01_Reverse: White City - 02


 しかしその一方で、四宮椿は頭脳だ。その上で超がつく変人であるにせよ、熾天使降臨案件──そんなとんでもない指定をされるような人物には思えない。俺は頭を捻りながらも、彼女の奇行を思う。


「気になるか?」

「何がかちゃ」


 俺は無駄な抵抗であるとは思いつつも、椿に棘のある口調で言う。彼女は余裕のある微笑みを浮かべたままこちらへ近づいてきた。


 直後——その空間の一部が物理法則を無視して偏光し、ぐにゃりと歪曲した。そのひずみが水面のようにゆらめき、そこから奇怪なエビのような生物が出現する。

 それは、長いリボンのような飾り尾を二重螺旋にしながら椿のまわりを回遊している。


 バカな。


 俺はアノマロカリスにそっくりなそれを視線で追いかける。

 それはゆらゆらとたくさんの鰭、触腕というのか、捕獲器というのか——顔から生えている腕のような器官を動かした。ギョロ、ギョロと複眼が俺を捉える。しかしすぐに興味を失ったのか、それはふいとそっぽを向いて、彼女の後ろへと侍った。


 この世界には、拭い去れない夜がある。

 それらは現実のかたわらで息づいている。しかしそれらを正しく認識できるものは少数派だ。

 驚くべきことに椿もまたそれらを認識しているらしかった。だがあくまでそれは事前にこの任務を与えられた際、国内線のチケットと一緒に渡された資料の文字情報に過ぎない。


 だが魔術を扱えるとは聞いていない。


 恐らくこのアノマロカリスは妖精だ。——過去の残響。過去の投影。そうした影が現代の共通認識を得て、妖精に昇華された存在。

 そして当然、妖精を侍らせているということは、この女には、という話になってくる。


 だがそれにしては随分と存在の確度が曖昧で、これではまるで、妖精未満と言わざるを得ない。そうした〝未満〟と契約するのは困難を極める。

 いるのかいないのか、一時のゆらぎのような存在を固定化し──妖精の形に落とし込んでいるというのだろうか。そんなことが出来るとしたら、それは魔術の範疇を超えている。


 〝医学における万能の天才〟ではなかったのか?

 浮かんだ疑問を見透かすように椿は瞳を動かす。


 俺は思わず傲慢な笑みを口元に湛える椿を睨んだ。

 焦りを見透かしたように彼女は「はは」と乾いた声で笑う。


「その名称は勝手に周囲が呼び始めたものだ。私は一度も自称したことはない」

「んなことどうでもいい。つまりお前が監視対象なのは、魔術でなんかやらかしたからっつう話なんやねえんか」

「おや。お前も、何も聞かされていないのか」

「あ? お前『も』って、どういう意味や」


 表情を僅かに翳らせた椿に、俺は噛み付くように問いかける。しかしそれは杞憂だったのか——彼女は先程と同じ傲慢不遜な態度に戻って、


「語ってやってもいいが、今は語るべきではないな」

「なんなんかちゃ、それ」

「咲良。お前、本当は医者に戻りたいのではないか?」


 椿は脈略もなく俺にそう聞いてきた。俺は答えに窮する。黙ったままの俺の表情を見て、椿は俺の回答を察したらしかった。一言「自罰的だな」と、どこか自嘲気味に微笑む。そして何かに満足したような表情で、


「いいだろう。気に入った」 と言った。

「なんなんかちゃ本当に……何がしたいんや」


 俺は思わず悪態をつく。その様子に椿は、


「いや、何。これで私の元へ来た螺旋捜査官は十人目。そのうちの九人が三日と持たずにここを去った。理由は二つ」


 椿は先程まで煙草を挟んでいた人差し指と中指を立てた。


「一つ。私にこの問答を聞かれて、全員が戻りたい、または戻りたくないと即答したこと」


 中指が折り畳まれ、人差し指だけになる。

 もう一つの理由。それはなんとなく察しがついた。


「当ててみるか?」


 椿は不敵に笑った。子供が悪戯に成功した時のような顔をしている。


「妖精やろ」


 俺は堂々と口を開く。彼女が螺旋捜査官を突き返していたのは、医学知識云々の問題ではない。もっと根本的な話だ。


「今までの連中は、妖精が見えんかった。魔術が扱えんから、話にならん。そういうことか」

「ふ、ふふふ……」

「あ? 何がおかしいんかちゃ」

「あはははは!」


 椿は声をあげて笑っていた。まるで悪魔かマッドサイエンティストのようだ。そして肘掛けに頬杖をつき、


「素晴らしい推理力だ」


 別に褒めて貰っても嬉しくねえ。口には出さなかったが、想定の範囲内ではあった。



「全部間違っている!」

「…………は?」



 こめかみがピクピクと痙攣している。推理が外れた恥ずかしさもあったが、怒りの導火線に火がつきっぱなしだったことに気付いたこともある。とはいえかなり遅かった。

 なんなんやこの女。本当になんなんや。俺は必死に怒りを噛み殺しながら嘲笑している椿を見やる。


 本当に悪魔か何かに魂を売っぱらったのではないか? 高山質店に倫理観も道徳感も入れてきたのでは? いや——到底無理な話だろう。質流になっているに決まっている。俺は彼女の方へ近づき、机に軽く寄りかかって、


「ならどういうことやっちゅうんや」

「いいだろう。だがその前に——」


 椿は煙草の箱を白衣のポケットへ押し込んで、代わりにカレンダーの切れ端を取り出した。そこには何かミミズがのたくったような文字が書きつけられている。

 だがその文字列は明らかに判読できる範囲ではAだのGだのとアルファベットが無秩序に書かれているだけで、およそ言語とも言い難い。


「東医には喫煙所が現役だ。そこへいけ。そしてこのメモを渡してこい」

「そんぐらい自分で行けや。なんで俺が」

「お前が行かなければ意味がない。行けば私が何を言わんとしているか、理解できるはずだ」


 俺は苛立ちながら、彼女の手からメモ紙をひったくる。ひらひらと背後で手を振っている椿は何もかもを見透かすような瞳で俺の背を見つめていた。



***



 とんでもねえところに戻ってしまった──それを再認するたび、胃がキリキリと痛む。

 東医の喫煙所は、地下駐車場のうち職員専用駐車場の一角に設けられている。医学の手によってあらゆるものが〝有罪〟のリストに組み込まれている都市であっても、ここで働く医師たちはどうにかして抜け道を作り、不健康な趣向品を楽しみたいらしい。それは俺も同じであった。


 喫煙所の前には青いドクタースクラブに身を包んだ男がいる。彼は俺と大して背格好が変わらない、背の高い人物だった。しかし彼が纏う雰囲気は、遠くからでも名医であることが誰でも理解できる。


 少し外はねした黒髪。襟足が伸びており、輪ゴムで適当に縛ってある。顎髭は整えられているというよりも無精ひげであったが、少したれ目気味の目元には手術剪刀のような鋭い叡智の輝きがあった。俺はその人物をよく知っていた。



「……嘴馬はしま教授?」

「ん? ……あっ。お前! 市ノ瀬じゃねえか!」


 嘴馬遼士郎はしまりょうしろう──世界からその腕を認められる天才心臓外科医。東都医科大学附属病院において、心臓血管外科医局を率いる教授である。

 元々東医は心臓外科が有名な大学病院ではあるが、その中でも抜きんでた実力を持つ外科医がこの男だった。


「ご無沙汰しております」

「大変だったろ? あんなとこに飛ばされて。で、何だ──専攻科は」

「あ…………」 俺は言いよどむ。「申し訳ありません。その、現在は螺旋捜査官の任を拝命しています」

「螺旋捜査官!? そうか、いやちょっと待て。お前、もしかして椿の?」


 嘴馬は眉を寄せてその名前を口にした。何とも言い難い、神妙な表情を浮かべている。


「はい。四宮椿を監視するようにと、ここへ派遣されました」


 俺はジャケットの内ポケットへ入れていた手帳、それに挟みこんでいた椿のメモを取り出す。


「それと、これを。四宮からです」

「おう、ありがとうな」


 嘴馬はそれを一瞥し、スクラブのポケットへ突っ込む。そして困ったような表情を浮かべて、


「ごめんな、俺の莫迦弟子が」

「弟子?」


 俺は思わずオウム返しに問うた。嘴馬は柔らかい微笑みを浮かべて頷く。


「俺、指導医なんだよ。けど、あいつは臨床に出られねえから。時々妙な症例が出た時、カルテとか検査結果送って、『アドバイス』を貰ってんだ。診断をつけるのもNGだからな。あくまで診断すんのは俺だけど」

「は? 臨床に出れんって……どういうことです? それ」


 思わず食い気味に問いかける。

 医者であるはずの彼女が臨床に出られない? それどころか診断をつける事すら禁止されている? まさか医師免許を持っていないのか? 俺は嫌な汗が背中を伝うのを感じた。


「ああ、いや、椿はれっきとした医師免許を持ってる医者だ。けど諸事情あって……臨床に出るなって厚労省から言われてんだよ。ってか、その辺の話聞いてないのかよ?」

「何も聞かされていません。末端どころか、俺の上司にも詳細が伏せられていて──」


 俺は脳裏にあの黒塗りのファイルと、熾天使降臨案件という文字列を浮かべた。


「トップレベルで秘匿されていました」

「ふ~ん」


 嘴馬は雑な返事をして、喫煙所を囲う壁に背中を預ける。


「いや、そうか。成程な。ってかお前、臨床に戻る気はもうないのかよ」

「……機会があれば、前向きに検討します」


 大嘘だった。俺はもう二度と臨床には戻れない。あんなことをしでかしておいて、戻れるはずがない。苦い味が口腔内へ広がった。


「そうか。心臓外科は万年人手不足だ。いつでも歓迎するぞ」

「しかしその──何故嘴馬教授は、ここに」

「あーあー止してくれ、俺には荷が重い。せめて『先生』にしてくれ」


 嘴馬は手を左右に振って続けた。


「ほら、東医は禁煙推奨してるだろ? だからここに来るやつは滅多にいない。つか、ほぼ俺だけだ。それに椿は俺のスケジュールを把握してるからな」

「はあ……」


 この人も大概変人やな、と思いながら俺は続きを待つ。


「それにあいつ──、市ノ瀬。電話鳴ってるぞ」


 俺は内ポケットで控えめに主張しているスマホを取る。知らない番号だったが、わざわざ私用スマホにかけてくるならば余程急用だろう。俺は急いで電話を取った。


「はいもしもし」

「私だ。四宮椿だ」



 思考が止まる。



「……ちょ。ちょ、ちょ、ちょッちょっと待てや!」



 なぜ俺の携帯番号を知っている? 名刺すら渡していない。さらに言えばこれは職場用のスマートフォンではなく、俺のである。

 なぜ私用の番号がわかる? どうやって知った? 駆け巡る疑問をよそに椿は言った。


「お前たちには私のあらゆる情報が公開されている。身長・体重・血液型、BMI、塩基配列、学歴、生活リズム、心拍数、現在の位置情報にいたるまで」

「それ、は。そうやけど! どうやったんかちゃ!」

「私にも知る権利を行使する機会はあって然るべきだ」


「答えになっとらんわ。俺はどうやって俺の私用の番号を知ったんかって聞いとんや」

「ふむ。気乗りしないが質問には答えよう」


 椿は不機嫌全開の声音で続けた。

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