第四話 火を編む手、獣を知る眼

眠っていた。

けれどそれは、深い眠りではなかった。

水面の下に意識が沈んでいくような感覚。目を閉じているはずなのに、何かが見える。音がないのに、意味だけが伝わってくる。


──詩とは、心の底に降るもの。


誰かが、そう言ったような気がした。

声ではなかった。もっと古くて、もっと静かな“存在”そのものが、レイルに語りかけている。


夢の中、彼は草原に立っていた。

夜も朝もない世界。空は淡く、地平の先には言葉にならない霧が広がっている。足元には珠が転がっていた。たくさんの珠。どれも名を持たず、けれど意味の粒を内包していた。


──呼べ。

──ひとつだけでいい。

──ことばにせよ。


その声に、レイルは掌を伸ばした。

けれど、手に取ろうとするたびに、珠は消えた。

意味を掴もうとした瞬間、霧に溶けてしまう。


(……また、届かない)


心のどこかで焦りが生まれる。けれどそのとき、ひとつだけ光る珠があった。

見たことがある。いや、感じたことがある。あれは──“灯”。


レイルが近づくと、珠が音もなく浮かび上がった。

そして、ことばにならない音を響かせた。


「……詩?」


目が覚めた。

冷たい空気が、頬を撫でていった。寝汗の残る首筋に、朝の光が届いている。木漏れ日が揺れていた。


「夢……だったのか?」


けれど、胸の奥はまだ熱かった。珠は静かに眠っているはずなのに、たしかに夢の中で何かを伝えていた。それは、“灯”の珠が見せた、最初の詩のかけらだったのかもしれない。


「……レイル、起きた?」


耳元で声がした。

そっと顔を上げると、シィナが枝の上から覗き込んでいた。

いつもより少し慎重な声色。何かを感じ取っているのだろう。


「……うん。夢を見てた」


「どんな?」


「ことばが、降ってきた。正確には、“意味”の塊みたいな珠が、霧の中にいっぱい転がってて。その中に、“灯”がいたんだ。俺の方を見て、何かを言おうとしてた。けど……聞き取れなかった」


シィナはしばらく黙っていた。

風が葉を揺らし、木漏れ日が地面に円を描く。彼女はその中心にふわりと降り立って、静かに話し始めた。


「珠ってね、眠るとき、夢を通じて持ち主に詩を渡そうとすることがあるんだよ。言葉としてじゃなくて、かたちとしてでもなく、“予感”として。……レイル、それ、きっと“詩の種”だよ」


「詩の……種?」


「うん。珠が“ことばになりたい”って強く願うと、眠ってるあいだに、持ち主の心とつながることがある。それが“微睡の詩”。ほんとの詩になる前の、いちばん最初の芽吹き」


レイルは、自分の胸に手を当てた。

そこにいる“灯”は、名を得たばかりの珠。まだ使われていない。

けれど夢の中で、確かに彼に何かを伝えようとしていた。


「……じゃあ、それを“詩”にするには、どうすればいい?」


「言葉にするの。でも、それだけじゃ足りない。“気持ち”も一緒に。詩ってね、構造があるんだよ。珠の“音”と持ち主の“感情”と、世界に投げかける“祈り”──その三つが重なったとき、詩は初めて“ことば”になるの」


「構造……」


レイルは呟くように繰り返した。

夢の中で見た珠の震え。あれは、“灯”が自分の中で初めて“言葉になろうとした”瞬間だったのかもしれない。


草の上に、レイルはそっと座った。

風が背を撫で、葉擦れの音が耳を包む。掌を膝にのせ、深く息を吸い込む。胸の奥には、“灯”の珠が静かに潜んでいる。


「やってみるよ」


「……うん」


シィナは空中に浮かび、羽音ひとつ立てずに見守っていた。

レイルは目を閉じた。心の中に残る夢の残響をたどる。意味になりかけた音。かたちにならなかった祈り。あの霧の中、珠が語ろうとした感情。


──照らしたい。

──小さな場所で、ただ一つの手のひらを。


言葉ではない。けれど、それは彼の中で確かに“言葉になりかけている”。

口の中で転がしたくなるような、けれどまだ声に出すには形が整っていない、未熟な詩。


「……“光を、呼ぶ”」


かすれたような声で、レイルが呟いた。

すると、胸の奥がふっと熱を帯びた。珠が応えた。だが、それはまだ完全ではない。力があふれるでもなく、風がざわめくわけでもない。


ただ、“ことば”の芽が、ひとつだけ確かにそこに生まれた。


「……成功、じゃないけど……“始まった”感じだね」


シィナが微笑んだ。

レイルは小さくうなずいた。まだ使い方も、かたちも、何も分かっていない。けれど、詩が生まれる瞬間を、確かに感じた。


「ことばって、こんなふうに生まれるんだな」


「うん。最初は“形にならない形”なんだよ。むしろ、それを感じられたってことが、いちばん大事なこと」


森が静かに風を送り込んでくる。

朝と昼の境界が、足元から少しずつ崩れていく。

レイルは立ち上がった。心の中にはまだ残響がある。名を得た珠が、夢を介して詩を渡してきた。その予感だけが、今の彼の導きだった。


「……行こう。次のことばが、待ってる気がする」


「うん。“灯”の次は、たぶんもう少し強い意味が来るよ。きっとね」


レイルは一歩、森の奥へと歩を進めた。

木々が道をつくるように揺れ、草がそっと身をかがめる。

微睡の中で感じたことばの種は、確かにこの世界のどこかで芽吹こうとしていた。

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