第三話 名もなき応え
朝の光が、森の葉にやわらかく降り注いでいた。
露が乾く前の、ほんのひととき。小鳥の声さえも静かで、世界全体がことばを探しているような気がした。
レイルは、ひとり立っていた。
丘の中腹、まだ朝霧の残る小道の端に。掌をそっと胸に当てて、内側の震えに意識を傾ける。
珠は、そこにいた。
いや、“いた”というのも正確ではない。ただ、確かに“在る”と感じられる何かが、脈を打っていた。まだ名も持たぬ言珠。それは、まるで小さく息を潜めた動物のように、言葉になれずに震えていた。
「昨日からずっと、落ち着かない感じなんだ」
レイルはそう呟いた。
「体調が悪いわけじゃない。でも、心のどこかが、ずっとざわついてる。何かが、訴えかけてるんだ」
その声に、シィナがふわりと現れた。
空気を巻き込んで舞い降りるその姿は、いつものように軽やかだったけれど、今日の彼女の表情は少しだけ、深い。
「それ、珠が“名前”を欲しがってるんだと思う」
レイルは顔を上げた。
「名前……?」
「うん。珠ってね、意味を持って生まれる。でもその“意味”が、まだ“音”や“形”になっていないと、世界と繋がれないの。だから、名を持たない珠は、あなたの中でぐるぐる回ってる。落ち着きたがってるのに、居場所が定まらないでいるの」
「……じゃあ、名付ければいいのか?」
「ううん、違う。こっちから“勝手に”名を与えるんじゃなくて……“見つける”の。珠が本当に持っている“名前の音”を、ちゃんと感じてあげること」
レイルは、黙ってうなずいた。
静かに目を閉じると、胸の奥でわずかに何かが震えた。
それは言葉より前にある感情で、祈りのようでもあった。
「名って、どんなふうに感じるものなんだ?」
目を閉じたまま、レイルはそっと問う。
シィナは彼の肩に腰かけ、朝の風に髪を揺らしながら静かに答えた。
「ひとによって違うけど……たとえば、あたたかさだったり、光の形だったり。音が先に浮かぶこともある。珠によっては、涙みたいな味がすることもあるんだよ」
「味……」
「うん、変でしょ。でも、それくらい曖昧なものなんだ。“ことば”になる前の“ことば”。それを感じ取るのが、紡ぎ手の最初の仕事なんだよ」
レイルは、ゆっくりと息を吸い込む。
掌を広げて、何もない空間に意識を集中する。
そこにあるのは、名もない珠。
昨日からずっと、彼の中で震えていたもの。言葉になれず、意味にもなれず、けれど確かに存在していた“核”。
──何かが浮かぶ。
温かい。
それは朝に灯された小さなランプのようで、風に吹かれたら消えてしまいそうなくらい、儚い。
けれど、確かに“そこにいてくれる”気配。
「……“灯”」
口にしたとたん、珠が反応した。
胸の奥で脈がひとつ強く打ち、掌に淡い光が浮かぶ。かすかに震えるそれは、火の粉のようにも、しずくのようにも見えた。
「今の……聞こえたの?」
「うん。珠が応えた。あなたの感じた“灯”って言葉が、珠の意味と一致したの。……名を得たんだよ、その珠は」
珠の光が、ほんの一瞬だけ強まる。
けれど次の瞬間には、また静かにその輝きを閉じていった。
まるで、ようやく自分の居場所を見つけた子どもが、安心して眠りにつくように。
レイルは、掌をそっと胸に戻した。
そこにはもう、“名もなき震え”ではなかった。
代わりにあるのは、確かに言葉として“立った”珠の感触。
「……ありがとう、“灯”」
森の空気が、ひとつだけ深く揺れた。
光はもう消えていた。
けれど、レイルの掌には確かな温度が残っていた。
それは珠が名を得た証。
もはや彼の中でただ震えているだけのものではなくなった。
──灯。
静かな名前だ。大きな力を誇るでもなく、目を奪う華やかさもない。
けれど確かに、何かを照らす力。誰かのそばでそっと寄り添うような、柔らかく優しい光。
「シィナ……この珠の力、まだ分からないけどさ……なんとなく、“誰かのため”って感じがするんだ」
妖精は、レイルの言葉に目を細めた。
「うん、そうだと思う。珠は、自分が使われる未来を“予感”することがあるから。名前が決まったときに、“意味”も動き出すんだよ」
「……俺、ちゃんと使えるかな」
「大丈夫。“照らしたい”って思う気持ちがある限り、この珠は応えてくれる。詩って、そういうもんだから」
レイルは、ふっと息を吐いた。
草の間からのぞく陽光が、ゆっくりと角度を変えていた。朝はもう終わり、昼が近づいている。世界の色がまたひとつ、違って見えてきていた。
ふと、森の奥から何かの気配がした。
敵意はない。けれど、明らかに“ことば”を帯びた存在の予兆。
「……次が来るな」
「うん。珠が生まれるってことは、詩に触れる“できごと”が近づいてるってこと」
レイルは頷き、草の上にそっと足を置いた。
掌にはもう、名のある珠が眠っている。
まだ使い方も分からない。でも、それでもいいと思えた。
今の自分には、感じ取れる何かがある。
名もないものに名を与える力。
世界の“意味”に触れる、小さな勇気。
それがきっと、紡ぎ手の最初の一歩なのだ。
朝の森を抜け、レイルは静かに歩き出した。
足元の草が、そっと音を立てる。
珠が、胸の奥で眠るように応えていた。
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