのいいお嬢様って感じだった。
だけどね――目が、違った。
あの目は、年寄りの目さ。
諦めと、冷たさと、それから何か……人を見下ろすような静けさがあったよ。
隣にいた男も、また妙だった。
髪はぼさぼさで、頬はこけて、でも女のあとを忠犬みたいについて歩いてた。
「夫婦かい?」って聞かれたら、あたしゃ首を横に振るよ。
あれは主と従者だよ。影と本体ってやつさ。
*
そっからしばらく、夜になっても笑い声ひとつ聞こえない。
朝は男が水汲みに出て、女は火鉢の前でじっと座って動かない。
気味が悪いような、不思議なような――でも、気になって仕方がなかった。
ある日のことさ。
男がふらついて、道端で倒れそうになってたんだよ。
慌てて声をかけたら、まるで幽霊に話しかけられたみたいな顔をした。
「大丈夫かい、あんた。顔色が――」
「……大丈夫です。すみません」
それだけ言って、ふらふらと立ち去ろうとするもんだから、つい袖に手を伸ばしかけたけどね――やめたよ。
あの男には、触れちゃいけないもんがある。
見えない縄で縛られて、こっちの世界じゃないとこに生きてるような、そんな顔だったからさ。
*
次の日から、あたしゃときどき、夕飯のお裾分けを持っていくようになった。
煮物だったり、おはぎだったり、ほんのちょっとさ。
戸の前に置いて、「どうぞ」って声をかけると、男がぺこぺこと頭を下げて、女は奥から「いらないわ」とだけ。
でも、しばらくすると皿は空っぽで戻ってくる。
……ちゃんと食べてるんだ。それだけで、なんだかホッとした。
いや、正直に言えばね――
あたしゃ、あの男が死にやしないかと気が気じゃなかったんだよ。
女のことじゃない。
あの男の、痩せた背中の方が、ずっと気になった。
*
ある晩、つい覗いてしまった。
窓の隙間から、あの部屋の中。
女は畳に座って、本か何かを読んでいた。
その足元に、男が跪いて、ただじっと頭を垂れていた。
話もしない。
触れもしない。
ただ、そこにいる。
息を潜めたまま、光の差さぬ場所で重ならない二つの影。
あたしゃぞっとしたけど、目が離せなかった。
*
あれは、人の情じゃないよ。
恋とか愛とか、そんな生やさしいもんじゃない。
それでも思ったんだ。
――もしあの女が先にいなくなったら、あの男はどうなるんだろうか。
答えなんて、わからないさ。
だけど、胸の奥で「否だ」と叫ぶ声があった。
だから、今夜も皿を持っていくんだよ。
何も聞かずに、そっと戸の前に置いてくる。
そして、耳をすます。
あの部屋から、まだ息の気配があるかどうか――それを確かめたくてね。
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