03_Reverse: Deceit Ruby - 06

 ファイヤーフライは蛍の英名である。そんな印象に残りやすい名前の製薬会社なら、きっと忘れるはずがない。俺はそんなことを思いながら記憶を手繰ったが、少なくとも俺の記憶にはその名前は無かった。

 椿も顎に手を遣って暫し考え込んでいたが、ふるふると首を横に振る。


 だが明らかに不自然だった。まるで何か──都合よく、そこに空いた穴を埋めるためのパーツが置かれたような、奇妙な感覚がある。

 真っ直ぐの道を歩くために、穴ぼこの道を舗装しながら歩いているような、いや、〝歩かされている〟ような──。



「少なくともこのいとしま医学特区にそんな名前の製薬会社は無い。ましてやバイオベンチャーも……」


 椿は静かに告げて俺に視線を投げる。赤い瞳の奥で瞳孔が狭まり、視線の鋭さは猛禽類にも引けを取らない。


「厚労省も把握していないなら、十中八九反社のペーパーカンパニーだろう」

「なら結局、神榮会を調べなどうにもならんか」

「そうなるな。──ところで、東屋。この周辺に天界魔教というカルトが入信者の〝狩場〟を設けているらしいのだが」

「何故俺が知っていると思うんです」


 彼は露骨に表情を歪めて、苛立たしいと言わんばかりに声を荒げた。


「私は何も言っていないぞ」 椿は挑発するように口元を歪める。「しかし随分と私を警戒するな。後ろ暗い事に心当たりでもあるのか? ──そう、例えば、小遣い稼ぎのために自分の意志で『ファイヤーフライ』へ検体を売り払った、とか」

「……!!」

「それとも、もっと深い繋がりがあるか? 繋生会は以前から反社との繋がりが囁かれている。こんな愛と憎悪の坩堝の傍にあるんだ、何かあってもおかしくはあるまい」


 椿が一歩、彼に近づく。東屋は暫し彼女を睨みつけたまま、何も言わず唇の色が失せるほど噛み締めた。その沈黙が全ての答えだった。


「まあいい。実際に行って確かめるだけだ」


 椿は俺を呼びつける。

 俺はどこまで行っても名探偵を信じていた。だがそれは本当に正しいことなのだろうか? 視界がぐらぐらと揺れている。耳の奥を突き刺すようなバイタルアラームに合わせて、激しい動悸が胸を圧迫した。


 意識が時折何かに引っ張られる。時折胸を襲う激しい痛みに耐えながら、俺は前を行く彼女を追って駐車場へ向かう。車のドアに左手をあてがい、ドアロックを解除する。

 指先は冷え切っていた。冷たい外装に触れる感覚、俺が知覚している感覚が虚構であるはずがない。


 だが──それでも、もう無視できないほどに疑念が膨れ上がっていた。


 第一に、椿は全てを知っていた。観察眼や推理力を以って全てを暴き立てた、そう思うには知りすぎている。それは彼女が普通の人間ではないからなのかもしれない。

 第二に、椿は魔術師だ。処女懐胎という人知を超えた事件を起こすには、科学と魔術──相反する技術に精通していなければならない。


 彼女を信じていたいとは思っている。だが事態はあまりにも──彼女の掌の上だ。

 ではそれが何を意味するのか、最早考えるまでもないだろう。



「咲良」


 椿が俺の名を呼ぶ。そして、きっと血の気が引いているだろう俺の顔に軽く手をあてがった。


「酷い顔色だな。使うといい」


 彼女が差し出したのは真っ赤な口紅だった。イヴ・サンローランの真っ赤なルージュ。間違いなく椿のための色だ。


 俺は震える指先でそれを受け取り、蓋を取る。あまり使われた形跡のない口紅をぼんやり眺めていれば、椿は細い指で口紅を取り──俺の顎を軽く掴んで、顔を動かさないように固定した。

 そっと、唇に冷たい緋色があてがわれる。す、と左へ引いて、慣れた手つきで俺の唇が真っ赤に彩られる。


 ──緋色。俺は間違いなくこの女に呪われている。



「焦らずとも構わん。時間なら大いにあるからな」


 椿は不敵に微笑んだ。


「その口紅はやろう。代わりならいくらでもある」

「……、ッ……椿、お前、」

「ああ、それとも


 その言葉が酷く甘美な響きに思えて、俺は思わず生唾を飲み込む。俺が固まっていれば沈黙を肯定と受け取ったのか、椿はふっと微笑んだ。

 俺は反射的に彼女をつき飛ばして、ホルスターから拳銃を引き抜いた。銃口を彼女の額へ合わせる。


「おや」


 特に驚くこともなく、椿は『想定の範囲内』と言わんばかりの表情で俺を見返した。


「お前、なんか……?」

「何を言っている」

「お前がこの事件を起こしたんか? 魔女を使って処女懐胎を起こし、板取まひろを殺害して──そして自分で組み上げた事件を解き明かす。そうすれば完全犯罪の完成や」


 拳銃の安全装置を解除する。金属が触れ合う音だけが俺の耳を叩く。椿は黙ったまま俺を見据えていた。そこにはただ優美な微笑が浮かんでいるだけで、彼女は何か反論しようとかそういう仕草すらみせやしない。

 それが酷く気持ち悪かった。心臓を圧迫されているような不快感が全身を突き抜ける。息苦しさに思わず喘鳴が零れ、俺は必死で彼女に照準を合わせた。


「一体何が目的でこんなことを!?」

「一つ教えてやろう。咲良」


 椿が一歩こちらへ踏み出す。手が痙攣して思わず必死に握りこむ。


「拳銃を向けるべき相手は私ではない。何故私がそのような犯罪を犯さなければならない? よく考えるべきだな」

「黙ってくれ」

「それに──もしも私が完全犯罪を起こそうと思えば、そもそも起きた痕跡すら残さない。その時点でお前の推理は破綻している」

「もう黙れよ!」



 俺は反射的に発砲した。弾丸が椿の顔を掠めて、頬に一筋赤い傷を作る。白い電灯の光が彼女の姿を曝け出し、そして同時に俺は己の過ちを悟った。

 椿は全く動じていなかった。彼女はそういうひとだと、よく知っている。


 そう。。彼女は正しい人だ。

 だから俺の行動が酷く間違った行為であることは、彼女の言葉が、俺の中にある椿の残響が証明している。


 耳の奥で甲高い音を立てるバイタル音。遠くで怒号が聞こえる。きっと誰かが死にかけている。誰かの「スタットコール!」という声が耳元で聞こえた気がした──ERの喧騒がここまで聞こえているはずがなく、それは俺の幻聴だということは理性で理解できている。

 だがそれでも──それでも、最後のひとつだけは認めたくなかった。


 


 その答えは目の前にある〝医学における万能の天才〟が握っているのだとばかり、俺は思っていた。

 だが間違っているのはきっと俺の方だ。



「咲良」



 椿は俺の名前を呼ぶ。その声には今までにない切実さがあり、そして誰かの──耳馴染みがある声が重なっていた。

 街灯の白いLEDが彼女の姿を再び映し出す。そこに、俺が見知った緋色は無かった。代わりにあるのは俺の知らない表情をした、四宮椿という皮を被った何か。俺の知っている彼女ではない、彼女が持っているのかもしれない側面が滲んでいる。


 俺は今まで、四宮椿というひとを〝医学における万能の天才〟というフィルターを通して認識していた。けれど実際の彼女は違う。彼女にも誰かを慈しむ一面があって、それは俺が積極的に見ようとしていなかった側面の一つだった。


 だからこそ、何が起きているのか理解したくなかった。理解してしまえばきっと、ここに留まっていられない。俺は激しい鼓動に、徐々に強まる酷い窒息感に耐えかねて、もう一度引き金を引いた。


 凶弾が跳ねる。それは椿に当たることはなかった。背後のアスファルトを蹴っている。


「ッ、は、……あ、何で……」

「もう止せ、咲良」


 椿のなめらかな手が俺の両手を包む。拳銃ごと抱いて、その声で俺に語り掛ける。


「やめろ」

「お前は既に分かっているはずだ」

「頼む、やめてくれ」 俺は懇願する。「俺は……」



「私はあくまで、お前の思い描く残響に過ぎない」



 その声に、息が止まる。

 視界が発火する。思い出さぬように封じ込めた記憶が滝のように流れだし、俺の意識を飲み込まんと心臓へ牙を突き立てた。


 雨の日だった。俺は彼女を、腕の中で看取った。

 あまりにも無力で──不条理で、何もできなかった。


 そしてあの時、俺もまた────



「お前はまだこちら側へ渡るな。お前にはまだすべきことがある」

「訳の分からんことを言うなや! お前は、だって、……俺は!」


 何も出来やしないだろう。結局のところ俺は、彼女に全てを背負わせてしまった。俺はただ偶然彼女の傍にいて、彼女の道行を眺めていた端役に過ぎない。


 俺でなくてもよかった。もっと彼女の力になれる者が傍にいるべきだった。

 傍観者に過ぎないならば、いないのと同じだ。


 俺はあの事件において──使において、



「事件を解体あかせ。まだ終わっていない」



 椿の凛々しい声に顔を上げる。いつしか驟雨が灰色の世界を覆い尽くし、俺と椿の全身を濡らしていた。

 あの日と同じだった。冷たい雨が全身を叩き、容赦なく体温を奪っていく。

 右手に握りこまれた拳銃は冷たく沈黙している。無意味に吐き出した弾丸のせいで、残弾はもう一発しかない。これを外せば、俺が元に戻る機会は永久に失われるかもしれない。


 誰かが俺の名を叫んでいる。全身を裂くような激しい胸痛も、時折顔を叩く水滴も、現実と夢想の境界をぼやかしていた。

 しかしその中でも確かなことが一つだけあった。この幻想に終止符を撃ち、俺はここから去らなければならない、ということ。


 俺は震える手で下顎に銃口を押し当てる。

 もしもこれが俺の推理と違ったら、俺は哀れにも心を病んで自殺したことになる。


 椿は何もせず、黙って俺を見つめていた。驚くほどその視線には強制力がなく、ただ凪いでいる。俺を見守るような、慈愛すら感じられた。だから余計に気分が悪かった。



 椿がそんな風に俺を見つめることはない。

 その一瞥をくれてやるべき人間は別にいた。俺はそれを、知っている。



 それが決定打だった。

 俺は一切の迷いなく、下顎から脳天を撃ち抜いた。


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