04_Forward: Silver Bullet - 03
俺はふらつきながら点滴スタンドを支えにしてベッドから立ち上がる。病室の真横に、少し奥まった談話室が設けられていたことを今更知って、この鬱屈とした部屋からもっと早く出るべきだったと妙な後悔が滲んだ。
「最初は東医の分院扱いされてる病院に閉じ込められてたんだがな」
嘴馬はカップ式自販機でブレンドコーヒーを買い、俺の前にはミルクティーを置いた。その甘さが重苦しい現実からわずかな逃げ道を与えている。
俺は温かいカップを手に取って、一口飲む。存外砂糖の量は多くないらしい。当然といえば当然の事だった。
「けど、その才能を腐らせてしまうには惜しい……っつうんで、四宮製薬──あいつの伯父が後見人になって、椿は飛び級して東医に入学することになった」
「その後あんたがずっと指導を?」
「まあ気にかけてはいたが、あいつは十七歳の時、医師免許を取った。指導医になったのはそれ以降だ。けどどっちにしたって臨床に出ることは全面的に禁じられてる。第四手術室の惨劇のこともあったし、何より……」
「未成年だったからですか」
「そう」 嘴馬は短く応じる。「あと単純に、椿が予想以上の研究成果を出してたせいで……、臨床に出すには惜しい、っつう向きもあったとは思うがな……」
「あいつの研究って遺伝性疾患に関することですよね」
「それだけじゃねえぞ。お前、ゲノムインプリンティングって知ってるか」
頭を過ったのは神原信近の姿だった。彼は確か、ゲノムインプリンティング──遺伝子発現の制御に関する研究において、第一線で活躍している。いや、それは俺が見ていた夢の中の話か? 己の記憶を信用できず、俺は曖昧に「まあ、」と答える。
「大雑把に言うと遺伝子発現のうち、制御に関わる部分……常染色体に存在する遺伝子のうち、いくつかの遺伝子は片方の親から受け継いだ遺伝子だけが発現される。それの制御を言うんだが……あいつはそれのうち、いくつかの遺伝子を書き換えることで、哺乳類の単為生殖を誘導できることを発見したんだ」
「……あの、それ、その研究って
嘴馬は首を軽く横に振って、
「まあ、世間的にはそういう向きだ」
「同じ中身とか、どう考えても不自然すぎるやろ」
「当ててもいいぞ」
「────まさか、剽窃したんですか?」
俺は声を潜めつつ、嘴馬に問いかける。嘴馬は頷き、先程とは異なって怒りの滲んだ声音で続ける。
「神原博士は当時の椿の指導教員だった」
「博士課程の?」
「そう。つまり、
「椿を殺して研究成果を全部掻っ攫う、そのために熾天使連続殺人事件を引き起こした……? もし、そうやとしたら、それは……」
嘴馬の証言が全て正しいなら、この仮説には説得力がある。俺は顎に手を遣って考えた。
第一に、椿は〝医学における万能の天才〟──そう呼ばれている。しかしそれは一種の皮肉だ。椿の研究は一分野にはとどまらず、様々な『医学』と名のつくものなら大概の分野に手指を伸ばしていた。
だが、〝四宮椿〟の名前で輝かしい業績をうち立てた成果を数えるのは、片手で事足りる。
椿から研究成果を奪い、脚光を浴び、そしてそれには飽き足らず、彼女の命も奪ったのか?
俺は膝の上で拳を握りしめた。もしここが談話室でなければ刺々しい悪態が口から漏れ出ていただろう。
それに──、神原信近には椿の死因──射殺、そうだ、凶器もあった。俺は記憶を反芻した。奴はどこからか拳銃を入手していて──そう思って、それが現実だったか、はたまた夢だったか曖昧なことに気づく。
クソ、微塵も当てにならん!
内心悪態をつく。嘴馬は黙って険しい顔をしているのだろう俺へ、少し居心地が悪そうな視線を寄越した。
「椿は……神原博士の剽窃を容易に糾弾できた立場だった。けどあいつは何もしなかった」
「何も、って。んな話! だってこれが本当なら、」
「『ひとつくらいくれてやっても構わない』……あいつはそう言ってた」
嘴馬は寂寞に苛まれながら、懐かしむように目を細めた。
「傲慢の極みだよなあ。『別にどうでもいい。私が欲しいのは、生涯を賭けて挑む価値がある難問だけだ』……ってよ。あいつ一人でノーベル賞三回は取れるだろうに、それを『どうでもいい』って言い切りやがった」
信じられねえよな、と嘴馬は零す。椿が追い求めた難問といえば、それはひとつしかない。
────生命とは何か。
それは椿が常に追い求めた問いであり、同時に自分自身へ投げかけられた問いでもあった。
椿は遺伝子が全ての生命を定義するという、化石のような学説に執心していた。それは彼女の魔術の根底に存在している。
俺は嫌というほど知っていた。
「もし神原が椿を殺したなら、奴は椿の
嘴馬はそう言ってコーヒーを一口飲んだ。
「たしか……魔術で変質させられたものを元の状態に巻き戻せる、んだっけか。前にあいつなんか言ってたよな」
「ええ」
俺は冷めたミルクティーの液面を睨みながら言う。少し痩けた俺の顔がゆらゆら浮かんでいた。
「しかも巻き戻した上で、代わりに魔術を挿入できます」
「上書きみたいなことか?」
「ウイルス感染とか形質転換が近いと思います」
俺は短く応じる。嘴馬は器用に片方の眉を上げて、興味深そうに先を促した。
「あいつの魔術はカバラや錬金術みたいな、魔術理論からは逸脱しとる。全くの我流である代わりに、生命現象のうち、五感で観測できない部分を起点にして
「ああ、成程な。事象が観測されるまで確定しない、みたいな。そういう話だろ」
「シュレディンガーの猫?」
「そうそれ」 嘴馬が俺を指差す。「それの遺伝子限定版を、椿はやってるわけか」
「恐らくそうだと思います。神原もそれには気づいていたはずです。奴は椿の魔術がどういう理屈なのか理解していた……」
「同時に椿の弱点を知り得ていた可能性は高いな」
「嘴馬先生」
俺は彼を呼んだ。はっとした表情のまま、彼は固まっている。俺は何を言おうとしているかを察しているようだった。
「俺を退院させてもらえませんか」
「莫迦言うな。お前、まだICUから出て三日も経ってねえんだぞ? 許可できるわけないだろ」
「嘴馬先生、自分で言ったやないですか。俺の回復速度、人外じみとるって」
「それは、いや言ったけどよ。それとこれとは話が別だ。分かるだろ」
「今、退院すれば──椿を殺した犯人が、俺の事も狙うと思っとるんですか?」
嘴馬は言葉を詰まらせた。「それは、」と何か言おうと口を開くが、彼は結局何も言わず唇を噛んでいる。
「大丈夫です」
「何一つ大丈夫じゃねえよ」
嘴馬は前かがみになって、焦燥を隠さない口調で矢継ぎ早に言った。
「椿が死んで、お前まで死んだら! 俺は──」
「……俺は〝魔女の仔〟なので。普通の人間よりはよっぽど頑丈です」
「頑丈なだけだろ!? なあ。考え直せ。お前が椿の死の真相に、熾天使連続殺人事件の真相を暴きたいのは分かる。けどお前がやろうとしてることは無謀そのものだ! 主治医の立場からも認められない!」
「なら言い方を変えます」
俺は立ち上がって、背の低いテーブルに手をついて彼の眼窩を覗き込んだ。
彼の鶸色と、俺の瞳がかち合う。
『俺をここから、出せ』
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