04_Forward: Silver Bullet

04_Forward: Silver Bullet - 01

 遠くで怒号が響いている。視界を覆うのは白一色のみで、俺は自意識と夢想の境界面を泳ぐ。

 胸部に何かが押し込まれるような感覚がずっとあった。それが絶えず与えられる痛覚の正体であるということが何となく理解できた。


「胸骨圧迫止めるな! アドレナリンワンショット!」


 徐々に声が輪郭を帯び、その声の主が誰なのか──俺は何となく察しがついた。

 これは胡蝶の夢などではない。紛れもない現実だ。微かに瞼が震える。激しく脳裏を駆け巡る映像の中から生きるための術を探しているのか、俺の視界を塗り潰していた白が段々色を変え、激しく回転と点滅を繰り返す。


 緋色。四宮椿というひとりの天才の人生を彩った色。

 俺の人生をたった三か月でめちゃくちゃにした色。


 そして同時に──俺の運命を決定づけた色だった。



「カウンターショック準備は!?」

「もうできてます!」


 少なくともこれから現実に俺が戻っても、その色まで戻ることはない。

 何故なら──



探偵椿は、死んだ)



 彼女は使という、社会を震撼させたその事件の真実を暴き、そして真相を秘匿してみせた。その代わり、彼女は死んだ。


 その全てを背負って、俺の腕の中で短い一生を終えた。


 俺は傍観者だった。彼女の覚悟に指先を伸ばすこともできず、ただその道行を眺めていた。偶然それを共有された端役にすぎず、きっと俺でなくても構わなかった。


 だから俺はこのまま死んでも、別に問題が無かった。




 まるで緋色の花弁が絨毯のように敷き詰められ、その上に身を投げているように見えた。


 俺の全身の細胞が事実を拒絶し、あり得ないと嘔吐するように叫ぶ。呼吸もままならず、もつれるように倒れた彼女へ駆け寄る。


 真っ赤に染まった椿の胸元からは、生きようと心臓が拍動するたびに鮮血が零れていた。


 緋色の絨毯と思われたそれは、椿の体から流れ落ちていく血液だった。

 かつての外科医としての経験が、螺旋捜査官として死体を様々見てきた経験が、その傷はどうすることもできない手遅れの致命傷だと伝えてくる。


 椿の受けた弾丸は肺動脈を貫通し、心臓にまで間違いなく到達していた。




「──駄目です! 戻りません!」

「アドレナリン追加しろ! ッ、……!」


 よく知った声が響く。遠ざかる感覚と、意識が暗闇へと堕ちていく。

 もうこのまま全てを手放して楽になってしまいたいと思った。冷たい水が全身を包み込んで、見上げる水面が遠ざかる。どこからともなく鯨の鳴き声に似た音が聞こえて、どんどん俺の身体は沈んでいく。

 眼下には逆さまになった白い街が見える。上下反転した医学特区の景色だった。俺はどうも、落ちているらしかった。




 俺は椿を抱き起こす。

 手に触れる生ぬるい血液の感触が、未だ体温を遺している椿の体が、俺に触れようとゆっくり伸ばす右腕が、酸素を吸えず細く喉が鳴る呼吸音が、俺が喪いたくないと願った最愛が崩れ落ちていくことを予感させた。


 嫌だと嘆いても、体外へ流れ出た血液が体内へ戻ることは無い。

 時計の針は一方通行で、生物には全て終わりが設計されている。


 知っていたはずだった。遅かれ早かれ命には終わりが訪れ、椿もその例外には漏れず死からは逃れられない。けれどこんな形で椿を喪うなんて、俺には耐えられなかった。


 俺は椿の過去へ切り込んでいない。

 俺はあくまで椿の傍に偶然いて、理想を共有したに過ぎない端役だった。


 死ぬな──生きろ──そう叫ぶ権利など、持ち合わせているはずもなかった。


 たった一年だ。たったの、一年。

 余りにもその時間は短すぎる。お互いを知るには十分な時間だったが、人生の内の一年なんて瞬きの間に過ぎさる。


 だがその瞬きの間に、俺の人生は変わったのだ。


 俺の命は彼女のために使うと、彼女こそが──椿こそが俺の存在理由レゾン・デートルだと確信するには十分な時間だった。




 事件の発端は人体発火現象だった。

 しかし──その事件の後、が現れる。その少女らの死が、熾天使連続殺人事件の幕開けを告げた。

 二人は。だが、それと同時に死亡した。まるでその命と仔を引き換えにしたように。

 俺と椿はそれを目撃し、同時に己の無力さを呪った。


 二人の、少女。処女懐胎。そうだ、俺は──真相に辿り着けなかった。

 あの事件を椿は途中で解くのをやめた。「この一件、私の手には余る」そう言い残して。だが実際は違ったのだろう。彼女は誰よりも早く真相に辿り着いた。だから死ぬしかなかった。俺は追従する事もできず、彼女の死を────



「頼む、戻ってこい」


 重く、鈍い痛みを覚える。誰かが俺の身体に体重をかけて、必死に死の運河を押し戻そうと足掻いている。気づけば俺は暗い、紺色の川の中にいた。ぼんやりと目を開いて正面を見れば、遠くの天に沢山の星が瞬いている。

 そのなかに一等輝く白い星があった。俺は生ぬるい川の中で重い身体を持ち上げて、その星に吸い寄せられるように必死で歩く。




『咲良……?』


 椿が細い声で俺の名を呼ぶ。俺の頬に触れる椿の指先は血が通っておらず陶器のように恐ろしく白かった。

 スーツに染み込む血液の冷たさに、意識が少し引っ張られる。だが色の抜け落ちた白い顔の椿は、まるで雪のようだと思った。


 死の際であっても椿は美しかった。


 俺は椿の方へ顔を寄せる。その一言一句を聞き逃さないように。俺が決して、椿に何もかもを伝え漏らさないように。


『すまない』

『喋るな! 止血する、だからもう黙れ!』

『私は、見誤ったようだ』 椿はそう言って力なく笑った。『私が挑んだ相手は、想像の、埒外に……、』

『五月蠅い、黙れ! クソ、血が──ッ』

『咲良、もういい。……聞いて、くれ』




「────咲良!」


 その声が誰のものなのか、俺はもう思い出せなかった。ただその星だけが俺の道行を指示し、ただひたすらに手招きしているような気がしていた。

 それは死の誘惑がかたちを得たものなのだろう。もう楽になってしまえばいい、という甘美な囁きだった。


 一歩、立ち止まる。あの夢は俺の作り出した幻だ。椿が死なず、どうか生きていてほしいと願った俺のみっともない願いの形。

 だがその夢の中にあっても、椿はどこまでも真実を明かすことに執心する人だった。

 そして最悪な事に、彼女は俺に言った。




『……咲、良。……頼む』

『聞けない』

『最期だから、聞いてくれ。……これは、私からの、遺言だ』


 そんなことを苦し気な息と共に吐きだす。

 俺は温度をなくしていく椿を抱きしめながら、聞きたくないという思いと、聞かなければならないという思いの狭間で葛藤を握りつぶした。



「西へ、向かえ。全ての答えは、そこに……置いてきた」



 もしもこれが椿なりの「全て救う」、その理想へ至るための殉教ならば、俺はきっと椿を許せなかった。その死を受け入れられなかった。


 ────けれど。




 俺は星を一度睨み、踵を返す。


 名探偵の傍にはその名探偵を信じ続ける助手が必要だと、思っているわけではない。

 これは俺の一方的な彼女への信頼で、随分身勝手な祈りの形だった。

 



「椿……」


 唇の隙間から掠れた声が漏れる。

 ぴ、ぴ、と規則正しいバイタルサインが徐々に大きくなり、俺は左目の目尻が濡れていることに気づく。焦点の合わない瞳が震えて、視界の白が時折歪曲しては元に戻る。明らかに視覚がまだ正常ではないのだろうが、その中にもよく認識できる色があった。


 俺の顔を覗き込む者の色だけが、俺の視界の半分を埋めている。

 深い浅葱色のドクタースクラブ。目元を少し覆う短い黒髪。俺を覗き込む瞳の色に気づく。鶸色だった。


「咲良!! 俺がわかるか!?」


 俺を現実へ呼び戻したのは、椿の死を俺同様に目の当たりにしたひとだった。嘴馬遼士郎が、俺を覗き込んでいる。うまく動かない腕を、指先を必死に動かして、ベッドサイドに置かれた彼の手に触れる。

 この感触が本物かを確かめたいという気持ちもあったが、同時に伝わってくる体温で、今の今まで誰が必死に俺を死の淵から救おうとしていたのか──それを識る。


「……嘴馬、先生…………」


 俺はその名を呼ぶ。自分のものとは思い難い、遠いところから溢れた掠れ声も彼は聞き逃さなかった。嘴馬は「ああ」と俺に応じて、軽く腕で額に滲む汗を拭う。


「椿、は──」


 自分でもそんな未練がましいことを言う気はなかった。

 彼女は間違いなく死んでいる。俺は彼女の終わりを目撃して、彼女を看取った。


 そのはずだが、哀れな話である。

 俺はまだ彼女が生きている可能性に縋り、その緋色の所在を探していた。


「……すまん」


 嘴馬は自分の罪かのように目を伏せた。

 違う、と叫びたかったが、体は全く言うことを聞かない。


「椿は、だめだった。……遺体も……神秘汚染源だなんだって、陰陽庁の連中が持っていきやがった」


 彼は手で目元を覆う。徐々に視界が鮮明になり、死にかけていた俺よりも死にそうな顔をした嘴馬の表情が顕になった。


「陰陽庁なら、」


 俺は必死に言葉を紡ぐ。相変わらず聞こえるか怪しい塩梅だったが、嘴馬は軽く背を曲げて俺に傾聴している。


「なんとかなるかも、しれません」

「どういう意味だ、それ」


 嘴馬の目が見開かれる。そこには椿を救えなかったという激しい後悔──そして、蜘蛛の糸に縋るような心がある気がして、俺は思わず視線を逸らした。


「俺の上司が……」


 そう言いかけて、それが夢の中のことだったか、はたまた現実だったか分からなくなっていることに気づく。

 どこからが夢だったのか酷く曖昧で──現実感を失い、生死の狭間でふわふわしている俺は、自分の言葉にさえ信頼を置けずにいた。


 俺は思わず黙り込む。それに俺の精神状態を察したのか、「確信が持てたら、また話してくれ」と口にした。その言葉には、必死に隠しているのだろうが──焦燥を押し殺しきれておらず、じわりと滲みだしている。



「咲良」


 嘴馬はすがるような声で俺を呼んだ。奇妙な感覚だったが、俺はどこかで納得していた。


「お前が生きていてくれて、本当に良かった」


 四宮椿をこの世に留める楔としては、俺は不十分だった。彼は俺の失態で弟子を失った。だというのに俺にそれを言うのか、と──


(……ああ、)


 嘴馬遼士郎はどこまでいっても医者だった。

 俺は瞼を閉じる。急に襲ってきた疲労感と眠気に身を任せて、意識をゆっくりと手放す。


 彼は俺が目指した医者に、一番近い姿をしていた。



***



 自分でも驚くほどあっさりとICUから出してもらえたものだと思う。数日前、突然心停止し──死の運河を渡りかけたが、俺は思った以上に頑丈だったらしい。

 窓の外に見える景色は、世間が初夏に移り変わっていることを俺に教えた。夢の中では冬だったからか、それが余計に現実感を奪っていた。


 一般病室に移されてからはずっと現状の整理をしようとひたすら考え続けていた。まずどこが現実で、どこが俺の夢だったのか。それすら曖昧なのにどうしようというのだろうか? そう思ったとき、病室のドアを叩く音があった。まず看護師が、そして続けて入ってきたのは、少々草臥れたブラウンのスーツを身に着けた男だった。



「大城さん」


 大城照明おおしろてるあき。陰陽庁では俺の上司だった男だ。俺は彼の存在が現実だったことに安堵した。だが同時に疑念も湧き上がる。未だ俺は自分が夢の中にいるのではないかと、そう疑っていた。


「市ノ瀬君! よかった、起きれるぐらいになったんだね」


 大城はバタバタと傍の丸椅子を引きずってベッドサイドへ腰かけた。看護師は少し大城へ邪魔だと言いたげな視線を向けていたが、特に何も言わず俺の左腕に血圧測定用のバンドを巻き付け、さらりと去っていった。


「嘴馬先生から、こっちに連絡があってね」 そう前置きをして続ける。「いや……四宮先生のことは、その……残念というほかにない。まさか天界魔教がここまで手段を選ばないとは────」

「大城さん。結局この使って、どうなるんですか」


 俺はどう聞くべきかわからず、随分曖昧な問いかけを投げる。大城は少し考え込むような素振りを見せて、


「そう、だね。事件が事件だ。……多分、秘匿処置される。警視庁は天界魔教を独自に追っているようだし、マル暴と公安が動いてるって話もある。陰陽庁と螺旋捜査部ができることは、多分もうない」

「……ッ、じゃあ真犯人は分からずじまいってことですか!?」 

「いや、市ノ瀬君、それは……」

「椿はどうなるんです! あいつを殺した奴は──」 俺は大城に詰め寄る。あまりの剣幕だったか大城は僅かに顔を引きつらせた。

「率直に言うが、望み薄だ。彼女を殺した犯人を見つけるのは困難を極めると思う」


 予想はしていた。だが実際に口にされると、どうにも納得がいかない。唇を噛んでいる俺を見て、大城は決まりが悪そうに続けた。


「収容した遺体を確認したが、彼女の身体は強い神秘汚染の影響を受けていた。一般職員が近寄れないほどにね」

「……蘆屋あしや長官の、卜占が……良くないと言っていましたよね」

「あ、ああ、うん。よく覚えてるね。去年の話だろ、それ」

「嫌でも覚えとりますよ」


 俺はぼそりと呟く。俺にとってはついこの間の話だった。


「少なくとも陰陽庁は、事件が起きる可能性は把握しとったんでしょう。でも何もせんかった」

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