第4話 門を出て我に従ふ
「ただいまー」
昭和感ただよう引き戸を開けて玄関の上がり框で靴をそろえる。玄関の土間には、いくつかの子どもの靴が乱雑に脱がれている。玄関を上がってすぐ左の扉の向こうは、祖母がやっている書写教室だ。
「おかえり。遅かったね。おばあちゃんが手伝いが欲しいって待ってるよ」
奥の台所から母が小走りで出てきて、そう告げていると、横の扉が開いて、男の子が顔を出した。その横を別の子が、さよーならーとこっちの顔も見ずに、言い捨てて出て行く。
「くーちゃん先生、早く来てよ」
「譲くん、私は先生じゃないからね。お手伝いさんだから」
「いいから早く来て。翠峰先生が、硬筆はくーちゃん先生に見てもらってって。待ってたんだよ」
わかった、わかった、着替えてくるから、と言って自分の部屋へと急ぐ。
階段を下りて教室へ入ると、黒い書写机に向かう背中がいくつか見えた。
「こんにちはー」
そう言いながら声をかけると、ずっとここに通ってる遠山さんと清川さんが、おしゃべりをやめて振り向いた。
「あらー、くーちゃん先生。高校はどうなの?楽しい?」
遠山さんが、墨のついた筆を持ったままこっちを向いているのが、非常に気になる。
「普通に楽しいですよ。遠山さん、墨落ちるから筆置きましょう」
その言葉に、あぁ、またスカートをダメにするところだったわぁ~、と清川さんとケタケタと笑いあっている。
「くーちゃん先生。これ、もう提出でいい?」
譲くんが、硬筆の清書用紙に書いた今度の昇級課題を鼻先に突きつける。
「譲くん、ちょっと紙が近いよ。んーここの“お”のところと“め”のところを綺麗に書き直しませんか?」
「えー!いや!早く帰らないと、ゴンダムが始まるもん」
正直、『だったらおばあちゃんに、はいこれで!って出して帰ってくれていれば良かったのに』と思う。
「でも、6級になりたいんでしょ?6級になったら来月カード買ってもらえるって言ってたじゃない」
「……そうだけど。わかった。じゃあラスイチね。もうこれ書いたら帰るから」
「はい、それがいいよ。“お”も“め”もちょっとお尻が高くてバランス悪いから、こんな風に書いてみて」
そう言って赤ペンで修正を入れる。譲くんは、ぷうっと頬っぺたを膨らませて、ひったくるように紙を奪うとドスドスと席に戻った。
「胡桃、悪いんだけど、ここに朱墨をたして頂戴」
生徒が向かっている書写机は、畳敷きに置かれている平机だが、祖母は、皆の正面で、折り畳み式のテーブルを前に、クッションを括り付けたパイプ椅子に腰かけている。
2年前に膝の人工関節手術を受けて正座が難しくなり、立ったり座ったりの動作が簡単でなくなったのだ。
「はい」
祖母の白い陶器の墨入れに朱墨を足して、その横の布巾を綺麗な物に変えた。
譲くんは、まぁまぁ及第点の作品をかき上げて、雑に片づけをしながら母親にキッズ携帯で電話をしている。遠山さんも清川さんも何枚か書いた後、良し、を貰ったものを、提出用の棚に置いて帰った。
「おばあちゃん、後片付けしておくし、後はいいよ」
古い半紙に残った墨を吸わせている祖母にそう声をかけると、「そう?じゃ後お願いね」とそっけなく言ってヨロヨロと立ち上がった。
「あ、おばあちゃん、今度公募で作品を出すの。それの練習をしたいし、ご飯のあと教室使っていい?」
祖母は、ゆっくりと体を伸ばすと、トントンと腰を叩いて、天を仰いで息を吐いている。
「好きに使っていいよ。はー、もう、小学生は出禁にしようかしらね」
疲れた、という顔で、ただでさえ皺の多い顔をさらにしかめている。
「ははは、でも、小学生はお金になりますからね、翠峰先生」
笑ってそう返すと、教室の扉を開けながら「お金になったって、寿命が縮んだら元も子も無いわよ」と言って壁をつたいながら、出て行った。
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