02_Forward: Dr. Sherlock - 02

 虚空に揺らぐ吐息が、遠くから聞こえる足音が、それがいるという根拠を確かなものに変えていく。

 途端に視界が闇に塗り潰され、暗順応の追いつかない目で俺は必死に前にいる緋色を探す。


「四宮。無事か?」


 椿は俺の声に、不機嫌そうに目を瞬かせた。


「勘付かれた」

「は? 勘付かれたってどういう、」

「お前、魔力感知性能が随分とおめでたいようだな」


 椿は俺の腕を掴んで引き、真正面の玄関扉を勢いよく開けた。

 誰もいない。来た時同様に庭は見事なものだ。だが──薔薇の茂みが音を立てる。動物か、猫か何かがそこにいる。茂みはもう一度がさ、と動く。そしてそれは勢いよく飛び出して俺たちの方へ大きく形を変えながら猛進してきた。


 俺は混乱する頭で腰から警棒を引き抜いた。鋭い爪のついた掌底が飛ぶ。俺はその強烈に重い一撃をかろうじて捌き、椿を庇うように立つ。


 獣は絶叫しながらもう一度殺意を振りかぶった。だが突如それは動きを止める。俺は恐る恐る固まったままの獣へ視線を向けたが、それは何かに操られているのか──見えぬ糸によって締め上げられているかのように不可解な動きで、必死に束縛から抜け出そうと足掻いている。


 しかしその様子を見て、彼女は俺の背後で不敵に笑った。

 気づけば周囲にも数匹がいた──同じくらいの体高に、鋭い牙と爪。あれをまともに食らえば死が待っている。



「私はお前の娘に危害を加えにきたのではない。まあ、このまま続けてもいいのだが──」


 一匹が吼える。椿の肌を切り裂き、頸動脈を破って殺さんとその爪を振るった──


「ッ、四宮!」


 間に合わない。俺はジャケットの内側にある拳銃へ意識を向け、ホルスターに収まった拳銃を掴み引き抜く。

 だが。



「跪け」



 椿が短く呟いた。突如爪を振りかぶっていた獣は動きを止めて、そのままおずおずと下がる。そして地面に伏せ、完全に椿に平伏したような様子でじっと固まった。他の個体も同様だった。

 僅かなガーデンライトの光が四足獣の姿を照らす──そこにいたのは随分鋭利な牙と爪を持つ大型犬だった。明らかに尋常ではないが犬の範囲にはおさまっている。

 暗闇の中でも、犬らの額に刻まれた赤い印が妙に目立つ。何らかの魔術が仕込まれているのは分かったが、それが何なのかを判別するには至らない。



「──初歩だ」



 誰かに呼びかけるように、椿は声を張る。だが無理に張り上げている印象はなく、寧ろ大学の講堂で普段からそうしているのだろう、という明らかな慣れがあった。



「事象の背後には遺伝子がある。意識の発露や行動にさえ、それらは関与する」



 滔々と椿は言った。そして足元で伏せている犬の額を一度撫でる。彼女の指先には二重螺旋を描く金の糸が輝いていた。

 犬はくうんと一声鳴く。まるで完全に彼女を主人と認め、愛情すら向けているような雰囲気があった。


 椿は無言で指を鳴らした。それとほぼ同時に金の螺旋が解けて犬を包み込む。そして次の瞬間に弾ける。

 犬は確かにそこにいた。しかし明らかに先程と違う存在になった、というよりも──


「元の、状態に…………? いや。けど魔術で変質させられた存在を元の状態に戻すとか、そんなん──」

「察しがいいな。加点してやろう」


 椿は目元を綻ばせて嬉しそうに笑った。悪戯が成功した子供のような表情を浮かべているが、その奥にはどす黒い叡智と狂気が渦巻いている。

 俺は周囲に警戒しつつ、犬たちがすっかり大人しくなったのを見計らい軽く銃身を下げた。



「そこの。貴様の計略など、児戯以下であることが証明されているのだから、さっさと敗北を認めたほうが賢明だぞ」


 俺は椿の視線の方向を恐る恐る確認した。

 そこには何者かが立っている。自由を得た犬たちがその人影へ侍り、彼の影へと消える。

 黒い革靴に光が反射し、庭の石畳の上に突っ立っている男の姿が徐々に露わになる。そしてぼんやりとしたガーデンライトに照らされ、その男の表情が浮かび上がった。


 男は痩躯であったが、背筋はしっかりと伸びている。何かしらの格闘技か、意識的に身体を鍛えているのが伺えた。短く切りそろえた髪は少し灰色になっており、そこから年齢をうかがわせる。眼鏡の奥から覗く海色の瞳には悔しさが滲み、しかし俺はその瞳に既視感を見出す。


 神原綾佳だ。男はその色を持つ少女と全く同じ瞳をしている。近親者だろうか──胸に浮かんだ疑惑については、椿が俺の代わりに応えた。


「お会いできて光栄だ。──神原信近かんばらのぶちか先生」


 そう呼ばれた男──神原信近は黙ったまま、軽く顎を引いた。

 彼は先程まで椿に強烈な敵対心を向けていたようだったが、今はもう諦観の色を浮かべている。あまりにも不遜な態度を崩さない椿に半ば呆れているらしかった。


「まさか〝医学における万能の天才〟と名高い人物が、このような若い女性だったとは」

「こんな小娘で軽蔑したか?」


 椿は力を抜いて微笑んだ。

 ふわりふわりと椿と俺の周囲をカンブリアがゆらぎながら泳いでいる。どうも神原信近に興味があるのか、或いは警戒しているらしい。


「寧ろ納得した。あなたは美しく才気にあふれている。粗探しをしたがる無粋な連中が群がるかもしれん。それを考えれば、あなたが顔を出さず──正体を隠しているのは合理的な判断だ」

「それはどうも」 椿は信近の方へ一歩踏み出した。「ところでその犬たちと同じように、娘にもゲノム編集を?」

「誤解があるようだな」


 信近は平坦な声音で言ったが、言葉の節々には明らかに怒りが感じられた。椿は敢えてその言葉を選んだのだろうが、彼の気分を害して神経を逆撫でにしたのは明白だった。


「私は娘を妻から遠ざけ、縁を切り、彼女の人生を彼女だけのものにするために心を砕いてきた。あの子のためなら命も惜しくない。あの子にそんなことをするものか」

「しかしあなたは獣医師であると同時に、ゲノムインプリンティングに関する研究の最前線におられる」


 椿の声は冷たく、剪刀のように鋭利な響きを宿していた。信近は動きを止めて椿の言葉を待つ。


「あのマウスレベルでの単為生殖に関する論文──あれに参加していただろう。つまりあなたには技術がある。その程度の親心で私が容疑者候補から外すとでも思ったか?」


 信近は椿を鋭く睨みつけた。


「四宮先生────あなたは一体、何を追っているんだ」

「全てだ。この一連の処女懐胎事件の全て。私はその真実を知るために行動している。少なくともあなたは多くを知っているはずだ」


 その言葉に信近はごくりと唾を飲み込んだ。秘密を暴かれることへの恐怖心か、それとも単純に椿を警戒しているのか、彼は半歩左足を引きずって後ずさる。


「例えば、天使。或いは、魔女」

「────!」


 彼が目を見開く。その言葉に俺も胸の奥を突き刺されるような心持になって、思わずきつく拳銃を握りしめた。金属が微かに軋む音を立て、俺は三度自分の背骨を強く意識する。


「天使……、確か──天界魔教てんかいまきょうやったか。けどあいつらカルト宗教代表みたいな連中やぞ」

「おや咲良。詳しいな?」

「……詳しくならざるを得んだけちゃ」


 咄嗟に嘘をつく。だが椿は特に詮索もしなかった。


「その魔女とやらに私が何の関係があるというんだ? 四宮先生。あなたは随分と穿ったものの見方をしているようだが、私には何の関係もないことだ」

「ならばなぜここへ来た?」


 信近は椿を睨みつけたまま黙っていた。

 彼女の言わんとすることを察しているからか、それとも別の理由があるのか。

 俺は闇の中に浮かぶ彼の表情を伺う。固く結ばれた唇からは息すら漏れず、呼吸ひとつで彼女にやりとりを掌握されてしまう──そんな恐怖が滲んでいるような気がした。


「お前は私が天界魔教の使者だと思ったのだろう」


 男は微かに表情を驚愕に彩った。椿は軽く目を細め、


「その証拠に私を殺めんと、使い魔を飛ばした」

「魔術師がやってくれば誰であろうと警戒するのは当然だ」

「まあ、当然だな」


 椿は心底つまらなさそうに呟く。


「──許す。無理も無かろう。何せ私は名前こそ轟かせていても、顔を知っているものはそう多くはない」

「ならばそのように勿体つけないでいただきたいものだな」

「あれはカルト宗教だが、それは一つの側面に過ぎない。カルトによって資金を集め、その資金を何に使っているのか……咲良。お前なら知っているだろう?」

「……サバトのことやな」


 俺はその単語を口にする。口腔内に苦々しい味が広がる。椿は満足げな視線を一度俺へ投げ、信近に向き直った。


「つかなんでんなこと知っとんやお前」


 椿は俺の言葉を綺麗に無視したが、その代わりに眼前の魔術師が答える。


「確かに私はあなた方と同じく、天界魔教を追っている」

「そもそも信者なんやないんですか」


 俺は黙ったままの椿に代わり、疑問をぶつける。彼は首を横に振って俺の言葉に応じた。

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