02_Forward: Dr. Sherlock - 03


「妻がな。というか、妻の家が」

「天界魔教はカルト宗教である以前に、魔女を中心とした魔術結社です。公安局だけやなくて、陰陽庁も、警察庁も最重要警戒対象にしとる」


 俺はできる限り冷静さを欠かないように努めながら続けた。僅かに眼前に立つ男の表情が歪んでいるように見え、俺は軽く眉根を寄せる。


「教団をよく知っとるんでしょう。話してもらえませんか」

「……帰ってくれ。私は娘を見舞いに来ただけだ」

「見舞い、ですか? ──そんな物騒なもん隠しておいて?」


 俺は拳銃を持ち上げて安全装置を解除する。狙いを定めて男の腕に照準を合わせる。

 射撃の腕はお世辞にも良いとは言えない。それに、螺旋捜査官は医学特区の外ではただの一般職公務員と変わらない──ここで発砲すれば俺のクビは確実だろう。

 だが、魔術は防げても拳銃の弾丸は防げない。癪に障る話だが、俺には監視者としてこいつ四宮椿を守る義務もある。


「……螺旋捜査官ベクターが優秀なのも、考えものだな」


 信近はぽつりと零す。そしてポケットから手のひらほどの大きさの拳銃を取り出して地面に棄て、俺の方へ蹴り転がした。


「見逃してくれ」

「見逃すもクソもねえでしょう。俺たちには、医学特区の外じゃ警察権限がねえ……あんた、それを知ったうえで──」

「さあ、どうだろうな」


 その声には一切の感情が宿っていなかった。平坦で、閉塞的な空気を纏っている。死の匂いが全身から湧き上がっている気さえして、言いようのない恐怖が背骨を這い回る。


「心配するな。あの男は死なん」


 しかし椿は俺を一言制する。俺の指先に金色の糸が絡みつき、見えない何かに引っ張られるように腕が震えた。


「ッ、お前! さっきから、」

「点数稼ぎをしておくか?」


 その言葉に俺も、そして恐らく信近もまた察した。

 多くを語る気はないのだろうが、たった数時間で俺も毒されてきている。軽い頭痛を覚えながらも、


「……この症例は普通やない。洗いざらい話してもらえれば諸々は黙っておきます」

「私を脅すつもりか? 私は天界魔教とは」

「それはもう理解しています。俺は気になっとるのはそれやない」

「ならば何を──」

「板取まひろについて、何か訳知りでしょう。神原先生」


 彼の表情から色が抜け落ちる。俺はどうやら彼の核心を突いたらしい。

 一歩前に踏み出す。彼は唇の端を震わせて何か言おうと細い息を吐き出したが、何も言わずに口を噤んだ。


 。俺はそこに呪を見る。

 言わなかったのではなく、言えない状態なのだ。ならば。



「四宮」

「なんだ?」


 椿は挑発的に笑う。俺の言いたいことなど全て見透かしているだろうに、彼女は敢えて言わせたがる。本当にタチの悪い女だと思いながらも、俺はそれを彼女に告げた。


「神原先生には呪禁じゅごんがかかっとる。解除できるか」

「形式は?」

呪歌じゅか


 それは美しい和歌の裏に真の意味を持たせて、相手を呪う古典的な呪術だ。

 受け取り手に解釈の余地が委ねられる故に成立する呪術。俺もこれを比較的扱う身だが、末恐ろしい話だと思う。

 しかし魔術にはその空白が重要だった。なぜならその空白こそが仮構──魔術の基盤になり得るからだ。


 論理の空白に意味を持たせる行為こそが現代の魔術。

 そしてその空白を木っ端微塵に破壊するのが、この四宮椿という女だった。


 仮構の論理的分解。それが恐らく──彼女の魔術の本質。

 だから彼にかかった呪歌も解ける。それは一瞬のことだったが、俺の胸に満ちていた確信信仰だった。



「カンブリア」



 椿はそれだけ短く言うと信近の方へとヒールを鳴らして歩いていく。ふらふらと後ずさる彼は椿の瞳に射抜かれて、哀れにどたりと石畳に倒れた。


 大きな花を開いた薔薇の香りが一層強まる。

 季節外れのダマスクローズ。花の香りが肺に満ちる。



「案ずるな。


 薔薇の間を縫うようにカンブリアが泳ぐ。それが滑るたびに二重螺旋のリボンが次々と解け、その端から泡沫のように消えていく。

 空間に発光する虹色の泡が漂い、弾け、そして彼にかかった呪が霧散する。


 彼の喉元を縛った呪はまるで最初から存在していなかったかのように立ち消え、椿は満足げに指を鳴らした。


「言っただろう? と」

「何を言って……! あなたは、一体」

「つまり魔術に含まれる根幹のDNAだ。ならばそれを解体してしまえば、魔術はその体を成さない」


 その声に信近は慌てて立ち上がり、目を白黒させて俺と椿を交互に見つめた。無理もない。彼女のしていることは矛盾している。


「まだ不安なら決定的なことを言ってやろう」

「あなたはなぜそんな支離滅裂なことができる!? これは明らかに──」


 椿は意味深な微笑みを浮かべたまま、俺にした時と同じように彼の額へ指を当てた。





 しばし、男は固まった。

 その言葉をゆっくりと咀嚼するように。


 そして俺は気づく。こいつはこの男にかかっていた魔術を解体した代わりに、己の魔術を彼に仕込んだのだ、と。

 魔術というよりも暗示に近いだろうが、それでも心が揺らいでいる人間にはそれで十分すぎる力を発揮するだろう。



「さて。話していただこうか、神原先生。私の監視者はどうやら、大変せっかちなようだからな」



***



「板取さん……まひろさんは、綾佳の後輩だった。だが、きっとそれだけの関係性ではない」


 応接間に通された俺たちの前に、女中──雪島が運んできたコーヒーカップが置かれる。


 怪訝そうな表情でこちらを伺う彼女は、明らかに椿へ何か悪感情を抱いているのが見て取れた。

 屋敷の所有者であり、雇用主でもある神原信近を脅しているように見えているのだろう。実際脅したかと聞かれればそうだ。否定はできない。


「友人と呼ぶには近すぎるように思えた。だが疑似的な姉妹関係というにも、どうもしっくりこない」

「つまり恋人同士だったかもしれないわけだな」 椿はあっさりと言った。

「直接あの子に聞いたわけではない。ただの、私の印象だ……」


 信近は息を吐き出し、どこか遠くへと視線を投げた。


「綾佳は、私の想像の外側で苦しんでいたような気がする。無理やり母親と引き離し、私はあの子を引き取った。あの子はもしかしたら本当は、母親と共にいたかったのかもしれないのに」


 その言葉に少し腑に落ちるような感覚があった。神原綾佳は天界魔教の教義を信じている。それが妊娠を原因としたことなのか、それとも幼いころから刷り込まれた信仰の形なのかは分からない。

 今の綾佳は『天使』を崇めるカルトの信者となっている。確かなことはそれだけだった。



「先程、お前の娘に会った」


 椿はコーヒーを一気に胃へ流し込んで続けた。


「彼女は『お母様』なる人物の言う事を妄信しているようだが、この『お母様』というのはお前の妻か?」

「……天使だよ」


 信近は忌々し気に言った。

 椿は「まあそうだろうな」とソファに背を預けて呟く。


「天界魔教では熾天使を『お母様』と呼称し、崇めている。そして年に一度、〝天使の口付け〟と呼ばれる儀式を、即ちサバトを行う」

「そして綾佳さんが、その〝天使の口付け〟に選ばれたんですね」 俺は呟く。

「ああ。……そして何故か、天界魔教とは一切関係ないはずのまひろさんもまた、処女懐胎という形で子を孕んだ」

我が師嘴馬遼士郎が──」


 椿はゆっくりと口を開く。


「板取まひろは魔女の仔を孕まされている、と言っている。それに関して何か心当たりは?」

「魔女の仔だと? ……その魔女について何か詳しい話を聞いているか」


 椿は己が師──嘴馬遼士郎の言葉を反芻した。信近は目を見開き、唇の端を微かに震わせている。明確な恐怖の感情を浮かべる彼に、俺は微かな違和感を見出す。


「天界魔教が司教として定めていた魔女だ」

「司教? 何でまたそんなやつが板取さんをわざわざ狙うんです」

「私が知るわけがないだろう」

「ちょっと待てや。じゃあ神原綾佳を妊娠させたやつが同じ魔女っつう可能性も、」

「確証は無いが、可能性の一つとしては排除できんな」


 椿が冷静な口調で呟いた。


「つかお前、綾佳さんを診察したやろうが」


 俺が何を言わんとしているか察したらしい天才は緩やかに一つ息を吐きだす。


「異常は一切なかった。神原綾佳の胎児は。まあ、それこそが最大の異常とも言えるのだがな」


 確かに人間が単為生殖をするというのは異常事態だが、それがあり得ないと言い切ることはできない。

 俺が何かを言う前に、椿は両手の指を突き合わせて口を開く。


「よく考えてみろ。科学的手法を使って神原綾佳を処女懐胎させるには、人工的な遺伝子制御が必須だ」

「まさか峯岸先生を疑っとるんか? お前」

「あらゆる可能性を検討している」


 椿は俺へ瞳だけを動かして言葉を制した。

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