第二章《落日》

―一条家の庭から見えたもの―

語り手:庭師・岩永


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もう十年になるな、あの屋敷の庭を任されたのは。

華月庵――立派な名前さ。最初に足を踏み入れたときは、俺も背筋が伸びたもんだよ。


山から切り出した巨石を据えた石組みに、季節ごとに花の色が変わる植え込み。

あの頃は、金に糸目をつけねぇ仕事ができた。庭師冥利に尽きるってやつだ。


けど――

贅沢ってのは、長くは続かねぇんだよな。


旦那様、つまり一条の主人が何やら手広く事業に手を出したらしくて、それが見事に転んだのが三年前だ。

最初は仕事の回数が減った程度だったが、そのうち職人が出入りしなくなって、庭の剪定も「そのままで」と言われるようになった。


「……ああ、もう潮時だな」


そう思ったのは、奥様がふいと屋敷を出て行ったと聞いたときだ。

その後は、帳簿を手にした商人たちが怒鳴り込んでくる音ばかりが庭まで響いてきたよ。


だが――おかしなもんで、屋敷の奥だけは、ずっと明かりが消えなかった。


あの“お嬢様”の棟だ。琴音様。


そして、そこにいるのは、あの秋彦って従者だけ。



あいつのことは、正直なところ苦手だった。

いつ見ても無口で、気配のように歩く。琴音様の三歩後ろを、黙ってついてまわる姿は、まるで影法師そのものだった。


縁側の剪定をしているとき、ふと目をやると、琴音様が腰を掛け、その足元に秋彦が座っている。

何も話さず、ただ空を見上げるだけ。

芝居がかったような光景で、寒気がしたもんさ。


「……何がそんなにえらいんだか」


そんなふうに独りごちても、あの令嬢はまるで俺の存在なんか見えていない様子だった。

あれはもう、人の顔じゃなかった。人形だよ。美しくて、触れりゃ壊れそうな――そして、どこか恐ろしい。



だがな、あるとき小耳に挟んだんだ。


「秋彦は、昔、家が潰れて、拾われた子らしい」


台所の下働きの婆さんがそう言ってた。

「琴音様のお母上が、行き場のないあの子を引き取って屋敷に入れたのよ」と。


そう聞いて、少しだけ合点がいったんだ。


あいつは、あの家に命を貰ったんだ。

だから、琴音様がどれだけ人を振り回そうと、どれだけ冷たかろうと――見捨てられなかった。

まるで、自分を生かした源に、返しきれない借りを背負ってるみてぇにな。


……でもな、俺は思うんだ。


命をもらったからって、魂までやることはねぇだろう?

あいつは違った。もう、自分ってもんがどこにも見えねぇ顔をしてた。

俺が最後に見たときの、あの目――あれはもう、人間の目じゃなかった。



使用人たちが次々に暇を出されて、俺にもその日が来た。


最後に庭の見納めをしてから、お嬢様の部屋の前まで行った。

戸を叩くと、秋彦が出てきた。相変わらず、やつれて、背筋だけはまっすぐだった。


「……庭のこと、ありがとうございました」


深々と頭を下げられて、かえって困ったよ。


「いや、礼なんて、別に――」


そう口を濁していると、奥の方から琴音様の声がした。


「誰?」


「庭師の岩永様です」


「そう……じゃあ、もう終わりね」


その声は、何の感情もなかった。

茶碗を片付けるような、そんな調子だった。



俺は、引き揚げの支度をしながら、屋敷の裏口でふと足を止めた。

背中で戸を閉めかけたそのとき、何かに見られている気がして振り返ると――


秋彦が立っていた。

奥の廊下に、ただじっと。


目は合ったが、何も言わなかった。

あいつの口も、俺の口も、結局最後まで開かなかった。


そういうもんさ。

ああいう“何かに喰われちまった人間”には、言葉なんて通じねぇ。

もう、こっちの世界には戻れねぇんだ。


忠誠だの、恋だの、そんなんじゃねえ。

あれは――もっと別の、業の底に棲む執着だ。



椿の花が落ちる季節になると、思い出すことがある。


縁側に白い足首を浮かせて座るお嬢様と、

その足元に、ただ跪いていた秋彦の姿。


あれは、人間だったのか?

それとも――ただの業の化身だったのか。


わからねぇ。

ただ一つ言えるのは――


あいつは、自分の命で、あの女を拝んでたんだ。

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