03_Reverse: Deceit Ruby
03_Reverse: Deceit Ruby - 01
騒ぎを聞きつけた看護師がやってきて、惨状を受け入れられず倒れるのにそう時間はかからなかった。
血まみれの病室は、手練れの警官ですら入るのに躊躇するようだった。血液、肉片、あらゆる臓器がぶちまけられて、一部の血は天井にまで到達している。
極限まで見開かれた瞳は眼窩から零れ堕ちそうだった。損壊が激しい遺体を見て、一人がトイレに走り去っていく。
誰も俺と椿の証言を信用しなかった。
理性はそれが当然であることを理解しているが、感情はそれを許さない。
大惨事になっている俺と椿を見た警備員たちは、慌てて同じフロアにあるシャワー室へ押し込めた。
ぬるい水を浴び、血まみれの衣類を取り換えたはいいものの、それ以降椿はソファに腰かけて床を見つめたままずっと黙りこくっている。
エメラルドグリーンのドクタースクラブ、その軽やかさが今は忌まわしい。
「椿」
俺は彼女の名を呼ぶ。声は掠れていて、自分のものとは全く思えない色をしていた。
椿は黙ったまま答えない。
「……患者を、死なせたのは……」
椿はゆっくりと口を開く。俺は黙ったまま、彼女へ視線を向けた。
「これで二度目だ」
「二度目?」
俺は思わず聞き返す。
予想外だった。彼女は臨床へ出る事を禁じられているはずなのに。
「何故だ。……何故お前は落ち着いている。どうして平然としていられる!?」
椿は俺の胸倉を掴み上げて叫んだ。俺は彼女の手に触れて服からそっと剥がす。爪が掌に食い込むほどの力で、彼女は手を握りこんでいた。
左腕に一筋走った切り傷が痛々しい。簡易的な手当てを施してはいるものの、白い包帯にじわりと血が滲んでいる。きちんと縫ったほうがいいだろうとか、脳が無意識にあの惨状から意識を反らしたがっているのか──そんな方向へ意識が飛んでしまう。
「同じようにして生まれてきたからか?」
そう吐き捨てる。平時であれば刺々しい文句が口からそのまま出ていたかもしれない。だが今は何も言う気になれなかった。
そして同時に、やはりこいつは俺の出自を見抜いていたのかと腑に落ちる。
「……すまない。失言だ」
「いや──実際、そうなんやろうと思う」 俺は静かに呟く。「悪かった」
「咲良、それは」
椿が何かを言おうとしたとき、そこに被さるようにして靴音が響いた。俺はその音に顔を上げる。少し猫背気味の男がこちらへ向かってきているところだった。顔の右側、眉毛にかけて一筋古い刀傷が走っている。
「いやはや全く、よく会いますねえ。四宮先生」
男は辟易した様子で椿を見下ろした。短髪の頭を勢いよく引っ掻いて、
「しかもまた容疑者になっていらっしゃる。で……そちらのあなたは?」
「……厚生労働省の市ノ瀬と申します。公安局所属の螺旋捜査官です」
「螺旋捜査官? ああ、四宮先生のお目付け役ですか……大変、ご苦労様です」
男はジャケットの内側から警察手帳を取り出して掲げる。そこには『福岡県警察
「鬼頭と申します。まあ、そちらの四宮先生とはちょっとした付き合いがありましてね」
「付き合い? 一方的にお前が私をつけまわしているだけだろう」
椿は苛立ちを隠さずに言った。鬼頭は肩をすくめてわざとらしい動きをしながら俺たちの方へ近づいてくる。
「そりゃあ、そういうものなんですから仕方ないでしょう」
鬼頭は椿の前で片膝をつく。そして、
「で、四宮先生──何があったんです? ちょっと現場を見ましたがねえ。ありゃあ普通じゃないですよ」
鬼頭は椿へ言う。彼はどこか余裕を崩すことなく、俺の方へニヒルな微笑みを向ける。
彼は特徴的な色の瞳をしていた。柘榴色の瞳だ。しかしそれだけではなく、爬虫類のように細い瞳孔をしている。
幻想に分け入ったもの、幻想から生まれたものはそのような色を持つことが多いが、ここまでわかりやすい赤色は珍しい。俺の内心を見透かしたかのように、彼はへらりと真意の見えない笑みを浮かべた。
「いやぁ、俺は人間と怪異の間に生まれたモンでして。こういう妙な事件担当として螺旋捜査部や陰陽庁……その辺と橋渡しを、チョチョイとね」
「そうですか」
鬼頭は聞いてもいないことをへらへらした顔で言った。
俺の中で警報が鳴り響いている。こいつを放置しておけば、憔悴している椿に致命傷を与えかねないという危惧が鎌首をもたげていた。
「そう警戒しないでほしいんですがね。俺は四宮先生から証言を取れればそれで構いませんし、公安局へこの一件が引き継がれるなら、別にお好きにどうぞとしか思っていませんよ」
「……それは別にどうでもいい。俺が言いたいのは、精神的に憔悴した人間を尋問するのがどうなんか、っつう話をしとるんですよ」
「おやおや。随分と彼女を気に入ってるんですね? 螺旋捜査官殿」
鬼頭は口元を歪め、犬歯をちらつかせた。
「市ノ瀬さん。ご存知では? 東医は十二年前も未解決事件の現場になったんですよ」
「……何が言いてえんかちゃ」
「言わせないでくださいよ、知ってるくせに」
そんなわざとらしいことを口にして、俺の方へ鋭い視線を向ける。
「俺は四宮先生が犯人であると疑っています」
「動機なんてどこにもないでしょう。こいつは曲がりなりにも医者やぞ」
「アンタ、随分と彼女に信頼を寄せているようですけど。ちゃあんと理解していますか? 四宮先生はその気になれば完全犯罪が起こせる御仁なんですよ?」
鬼頭は立ち上がり、俺の方へ顔を寄せて耳打ちした。俺は彼を鋭く睨みつける。おお怖、と戯けた口調で言う男に苛立ちを覚えて思わず舌打ちをする。
ことごとく反りが合わないと実感する。椿なんかよりもこうした掴みどころのないふざけた男の方が、よっぽど俺は苦手だった。
確かに鬼頭の言い分には理解できる部分もある。椿は倫理観のハードルが低く、平気で法律の線引きを超える。だが医者として守るべき倫理の一線を強く意識していることが、たった一日と数時間程度の付き合いでも理解できるのだ。
彼女が何らかの目的を持って行動を起こす時、それは誰かを救うことに繋がっている。しかし今回、板取まひろは何者かに殺害された。俺は必死に思考を巡らせる。
「そうやとしても、椿に板取まひろを殺す動機はない。こいつは東医の心臓外科から正式に依頼を受けて、患者の診察業務を行っとったんですよ」
「心臓外科ねえ……」
鬼頭は嘲笑と共につぶやきを漏らした。
「いや失敬、まあそうなるかと思ったもんで」
「何がおかしい」
「嘴馬先生は信用できませんよ。十二年前に発生した『医療従事者十一人惨殺事件』──ああ、『第四手術室の惨劇』って言う方がわかりやすいですか?」
椿は勢いよく立ち上がって鬼頭の方へ詰め寄った。
「嘴馬は被害者だ。関係ない」
「それはあなたの主観でしょう?」
「あいつは人殺しなんてしない。誰よりも医者という言葉が相応しい男だ」
「だから、この件に関してあなたの主観は微塵も信用できないんですって」
鬼頭は両腕を軽く上げてひらひらと振り、軽やかに後ろへ下がる。椿は頭から下ろしたタオルを手に持ったまま、戯けた雰囲気を一切崩さない──不謹慎極まりない彼の様子を睨みつけている。
「嘴馬遼士郎は『第四手術室の惨劇』における生存者だ」
眼光鋭い鬼頭に俺は思わず息を呑んだ。
そもそもその情報は、俺の上司にさえ詳細が明かされていない。だが記録に残されていなくとも、記憶に残っている人物はいるということか。
鬼頭は明らかにやり手の刑事だ。それこそ幾つも修羅場を潜り抜け、凶悪な犯人と対峙してきたのだろう。
「しかもみんな血まみれで死んでた室内で、何故か彼とあなただけが生きていた」
「それは、そうやけど──当時の椿はまだ子供やった。それどころか全身麻酔されとったはずや。十一人も殺せるわけがなかろうが」
「おやおや。密室で起きた殺人なんですから、その場で生きていた人物を疑うのは鉄則ですよねえ」
「けどそれと今起きた事件は関係ないでしょう」
「ありますよ。だって四宮先生がいるんですから」
鬼頭は唇の間を歪めて笑った。
「市ノ瀬さん。ご忠告しておきますがね、嘴馬先生と四宮先生──この二人は信用しない方がいいですよ」
「何を根拠にそんなことを」
俺は鬼頭の一挙手一投足に食ってかかった。
完全に彼のペースに巻き込まれているのは理解していたが、今はそんなことよりも──この男が椿の事を、あくまでも『十二年前の事件の容疑者』としか見ていない事実に腹が立っていた。
「根拠ならいくらでも。ご自分が一番お分かりでしょう?」
「……」
椿は黙ったまま鬼頭を見上げていた。肯定も否定も口にすることは無かったが、その沈黙で真実を語っている。
『患者を死なせたのは、これで二度目だ』
その言葉が反響する。
だが同時に腑に落ちない部分も大いにあった。十二年前なら、椿はまだ子供だ。患者を死なせた──それは本当に『第四手術室の惨劇』なる事件で死亡した患者を指しているのだろうか?
俺はちらりと彼女を伺った。しかし椿はいつも通りの傲慢不遜さで、
「逮捕するか? どうせ叔父上が莫迦みたいな額の保釈金を積む。無意味だと思うが」
「しませんよ。先の一件は殺人と言い切れませんし、今回アンタらは重要参考人という立ち位置だ。ぜひとも捜査にご協力いただきたく」
「結局のところ、私の頭脳を借りなければこの事件を解決できないというわけか」
「それはそれは。今回もあなたの素晴らしい頭脳をお借りしたいと思っていますよ」
鬼頭は慇懃無礼に言って軽く頭を下げる。妙にそのしぐさが板についていた。
「ただ……この事件は『第四手術室の惨劇』とも無関係ではないと思いますけどね」
「……あの。それ、一体何なんですか」
俺はしびれを切らして問いかけた。鬼頭は軽くあごを触り、
「東医って喫煙所ありましたよね」
「地下駐車場にありますが」
「ならそちらで。ちょっとねえ……」
鬼頭は一度言葉を切って、凄惨な現場へ目を向けた。既に遺体の上にはブルーシートがかけられており、何人かの鑑識職員が参ってしまった様子で壁に背を預けている。
「こんな現場じゃあ、煙草でも吸わんとやってられませんからね」
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