04_Forward: Silver Bullet - 07
(嘴馬先生は、何故かこの件に関する記憶処理が効いとらん)
彼に対して覚えていた違和感は膨れ上がっている。
実際、魔術が効きにくい体質の者はいる。だが彼は幻想を見ることができる者とはいえ、魔術師ではない。魔術に対する防衛能力が無意識に発現しているということだろうか。しかし今それを考えても答えが出るはずもない。
神原は俺を己の居城へ引き入れた。
魔術師が己の工房へ他者を引き入れるということが何を意味するか、西洋魔術に疎い俺であろうと今はよく理解できる。
ちらりと雪島の表情を伺う。彼女は何か思い出そうとしているのか視線を左右に彷徨わせる。神原からの許しを乞うているような雰囲気も感じられた──それは正しかったか、神原は「構わない」と短く口にする。
「……、実は、その……私はこの職に就く以前、看護助手だったのです。といっても、非常勤ですけれど……東医で働いていた時期もありました」
「そうでしたか」 俺は努めて冷静に返す。「もしや、その。第四手術室で起きたことを────」
「率直に申し上げて、真実は分かりません。ですが、何か異常なことが起きている、というのは分かりました。当時、私は第一手術室で使用した器具を滅菌しておりました。その際に何か、異様な騒ぎが起きていたことをはっきり覚えております」
雪島は口にするのも憚られると言いたげに、青白い顔になっていく。
「血塗れの若い医者が、ふらふらと手術室から出てきたのです」
「第四手術室を見に行ったんですか?」
俺は鋭く糺した。雪島は「だって」と掠れた声をあげる。
「滅菌室にいても、悲鳴が聞こえてくるほどだったんですよ!? それなのに何もせず、そこにいるだけなんて……」
「つまり、当時一緒に勤務していた看護助手や医者にも、外から目撃した人物がいるんですね?」
「ああ」
神原が応じる。
彼と、周囲のこれまでの言動を思う。一人──該当者がいるのだ。
嘴馬遼士郎から見れば後輩。そして彼は四宮椿をよく知っていた。『椿ちゃん』と──まるで親戚か何かのような呼び方をする程度には、お互い勝手知ったる仲であることは容易に想像がつく。
それだけではない。俺が今まで見てきた夢が、譬え記憶の断片を無茶苦茶に繋ぎ合わせたような無秩序さの中にあっても、彼は常に四宮椿を知っていた。彼女の無茶に応じて、彼女の捜査に協力していた。
その理由が──『第四手術室の惨劇』であったなら?
ぱちり、とピースが嵌った感覚があった。
俺は真実に指先で触れていることを確信する。
「峯岸先生ですか」
「……十三年前、あの第四手術室で起きたことが全ての始まりだ」
神原は居心地悪そうに紅茶を一口飲んだ。そして何個か角砂糖を放り込み、少し乱暴にティースプーンで混ぜる。
陶器と金属が触れ合う無作法な音だけが客間に響き、開かれようとしている過去の記憶に嫌な感覚を伴わせた。
「あの事件は徹底的に秘匿されとる。誰も詳細を知らんし、陰陽庁や螺旋捜査部にさえ、詳細な資料が残っとらんかった。……」
神原は俺の言葉に、鈍痛に耐えるような表情を浮かべた。そして俺が何を聞こうとしたのか先回りして、
「記憶処理も完璧ではない。嘴馬がいい例だろう。あれは口を噤んではいるが、真相の大部分を知っているはずだ」
「あなたもそうだと?」
「否定はしない。あなたなら、医学特区が持つ本来の役割を知らないとは思えないが。それを考えれば、なぜ東医であんな事が起きたのか──」
俺は彼の物言いに椿の気配を感じ取る。ひどく不愉快だったが、神原信近の言葉は、確かに彼女の血肉となったのだろう。
「……すまない。他者を試そうとするのは、悪い癖だな」
難しい表情で神原を見ていた雪島に気づいて、形式的ではあったが、ひとつ謝罪の言葉を口にする。
「医学特区とあの事件に何の関係があるというんです?」
俺は意識的に語気を強めて迫った。しかし神原は全く表情を変えることなく、能面のように無表情のまま答える。
「君も知っての通り、医学特区はどれもこれも逆六角錐型をしている。その真下には水天龍宮が置かれ、それこそがこの世ならざるものを逆説的に証明しているわけだが……」
「待て。あんたなんでそんなこと知っとるんや」
「弁明が必要か?」
「螺旋捜査部と陰陽庁が厳重に情報を伏せとるはずや」
俺の言葉を無視して、神原は極めて冷静に続ける。
「重要なのは、この水天龍宮の存在が逆説的に幻想や神秘の存在を証明していることだ。つまり、医学特区という場所は魔術を成立させるのに、最も都合がいい」
「……それは、つまり、その────」
俺は必死に騒めく心を落ち着けようと、両手を握り合わせてみる。だが余計に緊張を生むだけでどうにもならない。
考える。十三年前に発生した『第四手術室の惨劇』。そして昨年の十一月に発生した『熾天使連続殺人事件』。どちらも魔術に依った──或いは、神秘や幻想といった存在の関与が疑われている。そしてこの事件が起きたのはいずれも医学特区の内部だ。
「如何にこの世界から幻想が喪失していようとも、魔術を起こす方法は変容していない」
神原の声が妙に響いて聞こえた。まるで脳髄へ直接語り掛けているような声だ。ずきり、と胸の奥が痛む。口腔内に苦い味が広がる。
「祈りが魔術の力になる、でしょう」
「流石にその程度は知っているか」
幻想は祈りから生まれる。
それらは二十一世紀においても変容しない不文律であり、絶対的な規範だった。
俺は必死に思考を巡らせる。
しかしそれらの基盤が最初から幻想の上に成り立っていたのなら、話は全く変わってくる。
脳裏に過ったのは〝屍者蘇生〟の四文字だった。
十三年前、四宮椿は一度死んだうえで蘇ったという。
二十一世紀において、屍者蘇生など不可能だ。死は覆らない。魔術理論に即しても、死んだ者を蘇らせるという行為は不可能とされている。
しかし椿はどうだ? 彼女は十三年前、血の海の中で再誕した。文字通りの屍者蘇生を遂げたのだ。
仮に神秘の遺物が蘇生の後押しをしたとしても、二十一世紀では単なる『考古学で貴重な資料』に過ぎないはずのそれらが再び神秘を宿すことはない。
だが医学特区という場所が、もしもそうであるというのなら。
「医学特区そのものが、大規模な──
「そうでなければ起こり得ない」 神原は吐き捨てる。「加えて、いずれも現場は局所的だった」
「…………東医」
俺の声は情けなく震えて、力が全く籠っていなかった。
熾天使連続殺人事件、その序幕となった処女懐胎事件──板取まひろの死んだ現場はまさに東医の病室だ。
あの病院に神秘事象が集まっている。
東医がそうした幻想や神秘と呼ばれるものを引き寄せているのだとしたら──
「そうだ」 神原は背もたれへゆったり身体を預けた。「その折に異常事態を外部へ知らせたのが──峯岸だった」
「いや。そうやとしたら峯岸先生は……記憶処理を受けとるでしょう」
「残念ながら、不完全だったようだがな」
「断片的に記憶があるんですか?」
「そのようだ。血塗れの手術室と、そこで少女を守るように抱きしめて床に倒れていた医者を見た、という話だった。だがその医者が嘴馬遼士郎であることは流石に……私も予想外だった」
「その話は誰から聞いたんです? まさか嘴馬先生がその話をしたんですか?」
「四宮を私の元へ連れてきた際にな」
そばに控える雪島が唇を噛み締める。年齢を感じさせる目元に強い怒りがあった。
ふと思い返す。あの夢の中においても、雪島は椿へ憎悪にも似た感情を向けていた。
「雪島さん」
俺は思わず彼女へ呼びかけた。
当時、彼女もまたあの事件を──断片的にではあるが、目撃している。誰にも話していない、彼女だけが知っている何かがあるのではないか? そんな疑念が湧き上がる。
彼女は俯いて何かに耐えていた。俺の声が聞こえていないらしい。
「あの、」
「あ……申し訳ありません。少し考えごとをしておりました」
雪島は一度瞼を閉じる。そして迷いながらも、まるで考えることすら罪だと言うように、彼女は口を開いた。
「何度も考えてしまうのです。彼女さえいなければ、お嬢様があんなふうに死ぬことは無かったのではないか、と……」
「雪島……!」 神原が声を荒げた。「それは、」
「申し訳ありません、旦那様。でもあなた様もそうお思いになったことは、おありでしょう……彼女が綾佳お嬢様に関わったから、お嬢様は────」
「違う」
そう言い切る。俺は気圧されてかける言葉を見失う。
神原は「違うんだ」もう一度苦しげに唸って、
「彼女は……祈りであり……同時に、罪の象徴なのだ」
「それは────」
「恨むなら私を恨んでくれ。雪島」
そう、祈るように懇願する。
「私は……医学特区が質量を持つ仮構であると気づいた時、できるのではないかと思ったんだ。……思ってしまった」
「旦那、様。一体何をおっしゃっているのです」
口腔内がカラカラに渇いていくのがわかる。
彼が何を言おうとしているのか知りたいという気持ちとは裏腹に、これを聞けばきっと後戻りできないという確信があった。
「そこで、私は現象にも遺伝子が存在すると仮定した」
それは椿も話していた事だ。
事象の背後には遺伝子がある。意識の発露や行動にさえ、それらは関与する。──そう言っていた。よく覚えている。
その言葉は耳にタコができるほど聞いた。
「そして同時に……事象の遺伝子を組み替える事で、死んだ人間を蘇らせる事ができると気づいた」
俺はローテーブルを叩き椅子を倒しかねない勢いで立ち上がる。
その独白が何を意味しているのか、それが理解できないほど俺は鳥頭やない。
「お前……! お前が、第四手術室の惨劇を!?」
「……否定はしない。関わったのは事実だ。だがあの神秘の遺物を使うと決めたのは、あくまで
その言葉に思わず血が上った。俺は神原の胸ぐらを掴み上げる。
「あの場に遺物を持ち込んで、嘴馬先生たちの思考を弄ったんやろうが。容器に魔術を仕込んどきゃ、条件が整えばどうにでもなる! ウィッチクラフトは魔女の十八番や────答えろ! 一体何が目的や!!」
ぐにゃりと神原の瞳孔が歪む。赤い光がそこに宿り、俺は無意識のうちに呪言を使ったことに気づく。また一つ己の箍が外れていく。人間の枠を外れていく。
だがそんなことは、もうどうでもよかった。
「……四宮椿である必要はなかった。誰でもよかった! だが、偶然にも。今にも死にそうな患者が来た。今しか、ないと思った…………」
「死にかけた患者の命を、己の仮構を現実に変えるためだけに弄んだんか」 俺の言葉に神原は、「はは」と乾いた笑みをこぼす。
「どんなに謗られようと! 私は成し遂げたんだ! ならば綾佳も──綾佳も四宮と同じように、取り戻す。遺体が灰にかわっていても関係ない。事象の遺伝子さえ、正しく組み替える事ができたなら──あの子は戻ってくる!!」
神原は無理矢理俺を突き飛ばす。そして肩で息をしながら、
「そうでなければ、四宮椿は何だと言うんだ。なぜ彼女だけが死の運河を遡上できた。なぜ彼女だけが? なぜ──」
「旦那様……、もう、もうどうか。もうやめてください」
雪島は恐怖に体を震わせながら必死に言った。神原がくるりと彼女へ振り返る。
見開いた瞳は充血し、娘を取り戻せるはずだ、その狂気的な妄執があった。
「どうして止める? 綾佳を娘のように可愛がっていたあなたが。仮に事象の遺伝子を組み替えるのに代価が必要ならば、いくらでも差し出せる。何のためにこの男をここへ連れてきたと思っているんだ」
「た、確かに──確かに私も、なぜお嬢様が死なねばならなかったのかと、この不条理を呪いました……しかし、市ノ瀬さんを、こ、殺して、綾佳お嬢様を……それでは人の命を塵芥とする天界魔教と同じです!」
「魔術師は最初から連中と同じ穴の狢だ」
ぽつりとこぼされた言葉には、後悔と諦観が滲んでいた。
もう後戻りできないと思っているのだろう。それは俺も同じだった。
「そうかもしれません。でもあんたは、まだ完全に外道にはなっとらんでしょう」
「知った風な口を、」
「言ったはずです。俺はあんたを犯人やと思っとらん、と」
「……何を、根拠にそんなことを」
「あんたからしてみれば、四宮椿という存在は、己の仮説を証明する存在のはずです。殺してしまうより生かして己の魔術研究の手伝いをさせたほうがいいでしょう。安定して事象の遺伝子を弄れるようになれば、それは……」
俺はそれを口にしようとして、ふと気づく──根本的な疑問があることに。
なぜ、神原綾佳と板取まひろが〝天使の口付け〟に──即ち処女懐胎の母体に選ばれたのか。
そして何故──椿が殺害されるに至ったのか。
しかしその疑問には、既に答えが出ている。俺は確信して口を開く。
「────神秘事象を明かすことに、直結する」
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