02_Forward: Dr. Sherlock - 05
「じゃあ知ってるよね。COL3A1遺伝子に変異があるの。エーロス・ダンロス症候群の疑いがあって……けど、どうも馬子顕性遺伝子のおかげで致命的な病状には至ってない」
「ああ。実に興味深い症例だ」
椿が鷹揚に答えた。
「お前、堕胎手術が出来ないと彼女の母親に伝えているのだろう?」
「当然。だって組織が裂けてしまえば、確実に術中死が待ってる」
それに、と峯岸は前置きをして続ける。
「まひろさんの父親が手術に反対しているんだ」
「父親ですか?」
「うん……あんまり夫婦間の仲は良くないようだね。どうも、まひろさんはそれに板挟みにされているみたいだ」
「どこにいるんだ?」
椿は冷たく問う。峯岸は後頭部を軽く掻いて、
「会うのは無理じゃないかな。なんか会社の役員らしいんだけど、普段は海外に単身赴任してるって言ってた。一回だけ会ったけど、それ以来見かけてない」
「最後に会ったのはいつだ?」
「まひろさんがここへ入院することになった時」
「……堕胎するしない、で?」
「それもあるし、まひろさんをドイツに連れていくとかいかないとか、その辺の話も。大学進学の話で大揉めしてたから、よく覚えてるよ」
「なるほど、それは大問題だ」
椿は無感情に言ったが、その言葉とは裏腹にまひろを気にしているように思われた。
峯岸はちらちらと椿、そして俺を窺う。これ以上何も聞かないでほしいと言いたげな雰囲気だったが、俺が気づくのだから椿がそれを見逃してくれるはずがない。
彼女が余計なことを言う前に、俺はできる限り語気を柔らかくして声を上げた。
「神原綾佳の処女懐胎ですが、あの一件にはカルト宗教が関わっている可能性があって──何かご存知ですか」
「……天界魔教だろ。困るんだよな」
「困るってどういう意味だよ」
嘴馬が最後の一枚をシュレッダーにかけて言った。比較的静かな駆動音が居室の空気をさざめかせる。
「輸血です。祝福された血液とやら以外は輸血できないから、もし綾佳さんの出産が帝王切開になったらかなりまずい。だってあの家、患者本人もみんな教徒らしいし」
「父親は違うようだが」
椿は呟く。俺は続けて口を開く。
「神原信近は、天界魔教を追っていました。だがそれはあくまで娘を妊娠させた原因を突き止めたいという動機によるもので、彼自身が教徒というわけではないようです」
「そうなの? ま、まあ、とにかく、俺が知ってるのはそんなもんだよ」
峯岸はわかりやすい動揺を見せていた。俺は思わず「峯岸先生?」と呼ぶ。
芦毛の馬耳をびくりと震わせて背後へ引き倒し、明らかに何かを警戒する様子で俺の方をじっと見つめた。
「何かご存知なのでしょう。話していただけませんか」
「言ったはずだぞ、峯岸。さっさと全部吐け。そうすれば楽になるぞ」
「おい四宮。これは尋問やねえんやぞ」
俺の言葉は馬耳東風と聞き流す椿は、赤と青の双眸でじろりと峯岸を睨みつける。そして両手の指を突き合わせ、軽く見下ろした。
「ほう。懇ろというのは本当なわけか」
「違う!」
峯岸はムキになって否定した。だがそれはもはや、否定の体をなしていない。それこそが答えだった。
「馬子が同性に対して強い感情を持つ傾向があることはすでに解明されている。それに峯岸──」
「椿! それは関係なかろうが。いい加減にしろや」
「どこがだ。こいつと神原信近が不倫以上の関係にあったことと、綾佳の診療をこいつが担っていること、そして今回まひろのことも診ているのだぞ? 無関係と断じられる要素がどこにある」
「やとしても。他人の知られたくない秘密を勝手に暴き立てるのは」
「マナーが必要か? 人の命がかかっているのだぞ。悠長に構えていれば誰か死ぬかもしれないというのに、随分呑気なことだ」
誰かが死ぬ? その言葉に俺は思わず声を詰まらせた。椿は剣呑な光を宿した瞳を峯岸へ投げつける。
「峯岸。神原家の女中を知っているか」
「え? あ、ああ、うん。雪島さんのこと?」
あまりにも予想外の質問だったか、峯岸は目を白黒させて椿を凝視した。
確かに女中の彼女は、随分椿を気にしていた。俺もそれがかなり印象に残っている。憎悪か、猜疑心か。それともその両方か、全てを明らかにするにはまだ情報が足りない。俺は唇を噛んだ。
「いや……知ってはいるよ。そりゃあ。だって綾佳さんの身の回りの世話してるし」
「それだけか?」
「それだけって、そりゃあまあ、金持ちは違うな〜とか思ったけど」
「……まあいい。板取まひろに会うが、構わんな」
「え? う、うん。いいよ」
椿はひょいとソファから立ち上がって俺の首根っこを掴み、乱暴に引っ張った。
「痛ッ!? 何するんかちゃ」
「いくぞ。見込み違いだったようだ」
***
病室に入ってきた俺たちを見て、板取まひろはゆっくりと上体を起こした。顔色からは血色が抜け落ちており、体調が芳しくないことが見て取れる。
まひろは椿へぺこりと頭を下げたが、その表情の奥には強い不安が見え隠れしていた。神原綾佳のことを考えているのだろうか。それとも己に宿る魔女の仔について、何かよくない話を見聞きしたのだろうか。
「あの、綾佳さんは」
まひろは俺と椿を交互に見て問いかける。声は震えていたが、自分の身よりも綾佳を案じているような雰囲気があった。
「健康状態に問題はなかった。……胎児も、正常に発育している。それと、峯岸が定期的に様子を見に行っているらしい」
「峯岸先生が、ですか?」
「どうも、綾佳さんの父親と親しい間柄らしく。その兼ね合いでお願いされたようです」
俺は端的にそれを伝える。ワインに釣られてだとか情け無い話は、彼の名誉のために伏せておいた──そうしなければ椿がうっかり暴露しかねないという確信があったからである。
「そうだったんですね……じゃあ、きっと綾佳さんは大丈夫ですね」
「そうとも言い切れない。彼女の妊娠の原因は依然不明のままだ。だが一つ確かなのは、この事件には人ならざる力が働いている、ということ」
「四宮先生までそんなことをおっしゃるんですか!?」
まひろは明らかに取り乱して叫んだ。
「まひろ、落ち着け──これはあくまで、そういう可能性があると」
「私は天使なんて孕んでない!!」
肩で荒い息をするまひろに、椿は呆然と立ち尽くす。俺は必死に言葉を選び、
「まひろさん。大丈夫だ。椿も俺も、あなたが天使を孕んでいるだなんて思っていない。ただ現状では二人とも、何故妊娠するに至ったのか……その原因が、きちんと特定できているわけではないんだ」
「どうして」
まひろは詰るような声を上げた。
「どうしてです!? 四宮先生! あなたは医学における万能の天才なのでしょう!?」
「私が好きで名乗っているわけじゃない」
椿は静かに呟く。
「椿────」
「咲良が言った通り、神原綾佳がどうやって妊娠したのか。その原因は率直に言って不明だ。だがお前に関しては違う。お前を孕ませた存在を目撃した人物がいる」
「ど、どういう意味ですか。私を、孕ませた存在? 何を言って、」
「一ヶ月前、お前はICUに放り込まれたな。硬式テニスのボールが運悪く胸に当たったことで、外傷性心タンポナーデを起こし──緊急手術が行われている」
「それは……そう、ですけれど、それと何の関係があるというんですか」
「その時だ。お前が妊娠したのは」
まひろの顔から表情が抜け落ちた。
「うそよ」
「……残念ながら嘘ではない」
「い、いや……!」
まひろは恐怖に顔を歪め、力無く首を横に振った。椿は今まで見たことのない葛藤を浮かべた表情をしていたが、彼女は彼女のままだった。
「人ならざる者がお前の妊娠に関与したことも含めて、私はお前に真実で話している」
「そんなの、信じない。信じたくない!」
まひろは指が白むほど強い力で己を掻き抱いた。椿は一歩彼女へ近寄り、最新の注意を払って肩に指先を触れさせる。
それは正しさの刃を最大限にひっこめた、椿なりの最大の譲歩だった。
「お前の体から、お前が孕まされた魔女の仔をおろすことは……できなくはない」
その声に普段の無駄な覇気は無かった。己の能力の限界を悟り、己の無力さを呪っているのがわかる。俺は思わず彼女から目を逸らした。
幻想種は魔術のように、一時の事象とは訳が違う。科学理論で解明できず、理論の空白と信仰から強固にこの世界に息づく、れっきとした生命体なのだ。
魔女もまた幻想種のひとつと言えるだろう。基本的に単為生殖で増え、人間を苗床にして己のコピーを産み落とす。明らかに一般常識で理解できる存在ではない。
椿の魔術は魔術や幻想を解体することに特化しているようだが、純粋な幻想種の背骨を明かすには至っていない。
俺は僅かに安堵を覚えていた。
もしも幻想種すら真の意味で殺せるというのなら、それは最早────
(神秘……)
口にはできなかったその一言が心に重く居座る。
唇の隙間から微かに漏れた吐息が冷たかった。暖房がついているから室温は一定に保たれているはずだが、室内の空気は芯から凍てつく冷たさで心臓を捉えている。
俺は指先を握りこむ。
「どうか俺たちを信じて欲しい」
「でも、わ、私。綾佳さんに言われたんです。電話が来て。選ばれたんだって」
「選ばれた?」
俺はその言葉を反芻した。背筋に気色悪い感覚が這い、口腔内が乾燥するのがわかる。
「天使の、天使の口付けに。あなたも選ばれたのよって。綾佳さん、おかしくなっちゃった! 私が、私は、あ、ああ……!!」
「────なんだ?」
椿が顔を勢いよく上げる。部屋の電灯は点いているのに明らかに部屋が暗くなり、まひろの影が霧を帯びながら伸びていく。室内に鼻をつくような有機溶媒の匂いが満ち、俺は思わず腕で口周りを塞ぐ。
「カンブリア!」
椿が己の従僕たる妖精を呼びつける。まひろはベッドの上で縮こまって震えながら俺たちの方へ転がるように走り寄った。椿は彼女を抱きしめたが、すぐに少女の異常に気付いた。
「きゃああ!!」
悲鳴に振り返ればまひろの脚が徐々にヤギの脚に変じ始めていた。より正確に言えば、変じているように見えているのだ──現実認識がひどく歪み始めている。
現実歪曲。強制的な仮構展開。
それは、幻想種が引き起こす神秘による現実の汚染だった。
俺は反射的に腰に装備していた杭を引き抜いて地面へ突き刺す。現実保証が薄れ始めている──官製品の魔術防御礼装でどこまで対抗できるか、俺には正直分からない。だがやらないよりはマシだろう。黒い影は杭によって僅かに後退したが、すぐに奔流となって俺たちを飲み込まんと牙を剥いた────
「天使」
まひろがぽつりと零す。俺はその声に事態が最悪の方向へ転がりだしたことを確信した。少女は虚ろな表情で虚空をぼんやりと眺めている。瞳の焦点は合わず、だらりと力なく垂れていた腕がゆっくりと上へ伸ばされる。
「まひろ! しっかりしろ、私がわかるか!?」
少女は答えない。周囲はついに影に包まれて、時刻は正午であるはずにもかかわらず真夜中かと見紛うほどに暗く、ふわりふわりと青い蝶が発光しながら闇の中を飛んでいる。明らかに何らかの幻想がここにいる。現実をその手指で犯し、この世から切り離さんとして────
「私、も、そこへ……」
「まひろさん!!」
俺は膝をつき、床に寝かされた少女の名を叫ぶ。肩を叩き、椿は必死に少女を現実へ引き戻さんとその手に金糸を纏わせる。だが、その金糸はバチバチと音を立てて引きちぎられ、椿の左腕に鋭い切り傷を作った────
「ッ、ぐ、う……!」 椿はまひろの傍に腕をつく。「クソ……ッ! まひろ、私を見ろ! 私がわかるか!?」
「痛い。痛いです、椿、せんせい」
まひろは覆いかぶさるような姿勢になっていた椿を見て、そう言った。
「う、うう、うまれる」
極限まで見開かれた瞳から涙がこぼれた。その言葉と同時に彼女の体に走る血管が浮き出て、頸動脈が怒張する。俺は少女の体を見た。
風船のように下腹部が勢いよく膨らんでいる。俺は言いようのない吐き気を催し、急速に気道が締まって鼓動が早まるのがわかる。息を吸うことも吐くこともできず、俺も──そして椿も無力のままに、ただ茫然とそれを眺めていた。
「せんせい。わたし、しぬのね」
────嘘つき。
直後、少女の体が弾けた。
血液と肉片がぶちまけられる。
まひろの傍にいた俺たちはその血液と肉片を頭から被り、全身を真っ赤に染め上げていた。
何が起こったのか分からず、俺は数秒固まる。
眼前でへたりこんでいる椿は硬直したまま、
「……まひろ?」
少女の名前を呼んだ。答える者はいない。
その代わり────
仔ヤギが一匹、血まみれで、ふらつきながら鳴いていた。
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