03_Reverse: Deceit Ruby - 05
五分ほど後、ナースステーションに生真面目そうな外科医が現れた。
顔の彫りが深く、少しばかり髪の毛に銀色が混ざっているせいか、どこかの俳優にいそうな雰囲気がある。
俺は立ち上がって彼に向かい頭を下げた。東屋もまたぺこりと頭を下げて、椅子へ腰掛ける。全く動じていない様子が居心地悪かった。
こちらへ、と案内されたカンファレンスルームはだだっ広く、たった三人で使うには不相応である。しかしここ以外に込み入った話ができる部屋もなく、俺と椿は出された椅子へ大人しく座った。
「
「ちょっと黙っとれ」
俺は慌てて彼女の口を塞いだ。絶対こいつ『お前、板取あゆみと不倫しているらしいな』っつう気やったろ。
口にこそしないがじっとりとした視線を向けられたので、きっとそういうことだと思われた。
「螺旋捜査官の方が何の用事でしょうか」
「板取あゆみさんの娘さんが、東医に入院しているのはご存知ですか」
「……ええ、まあ」
東屋は軽く瞼を伏せ、視線を下へ向ける。銀色の結婚指輪に視線が向いていると気づいたのは、彼が再び喋り始めてからだった。
「ですが、別に何も……螺旋捜査官に睨まれるようなことをした覚えはありませんが」
「彼女は……、その。……亡くなりました」
「は?」
東屋の顔が硬直する。明らかに恐怖で顔を強張らせたように見えた。黙ったままの椿は軽く視線を上下に動かして、彼を細かく分析しているのか身体を前屈みに、柔く両手の指を突き合わせた。
「どういうことだ!」
椅子をひっくり返す勢いで立ち上がる。わなわなと震える指先を握り込み、黙ったままの俺と椿に詰め寄る。
「答えてくれ。頼む」
「赤の他人だろう」 椿は冷徹に言い切った。「何故そこまで板取まひろを気にする」
「他人なんかじゃ、ない」
「興味深いな」
唇を吊り上げて歪める。蛇が鎌首を擡げて獲物を品定めするような、鋭利な光が瞳に宿っていた。
「お前は板取あゆみと不倫関係にあったんだろう。ナースが噂していたぞ。他人でないなら何だ?」
「ちが、」
「おや。随分と狼狽しているな」
よく通る声が東屋の言葉を遮る。絞り出すように彼は椿へ噛みついた。
「あ、あなた方は一体何なんだ! 急に押しかけてきて、まひろが死んだ? 何を莫迦なことを──」
「『お前が不倫していたのは板取あゆみじゃない。板取まひろのほうだ』」
男は顔を真っ白にして固まった。唇がはくはくと動くが、何も声は出ていない。何故それがわかったと言いたげな顔だった。
つまり、まひろには話していない男性との関係があった。だが実際に彼女が孕んでいたのは魔女の仔であり、この男は手こそ出していないものの、
「未成年やぞ」
自分のものとは思えないほど重く、憎悪が滲んだ声が溢れる。東屋は覚束無い足取りで数歩後退して、床へどさりと腰を落とした。
俺は男の青いドクタースクラブ、その襟元を掴んで引っ張り上げる。
「正気か? 子供を食いもんにして──それでも医者か!」
「違う! あの子は俺の娘だ!!」
「あ……?」
思わず手の力が緩む。椿は俺を止めもせずに観察しているだけで、何か口にすることもない。ただ赤青の双眸がスキャナのように情報を読み取り、その頭脳で分析しているのだろうと思われた。
「信じてくれ。本当なんだ。俺は、板取師長とそんな関係じゃない、ましてやあの子に手を出すなんて有り得ない!」
「何をアホな話、」
「本当なんだ! あの子は俺が──」
東屋がそう言いかけた時、椿の口元が優美な曲線を描いた。
「生殖細胞バンク」
東屋の目が見開かれる。
その表情は皮肉にも、驚愕の色で塗りつぶされたまひろとそっくりだった。
何故その可能性に思い至らなかったのか、俺は唇を噛む。近年そうしたサービスが増加傾向にある、ということは厚労省から通達が来ていた。そしてそれに伴う犯罪が横行しているということも。
「生殖細胞の提供によって生まれた子どもには、遺伝上の親を知る権利がある。まひろはそれを行使して、お前に出会った」
「遺伝上の父親が、あんた……? じゃあまさか彼女が言っとった『お父様』って」
「おや。冴えているな咲良。そう──お前の推理通り、この男のことだ」
椿は言葉を切って、どこか弾むような声音で続ける。
「まひろの父親は普段から海外にいる。峯岸が会ったのは一ヶ月前、手術をした時だけ。普段から彼女を気にしていたとは思い難い。だがまひろ本人は父親との関わりを示唆していた──どういうことか、もうわかるだろう」
「父親と呼べる相手が二人おる。一人は遺伝上の父親。もう一人は家族としての父親……」
俺は独り言つ。そして椿が言った『板取まひろと不倫している』という言葉の意味は。
「そうか。あんた、自分の奥さんに不倫疑惑をかけられとるんですね」
「……、その通りだ」
東屋は目を伏せて項垂れる。
「妻は……俺とまひろが会っているところを見たらしい」
「弁解は聞き入れて貰えなかったようだな」
「ああ」 彼は椿の声にか細い声で応じる。「元々苛烈な人だ……」
「そういえば──」
俺はふと板取まひろの事を思い出す。彼女は俺が螺旋捜査官であることを明かしたとき、随分激しい反応をしていた。彼女は何か知っていたのだろうか。
眼前の東屋へ視線を移す。生殖細胞バンク──それによってまひろは生まれた。そして彼女は己の遺伝上の父親がこの、東屋賢吾と知った。
しかしその生殖細胞は果たして正しい経路で入手され、法律と倫理のもとで正しく扱われた代物だったのだろうか?
仮にそうでないならば。まひろと神榮会の繋がりとは、つまりそういう話だろう。
俺の表情を見て、椿はふっと鼻で笑った。彼女はすでにその可能性に指をかけ、尚且つ最もそれがあり得る仮説だと考えていたらしい。
「……東屋先生。その生殖細胞バンクは、きちんと認可されたものですか?」
「いや……、わからない……」
彼は完全に諦めた様子で首を横に振った。そして膝の上で拳を握り込み、少しずつ口を開く。
「最初の話では、臨床試験のサンプルを広く集めるという話だった。ご存知かもしれませんが、東医では始原生殖細胞を分化済みの生殖細胞から作り出すという研究が行われていて──」
「知っている。だが頓挫した」
「その通りです」
東屋はわかったようなわからないような声をあげる。
「とにかく、その……その研究にサンプルを提供したんです。しかしその検体が、知らない間に聞いたこともない生殖細胞バンクに登録されていて……」
「つまり、その研究チームが解散した後。何者かが無断で検体を売り払った」
「その売却先が、神榮会」 俺は椿へ呼びかける。彼女は「だろうな」と短い返事を返した。
「ああ成程──それで彼女は馬子顕性遺伝子を持っていたのか」
椿は唐突に声をあげる。東屋は何も言わずに両手を握り合わせ、深く息を吐き出した。
「あなたは……一体、何者なんです? なぜ俺が……馬子だと」
「説明が必要か? 私は四宮椿。それで十分だろう」
「四宮……椿……」
東屋はその名を反芻した。だがその口調はどこか熱に浮かされていて、同時に激しい嫌悪を孕んでいる。
その正体が何なのか──俺にはまだ検討がつかなかったが、いつも通りに不遜な微笑みを浮かべている椿は気にする様子がなかった。少なくとも今は検討しなくてもいい。
この女が大厄災であることに間違いはないが、その頭脳には比肩するものがないことは確かである。
今はその抜きん出た推理力と観察眼を信じることの方が、よっぽど重要だ。俺は無意識にそう思っていることに気付く。無条件のうちにこの女を信用している、と気づいたとき、胃の奥がきりきりと痛む感覚に苛まれた──それは信用というよりも、信仰に近しいものだろう。
探偵には助手が必要である。それは間違いないが、少なくともそれが何らかの信仰の形であるというのなら、俺はきっとそれをなぞっている。
だが、強烈な違和感が俺の脳裏をちりちりと焦がしている。
あまりにも全てがとんとん拍子に進んでいる。最初から丁寧に描かれたシナリオが、破綻なく進行していくように。
『事象の背後には遺伝子がある』と椿は言った。杞憂だと信じたい。あくまでこれは俺が勝手に、物事を悪い方向に考えているだけのことなのだろう、と。
きっと単に彼女の規格外の頭脳がそうさせているだけだ。俺は必死に疑いを掻き消す。
この疑念には何の確証もない。俺は唇を噛んで誤魔化すように、
「何か、気になる事でも?」
東屋に問いかける。彼は顔を伏せて「いえ」と感情の乗っていない声で俺へ返した。少なくとも今は、何もかもを疑うにも──何もかもを考えるにも、材料が足りない。俺は脳裏にちらつく疑念を必死に拭って、眼前の椿へ恐る恐る視線を向ける。
「その研究チームに参加していた奴に心当たりはあるか?」
「……、それは……その」 東屋は椿の問いかけに声を窄めた。
「まあいい。ならば板取あゆみについて聞こう。お前は彼女に、己がまひろの遺伝上の父であると明かしたのか?」
「ええ。……というか、逆です。板取師長の方がその話を。俺も正直何が何だか分からなかったのですが、どうも自分の検体がそうしたサービスに無断で利用されているらしいということは、分かりました」
「その生殖細胞バンクの名前は?」
「ファイヤーフライという、比較的新しい製薬会社のようです。でも実態はよく分かりません」
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