契約更新
まさつき
山田、ハラスメントに遭う
桜が咲き始め、世の中浮かれてそわそわとする時節であったが。山田は張りつめた緊張感を重く抱えて、職場生活を送っていた。
山田太郎、四二歳、男性、独身――H市にある中小企業に勤める契約社員である。
五年度目の三月は契約の更新月。
まずは無事に契約満了日を迎えようと、必死なのだ。
暗いうわさの絶えない会社であった。
契約最終月のこの時期に限って、契約社員たちはことごとく、会社から陰に日向にさまざまなハラスメントを受けるのが公然の秘密という、恐ろしい職場なのだ。
実際、すでに同僚の坂上が、正社員女性の姫子に仕掛けられた甘い罠に嵌っている。いわゆるハニートラップというものだ。一夜限りの天国は地獄への入口となり、姫子が嘘の涙で泣きついた上司の鬼頭部長によって、坂上の処遇が直ちに決まったのである。
契約更新は無し。当月末日までの待遇は保証されるが、文字通り地獄となる四月からの生活が約束されていた。もちろん、これは鬼頭による姫子を使った卑劣な罠。だが、文句を言える者など一人としていない。
幸い、山田はそこらの誰より遥かに身持ちの固い、当節珍しい男であった。慇懃に振舞い、女の顔を潰すことなく、体よく女難をあしらうことも心得ている。
頭も切れる、営業成績もよい、人付き合いも如才ない。山田の存在は営業部の宝と言えた。それでも契約更新月だけは別。みな等しく、非正規雇用の従業員には、陰湿な罠の数々が所狭しと仕掛けられるのである。
坂上を始め同期入社の鈴木、双葉といった非正規の同僚たちはみな撃沈していた。
残るは山田、独りのみ。今日を乗り切り、明日一日をやり過ごせば、山田は晴れて満了日を迎え、新しい人生への扉が開くのだが。
ついに最大の罠を、鬼頭部長が自ら山田に仕掛けてきたのだった。
「山田君、今夜君の送別会として一席設けたいのですが、いかがでしょう?」
やはりそうきたか。覚悟はしていた危険な障害――酒である。山田唯一の弱み、無類の酒好き、吞んべえなのだ。
選択肢はない。断ることなどできない。人付き合いが悪いと因縁をつけられ、あとで何をされるか分かったものではないからだ。虎穴に入らずんば虎子を得ず。覚悟を決めて、山田は宴席への出席を快諾した。
会場は部長行きつけの小さなスナック『デモン』。
虎柄のワンピースを着たボンレスハムみたいなママがカウンターの中にいた。
まさに虎穴、営業部貸し切りの檻である。
だが山田、この時に備えて万全の備えをすませていた。
感謝を込めて、率先してみなに酒をふるまった。酔わされる前に酔い潰した。
カラオケは全員の好みを把握済み。決して選曲で被らないよう、自分の歌は控え目に入れる。音を外して笑いを取り、恥をかくのも忘れなかった。
こうして山田は、最大の難局を無事に乗り切ったのである。
最終日の夕方、定時退社まで五分を残すころ、最後の挨拶が交わされた。
「山田君は本日で契約満了です。明日から君と働けないことが、残念でなりません」
心底無念であるとして、鬼頭部長は自ら曼殊沙華の花束を山田に手渡した。一瞬交わした視線に、山田の心はにわかに凍えた。
射殺さんとばかりの冷たい目が光っていたのだ。雁首揃えた正社員一同、右に倣えと同じく冷えた表情で、山田の姿を見据えていた。
坂上や鈴木、双葉といった同僚の元契約社員は、虚ろな顔を山田に向けている。
山田はいかにも神妙な顔を作り上げ、深々と職場の面々に向けて首を垂れた。
「みなさま大変長らくお世話になりました」
危うく嬉しさをこぼして顔が崩れそうになるのを必死にこらえ、山田は惜別の情を表す顔を作り直して面を上げた。
それでは御免と、営業部の扉を開けてフロアを去る。
恨めし気な元同僚の視線に肝が冷えたが、山田の心はスキップしそうになるほど軽い。駆けだしたい気持ちを堪えて、やっとこ会社のビルを抜け出した。
夕日が眩しい。山田は大きく伸びをした。
「よかったあ、正社員にならずに済んだ」
これにて無事に契約満了。
山田の〝魂〟はついに、自由の身となり解放されたのだ。
ここはH市、地獄の一画。
異形の獄卒たちが経営する、ブラック企業が立ち並ぶ街。
通い慣れた道を戻ることなく、山田は大通りの先で輝く光の門に向かって歩き出した。門の奥にはうっすらと、翼を生やした神々しい人影が立ち、山田に手招きをしている。
さあ、新しい人生は、どんなものだろう? 楽しみで仕方がない。でも、羽目は外さないようにしなくては。もう二度と、こんな場所には来たくない――生まれ変わればきっと忘れてしまうとしても、魂の奥にしっかと刻もうと誓う、山田であった。
<了>
契約更新 まさつき @masatsuki
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