第五話 綻(ほころび)

昼の光が斜めに差し込む頃、森の空気が変わった。

レイルはそれにすぐ気づいた。風の流れが逆巻くでもなく、音が増えるでもない。けれど“何か”が、そこに“ある”。珠とは異なる、ねばついた“ことばの気配”。


「……変だな」


「うん、わたしも感じる」


シィナが肩の上でじっと身をすくめた。

木々の間に、かすかに霧が立ちこめていた。朝霧とは違う。陽射しの中に溶けていくことなく、空間そのものにまとわりつくような、重い霧。


「この匂い……たぶん、“濃霧珠の残響”だと思う」


「……濃霧珠?」


レイルが聞き返すと、シィナは小さくうなずいた。


「うまく“詩”になれなかった珠が、意味を拡散させて残していった痕跡……って言えばいいのかな。珠が砕ける寸前とか、使い手の感情と噛み合わなかったときに、こういう霧が残るんだよ」


「じゃあ、誰かがここで……言珠を?」


「そう。何かあった。たぶん、うまくいかなかった。……しかも、そんなに昔じゃない」


レイルは一歩足を止めた。

胸元の“灯”が、わずかに脈打つ。珠が反応している。けれど、それは共鳴ではなく、警戒に近い熱だった。


「この霧の中に入ったら、どうなる?」


「少しなら平気。でも、長くいると……“ことば”が混線する。記憶が歪んだり、感情がねじれたりする。紡ぎ手じゃない人には……危険」


そのとき、レイルの隣でシィナがふっと黙った。

いつもなら真っ先に飛び込むはずの彼女が、霧の向こうを凝視して動かない。


「……そこに、“わたしの過去”があるかもしれない」


レイルは息を飲んだ。

霧の向こう。まだ名を持たぬ珠たちの、沈黙の気配。

そしてシィナの言葉が残した、静かな痛み。


霧の中は、音が歪んでいた。

足音がすぐ耳元で反響し、風の揺れが背中を舐めるように伝わってくる。空間全体が、まるで深い水の中に変わってしまったかのようだった。


レイルは慎重に進む。

霧の境界を越えてから、もう数歩。珠の“灯”は脈を速めたままだが、今のところ明確な異変はない。


けれど、シィナは沈黙していた。

肩の上で、小さな身体が震えている。


「……大丈夫か?」


「……うん、少しだけ……昔のことを思い出してるだけ」


彼女の声はかすれていた。

霧の中に滲むような、輪郭を失いかけた声だった。


「ここ……この辺り、たぶん……私が、はじめて“失敗”した場所」


「失敗?」


「うん。……昔、一度だけ、わたし……珠を壊したことがあるの」


レイルは息を飲んだ。

シィナの声に込められた痛みは、冗談ではなかった。

霧の正体、それがまさに──彼女の“過去”そのものだとしたら。


「詩を紡ごうとして、意味を逸らしちゃった。珠が泣いて、私の手の中で崩れて……そのまま、この霧だけが残った」


「それが……この“濃霧”か」


シィナはうなずく。

その顔には、いつもの明るさはなかった。


「本当は忘れたかった。でも、珠ってね……忘れても、残るんだよ。ことばにならなかった感情は、こうして形を変えて、何度でも思い出させてくる」


レイルは足を止めた。

周囲の霧がわずかに色を変えていた。白ではなく、うっすらと灰色に濁っている。まるで、封じられていた記憶が表面化しているようだった。


「……シィナ。その珠の名前、覚えてるか?」


「覚えてる。“綻”。漢字で一文字、綻ぶって書いて“ほころび”って読むの。……壊れるのと違って、ゆっくりほどけていく感じ。まさに、そういう名前だった」


レイルは目を伏せた。

“綻”。

破綻ではなく、未完成なままほつれていった珠。

名があるということは、忘れられないということでもある。


「大丈夫だ。俺が“灯”を持ってる。……今は、照らせる」


レイルの声が、霧の中に染み込んでいく。

彼の掌が、ほのかに光った。灯の珠が、静かに応えた。


掌の光が、ゆっくりと揺れた。

“灯”の珠が応えていた。強くではない。けれど、確かにシィナの中にある“綻”という記憶と向き合おうとする意志に、そっと寄り添うように。


「この霧……まだ“綻”が、ここに残ってる気がする」


レイルの言葉に、シィナは小さくうなずいた。

霧の濃さが、ほんのわずかに増している。音が歪み、視界がにじむ。意味の残滓が、空間を軋ませていた。


「詩にすることも、名を返すこともできなかった。だから“綻”は、ずっとここに留まり続けてるの」


「じゃあ、今ここで……“応えて”やるしかないんじゃないか?」


レイルは立ち上がった。

“灯”が胸元で光を帯びる。名を得た珠は、持ち主の意志に合わせて動き出す。まだ未熟でも、共鳴は始まっている。


「“綻”が残した感情は、きっと消えてなんかいない。だから、今の俺たちで、ちゃんと“言葉”にしてやろう」


シィナの目がわずかに見開かれた。

その目に、一瞬だけ、過去の涙が宿っていた。けれど彼女はすぐに微笑んだ。


「……ありがとう、レイル。やってみる」


レイルは掌を前に突き出した。

光が霧の奥を照らす。するとその向こう、わずかに空気が震えた。


珠があった。

崩れかけ、名もかたちもぼやけたそれは、けれど確かに“ことば”になりかけた記憶の欠片。


レイルは目を閉じ、ひとつだけ“ことば”を編んだ。

それは“綻”という名を尊重し、もう一度“紡ぎ直す”ための詩。


──「ほどけても、また結べるなら、それでいい」


その言葉が空気を貫いた瞬間、霧がふっとほどけた。

濃密だった感情の残響が、やさしく空に昇っていく。

そこにはもう、痛みではなく──静かな赦しがあった。


「……綻、行ったね」


シィナの声は、どこかほっとしたような、涙のにじむ響きだった。

レイルは黙ってうなずいた。


霧の先には、清々しい光が差していた。

“ことば”を失敗したまま終わらせない。それは、紡ぎ手としての新たな一歩だった。

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言珠(ことだま) ナギ(Nagi) @nagitobun

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