第10話 父の背中と、財布のありか


「おい、吐けよ! てめえが盗んだんだろうが、俺の財布!」

「ち、ちが……しら、ない……っ」


 見過ごすことはできなかった。

 路地を覗き込むと、見覚えのある学院の制服を着た男子生徒が二人。そしてもう一人。

 男子生徒が、壁際に追い詰めているのは、おそらく十歳にも満たないであろう、ひどく痩せた少女だった。

 着ている服は所々が擦り切れ、怯えきった瞳で涙を浮かべていた。


「何してるんですか!」


 アリアが大きな声をかけると、同級生たちは苛立った様子で振り返った。


「あ? 誰だお前……ああ、アリアか。こいつが俺の財布をスったんだよ。だから、ちょっと懲らしめてやるところだ」

「そうそう、出来損ないの勇者の娘はすっこんでろよな」

 

 休日に制服で出歩くような男子生徒二人。

 無駄に暴力的な訳でも、理由なく他者を傷つけるような人間ではないはずだった。

 窃盗犯を糾弾するという、社会的に承認された行為。

 その大義名分が、彼らの幼稚な加虐心を正当化する免罪符として機能している。


「その子は、知らないと言っています。あなたが落とした可能性は?」


 アリアは、自分でも意外なほど強い口調で言った。

 少女の怯えた瞳が、過去の自分と重なった気がしたからだ。


「はあ? 落としたもんか! こいつが不自然にぶつかってきやがったんだ!」

「そうそう! 嘘つくんじゃねえ!」


 腕を掴まれた少女が、小さく悲鳴を上げる。

 アリアは、ぐっと拳を握った。


「でも、そうだとしても、理由がどうであれ、その子を一方的に傷つけていいことにはならない」


 すると、財布を盗られたらしい方の生徒が、顔を歪めて叫んだ。


「どう考えても先に盗んだほうが悪いだろ! 俺たちがこいつに教育してやるべきなんだよ!」

「そうだそうだ!」


 盗んだほうが悪い。それは確かに正論だ。

 それでも、アリアは揺るがない。

 正論なら負けない。

 自信があった。


 ――窃盗という行為と、それに対する私的制裁。

 ――双方を天秤にかけた場合、どちらがより共同体の秩序を乱すか。

 ――お前は、その程度の計算もできないのか?


 ユリウスの声が、脳内で再生される。

 もちろん、都合のいい幻想なのは分かっている。

 それが正論かはよく分からない。必要なのは勢いだ。


「その子のことは、わたしが責任をもって衛兵に引き渡します。だから、その手を離して」


「はっ、なんでお前の言うこと聞かなきゃなんねーんだよ!」


 業を煮やした一人が、アリアの胸倉を掴もうと手を伸ばす。

 その瞬間。


 アリアの身体は、反応するより先に動いていた。

 ユリウスとの特訓で、骨の髄まで叩き込まれた体捌き。

 相手の動き出しのわずかな重心移動を捉え、最小限の動きで攻撃線を逸らす。

 男子生徒の手は、虚しく空を切った。体勢を崩した彼が目にしたのは、今まで見たこともないアリアの姿だった。

 感情の一切を削ぎ落とした、氷のように冷たい瞳。

 まるでユリウスの視線を模倣したかのような、相手の存在そのものを見透かすような鋭い気迫。

 剣技でも、魔法でもない。

 圧倒的強者と対峙し続けることで、無意識に吸収できるもの。


「……っ!」


 同級生二人は、蛇に睨まれた蛙、という比喩そのものだった。

 目の前にいるのが、本当にあの『出来損ない』のアリアなのか、信じられないといった表情で後ずさる。


「これ以上、騒ぎを大きくするつもりなら、わたしも相応の対応を取ります。先生方にも、すべて報告させてもらいますから」


 アリアが静かに告げると、二人は「ちっ……覚えてろよ!」と敗者の定型句を残し、逃げるように路地裏から去っていった。


 後に残されたのは、アリアと、壁際でまだ小さく震えている少女だけだった。

 衛兵に引き渡す、と言った手前、アリアは少女に向き直る。

 しかし、その瞳に、先程までの冷たさはなかった。


「……本当に、あなたが?」


 優しく問いかけると、少女はびくりと肩を震わせて。

 やがて、こくりと小さく頷いた。

 ぽろぽろと大粒の涙が頬を伝う。


 ……本当に、盗ってたんだ。


 落としたのかもしれない、と強く主張した手前、アリアは少し気まずい気持ちになった。

 少女の細い手から、小さな革の財布がぽとりと落ちる。


「……お腹、すいてて……お母さんが、病気で……薬を買わないと……」


 途切れ途切れの言葉に、アリアは深いため息を一つ吐いた。

 母が病気という過酷な状況に同情した――という訳では無かった。

 これは困ったぞ、という複雑な表情。


 お母さんが病気、はきっと嘘だ。それがアリアにはなんとなく分かる。

 嘘をつくな、なんてことは言えない。

 空腹は、それだけつらいことを、アリアは知っていた。


 アリアはしゃがみ込み、少女と視線を水平に合わせる。


「気持ちは分かるけど、盗みは絶対にだめ。もっと他の方法があったはずだよ。本当に困ったら、誰かに助けを求めなきゃ。声を上げないと――誰も気づいてあげられないから」


 それは、かつての自分に言い聞かせるような言葉でもあった。

 アリアは自分の古びた財布を取り出すと、中からなけなしの硬貨を数枚、少女の小さな手に握らせる。


「これで、あたたかいものでも買って。お母さんのためにもね。でも、もう二度と、こんなことしちゃだめだよ。約束」


 少女は、驚きと感謝で何度も頭を下げると、涙を拭いながら走り去る。

 一人になった路地裏で、アリアは落ちていた財布を拾い上げた。


 さて、どうしようか。


 これを正直に衛兵に届ければ、少女が犯人だとバレてしまうかもしれない。

 そうだ。例えば、わたしがこの財布を、どこか他のお店の前あたりで、『拾った』ってことにする。

 お店の人には、学院の名前も教える。

 そうすれば、持ち主にもちゃんと返る。アリアはそう決めた。


 ユリウス先生が見ていたら、きっと言うだろう。

「不合理の極みだ」と。

 窃盗犯の行為を結果的に肯定し、再犯の可能性を助長させるだけだ。

 感情に支配された、愚かな判断だ。

 どこを取っても、怒られるイメージしか浮かんでこなかった。


 お人好しで、採算度外視で、結局いつも損ばかりしていた父の姿が、ふとアリアの脳裏をよぎった。


 ……本当、お父さんそっくりかも。


 なんて非効率で、不合理なんだろう。

 けれど、アリアの心は、不思議とあたたかかった。

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