第二話 言葉の端に、翳りを

朝の森は、まだ眠っていた。

霧がうっすらと漂い、草の葉に宿る水滴がひとつ、またひとつ、音もなく弾けてゆく。足元の感触が、昨日までと違う気がした。踏みしめた土の柔らかさが、どこかで“ことば”に似ていた。


レイルは、静かに呼吸を整える。

胸の奥に、熱がある。あの湖で言珠を受け取ったあの瞬間から、ずっと内側に残り続けているもの。見えない。けれど、確かに“在る”。


──それは言葉の残響。

声にならないまま、感情だけで伝わる祈りのようなもの。


「おはよう、レイル!」


明るい声が、頭上から降ってきた。

ふわりと空気が巻かれ、朝の光に混じるようにして、ひとつの小さな光が回転する。翅のある少女──妖精のシィナが、軽やかにレイルの肩へと舞い降りた。


「今日はなんか、早いね」


「……眠れなかっただけさ」


「そっか。まぁ、言珠を受け取ったあとだしね。そういうの、あるあるだよ」


彼女は冗談めかして笑ったが、レイルはうなずくだけだった。

言葉にするにはまだ遠すぎて、それでいて近すぎた。


「胸のあたりが、ずっとざわざわしてるんだ。熱いような、重いような、何かが言いたがってるような……でも、聞き取れない」


「それ、珠の声だよ。名前がないから、今はまだ“ことば”になれてないだけ。ちゃんと聴こうとすれば、いずれ見えてくるよ」


レイルは小道の先、朝露のにじむ草原を見つめた。

世界がまるで新しい言語で話しかけてきているようだった。

昨日まで通っていたこの森が、まったく違う景色に思えるのは、そのせいかもしれない。


「珠の匂いって、感じたことある?」


シィナの問いに、レイルは首をかしげた。


「匂い……? いや、そんなのがあるのか?」


「あるよ。感情に近いけど、もっと曖昧で、もっと繊細。珠の“意味”は匂いとして現れることもあるの。たとえば怒りの珠は焦げた煙みたいで、祈りの珠は朝露と冷えた石の匂いが混ざってるんだよ」


「……じゃあ、俺の珠は?」


レイルはそっと胸元に手を当てた。そこに見えるものは何もない。けれど、体の奥に埋め込まれたような存在が、ゆっくりと熱を返してきていた。

意識を集中すると、それはたしかに“匂い”に変わっていった。


──焼きたてのパンのような温かさ。

けれど誰も食べていない、店先に置かれたままの静けさ。

懐かしさと、ほんの少しの寂しさが入り混じった、色のない感覚。


「……懐かしい匂いがする。でも、それがなんなのか分からない」


「それでも、ちゃんと感じてるなら大丈夫。珠は、そうやって少しずつ自分の“意味”を伝えてくるんだよ。言葉になる前の声って、そういうもん」


レイルは小さく息をついた。

森の空気が、わずかに揺れた。鳥の羽ばたく音。草の背を撫でる風。

それらすべてが、まるで“何か”を語っているように思えた。


「なぁ、シィナ……この世界って、本当に“言葉”でできてるんだな」


「うん。でも、目に見えるものよりも、目に見えない“ことば”の方がずっと多いの。だから、見えないものに耳をすます力が、紡ぎ手には必要なんだよ」


レイルはその言葉を胸に刻んだ。

珠の意味。言葉の形。まだ何も分かっていないけれど、確かに“それ”は今ここにある。そして、自分がその一端を担うことになったのだ。


丘の向こうから、かすかな音が聞こえた。

ぱきり、と乾いた枝が折れるような、けれどそれだけではない。風の流れが変わり、森の深部で何かが目を覚ましたような気配。


「……誰か、いるのか?」


レイルは自然と声を潜めた。

直感だった。恐怖ではない。ただ、“意味”が揺れていた。言葉にならない“何か”が、この場所に近づいてきているのを、珠が感じ取っている。


「まだ大丈夫。たぶん“ことば”が生まれそうな場所に、自然と引き寄せられてるんだよ」


シィナの声は静かだった。

肩に戻った彼女の体温が、かすかに伝わってくる。


「レイル。最初の珠は、あなたにしか触れられない。でもこれからの珠は、選び、選ばれるものになる。その第一歩が、今なんだよ」


「選ばれる……?」


「うん。世界があなたの“詩”に応えるようになるってこと。最初は気づかないうちに珠が集まる。でもそれは、あなたが“ことば”を探す覚悟を持ったってことなんだ」


風が木々の間を通り抜けた。

森が、小さく頷いたように思えた。


レイルはゆっくりと前を向いた。

踏み出す足の先には、昨日まで見えていなかった小道がある。草をかき分けたその先には、朝の光がさしていた。


「……進もう。きっとこの先に、また何かが待ってる」


「うん。きっと次の“ことば”が、もうあなたを待ってるよ」


レイルは一歩、そしてもう一歩、森の中へと足を踏み入れた。

珠は静かに脈打っていた。名はまだない。けれど、感覚は確かに広がっている。音でも、光でもなく、言葉でもない“ことば”。


──それが、最初の旅の、ほんとうの始まりだった。

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