第9話 休日と、路地裏のパン
模擬戦を二日後に控えた、ある日の放課後。
いつものように最後の最後まで訓練に打ち込むアリアに、ユリウスは唐突に告げた。
「アリア、明日は休養を取れ」
「えっ? あ、先生、予定があるんですね! それなら大丈夫です。ひとりでも、やるべきことはやって――」
「休養を取れ」
ユリウスは続けて、「思考と肉体を完全に休めることも、戦術の内だ。オーバーワークは判断を鈍らせる。これは訓練の一環であり、命令だ」
これ以上の反論は許さない。そういうことだった。
それでも、アリアは食い下がる。
特訓の機会を一日失うのは、あまりにも惜しい。
「そ、それじゃあ、せめて、生活費を稼ぐための、ギルドの簡単な依頼だけでも……」
「それも禁止する」
ユリウスは間髪入れずに否定した。
「金の心配は不要だ。必要なら俺が出す。お前は、明日の日の出から日没まで、訓練や労働といった、心身を消耗させる一切の行為を禁ずる。いいな」
その有無を言わせぬ口調に、アリアは渋々頷くしかなかった。
ユリウスの瞳は、その決定が覆ることはないと、静かに告げていた。
翌日、アリアは自室の硬いベッドの上で、ただ天井の木目を数えていた。
しん、と静まり返った部屋。
窓から差し込む光が、空気中の小さな埃を照らしている。
じっとしていると、嫌でも思考が巡る。
模擬戦のこと。
リゼットさんの、冷たいけれど真っ直ぐな瞳。
ユリウス先生の、理解しがたい命令。
そして――魔王に敗れた父のこと。
手のひらを返した人々の視線。
ひとりで生きてきた日々の、心の凍えるような寂しさ。
体を動かし、汗を流し、目の前の作業に没頭していれば、過去の傷や未来への不安から目を逸らすことができる。
だが、この静寂は、無理やり蓋をしていた感情を否応なくこじ開けてくるようだった。
「……だめだ じっとしてられない!」
アリアはベッドから跳ね起きた。
訓練がダメなら、せめて。
――散歩くらいなら、許されるだろう。
これは消耗ではなく、気晴らしだ。
アリアは自分にそう言い聞かせ、簡素な私服に着替えて部屋を飛び出した。
学院の門を抜け、城壁に囲まれた街へと足を向ける。
大通りは、様々な人々が行き交い、活気に満ち、色と音であふれていた。
露店の威勢のいい声、香ばしい食べ物の匂い、石畳を駆け抜けていく楽しげな子供たち。
その喧騒の中に身を置くと、胸の内に渦巻いていた靄が、少しだけ晴れていく気がした。
そのときだった。
アリアは人混みのなかに、少しだけ異質なものを感じた。
それは、父から受け継いだ、力の源流を感知する特殊能力。
視線を向けると、ごく自然に紛れて歩く一人の男性。
外見はどこにでもいる行商人風だが、その身に宿す力は、明らかに人間のものではなかった。
――魔族の、ひとだ。
けれど、アリアは特に身構えなかった。
父を殺したのは魔王だが、全ての魔族が邪悪なわけではない。
あの男性からは、敵意や害意といったものは一切感じられない。
ただ、静かに街の空気に溶け込み、商品を眺めているだけだ。
アリアは、その背中を、ただじっと見詰めていた。
――そうだ。
――あのときも、そうだった。
不意に、記憶の鍵が、音を立てて開く。
あれは、父さんが死んで、世界から本当に色が抜け落ちてしまったみたいだったころ。
わたしがひとりぼっちだったころのこと。
その日食べるパンにも困るような、そんな毎日。
縋りついた冒険者ギルドの小さな仕事で、その日を生きるのがやっとだった。
ただ生きるために生きていて、明日のことなんて何もわからなかった。
心も体も、いつも泥と埃にまみれていた。
そんな時だった。
雨上がりの路地裏は、ひんやりとした石と、湿った土の匂いがした。
わたしは、壁に背中を押し付けられて、ただ、震えていた。
目の前に立つ、大きな男の人たち。有名なゴロツキだった。
もう、だめだ。
そう思ったときだった。
「……ガキ相手に、みっともないね」
凛とした声が、響いた。
いつの間にか、そこに、ひとりの女の人が立っていた。
腰に長い剣を差した、綺麗な人だった。
あっという間に、男の人たちなんていなくなってしまった。
助かった。
そう思ったのに、わたしは、動けなかった。
わかってしまったから。
助けてくれたその人が、魔族だって。
全身の血が引いていくのがわかった。
怖い。
逃げなくちゃ。
でも、足が、石みたいに動かなかった。
その人は、黙ってわたしに近づくと、わたしの目の前で、しゃがんだ。
そして、硬そうなパンを半分に割って、黙って差し出した。
「……ほら」
差し出されたパンと、その人の顔を、わたしは交互に見た。
どうして?
その一言が、どうしても喉から出てこなかった。
その人は、わたしの擦りむいた膝小僧を見ると、ちいさくため息をついて、自分の水筒の水で、そっと傷口を洗ってくれた。
信じられないくらい、優しい手つきだった。
数日後、わたしは、こっそりその人の後をつけていた。
その人は、街の隅っこの、誰も寄り付かないような古い宿で、ひとり、息を殺すようにして暮らしていた。
わたしは、ありったけの勇気を振り絞って、その人に話しかけた。
「どうして、ここに……いるの?」
震える声で尋ねた。
魔族なのに、なんて言えなかったけど、きっと、伝わってしまったと思う。
その人は、一瞬だけ、すごく、すごく、寂しそうな顔で笑った。
「……逃げてきたんだよ。どこにも、いられなかったから」
――ああ。
わたしと、一緒だ。
そう、思った。
居場所が、どこにもないんだって。
そのとき、わたしの中で、何かが変わった。
『魔族』っていう言葉が、ただの怖い記号じゃなくなった。
あたたかいパンの味と、寂しそうな笑顔を持つ、ひとりの人に変わった。
わたしの世界が、ほんの少しだけ、色を取り戻した瞬間だった。
はっ、と我に返る。
いつの間にか、あの行商人の人の背中は、もう見えなくなっていた。
街は、相変わらず、優しい喧騒で満ちている。
世界は、敵だらけじゃない。
戦わなくてもいいなら、それが、きっと一番いい。
アリアがまた、ゆっくりと歩き出した――そのとき。
賑やかな大通りから一本だけ外れた、薄暗い路地裏から、声が聞こえた。
言い争うような、誰かの声。
助けを求める、小さな声が。
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