第5話 ひねもすのたりのたり①
食事の後、静かな教室の書写机に座る。沁みついた墨の匂い。
ずっとここで育ってきた。
閑静な高級住宅街の中にある、場違いなほど昭和なこの家。
書道家であった祖父が、そこそこ名の通っていた時期に建てた物らしい。祖母もそれなりの書道家ではあるが、芸術としての書道は、食べていけるほどの需要が今は無い。
正座して、墨をする。
高級住宅地にあるので、比較的余裕のある家の子どもが書道教室へ来てくれる。亡くなった祖父は美術年鑑に乗るような人だから、そういうのもあって通わせてくれるご家庭があるのだ。
そういえば、譲くんちもお父さんは、駅前に病院を開業している。
チカも小学校卒業までは、ここに通っていたんだった。チカのご両親も、お父さんは、今は引退して元野球選手の解説者だし、お母さんは料理研究家だ。
――チカ
部活帰りに見た光景が脳裏をよぎる。
改札の向こうに、笑い合うチカと佐奈ちゃんの姿が見えた。2人で荷物を抱えて、自分とは反対方向の路線に向かう。家に帰るならチカは自分と同じ電車に乗るはずなのに。
なぜか、2人に見つからないように距離を取った。
やっぱり、噂通り付き合ってるんだ。
突きつけられる事実に、がっかりする。始まってもいないのに振られた気分。
墨をする静かな音が教室に響く。
わかってたけど、ショックなものはショックだ。手が止まり、はぁ、とため息が出る。そして、また手を動かす。
でも、こうして墨の匂いに包まれていると、次第に気持ちが収まってくる。
高校に受かった時は、ワンチャンそういう妄想もしたけど、正直、無理なのはわかってたから。
早めにケリがついてむしろ私の高校生活は、これから豊かになるはずだ。書に邁進し、なんかの賞をもらって推薦で大学に行く。できれば奨学金がもらえるレベルが望ましい。
破れた恋にどんよりとしながらも、前向きな言葉を自分にかけることはできる。
はー、恋って、難しい。
公募に出品する作品の題材を、教室にある作品集の中から探す。大きな作品集をペラペラとめくっていると、ある1つが目に留まった。
「恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか」
――壬生忠見の和歌 百人一首でも有名な歌だ
(恋をしているという噂が、もう立ってしまった。誰にも知られず、ひそかに想い始めたばかりなのに)
現代語訳に胸がピリピリと痛む。噂が立っているのは、本命の別の人だが……
ひとりでひっそり想っていただけの恋というのが刺さった。
これ、書いてみようかな。和歌だって立派な作品になる。
静かに筆を取る。
四つ切半紙に、ゆっくりと構え、最初の一文字目を筆で走らせた。
んー
書いてみて気づいたが、「恋」と書くのは、案外照れくさい。無駄にくしゃくしゃにして机にポンと置いた。
今度は細い筆で、全文を縦にバランスを取りながら書いてみた。
悪くないかもしれない。良い題材に出会うのは運命だというから、これはこれでありだ。
何枚か、書いてみて、いいバランスになったものを一枚新聞紙に挟むと、明日、先生に相談してみようという気になった。
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