第8話 金色の才媛

 ユリウスとアリアの特訓は、ルーティンと呼ぶには過酷な段階に移行していた。

 アリアの呼吸は激しく、汗は止めどなく流れ落ちるが、その双眸に宿る光は、疲労の色を塗り潰すように意志の輝きを放っている。

 数日前までの、ただ必死に剣を振るうだけの少女の面影は薄れ、ユリウスの合理的かつ非情なまでの指導は、彼女の潜在能力を僅かながらも開花させつつあった。


 無論、そのような特異な訓練が、他の生徒たちの耳目を集めないはずもない。

 特に、この勇者育成学院という閉鎖された環境において、異質な因子は否が応でも観測対象となる。


「――そちらのお二方、何やら熱心なご様子ですわね」


 その声は、磨き抜かれた鈴の音色にも似て、同時に鋭利な棘を内包していた。

 声の主が、ユリウスの背後に姿を現した瞬間、周囲の空気が明らかに変わった。


 リゼット・フォン・アルベイン。

 四大貴族が筆頭、アルベイン公爵家の名を冠する少女。

 彼女という存在は、この学院のシステムにおいて、ある種の特異点として機能していた。

 

 陽光を反射し、溶融した純金さながらに流麗な光沢を放つブロンドヘアー。

 何より印象的なのは、怜悧な光を宿す一対の瞳。

 その視線は、万物を瞬時に解析し、価値判断を下し、序列化する。

 対象の精神構造に直接干渉するような威圧感を放っていた。


 一分の隙も見当たらぬオーダーメイドの制服。

 貴族令嬢としての矜持を体現するかのように、指先の一点に至るまで完璧な手入れが施された白い肌。

 それら全てが、彼女という個体が、不確定要素を一切許容しない、厳格な管理下で創り上げられたエリートであることを物語っていた。


「無気力な教師と無能な生徒。その二つが交わって、何か化学反応が起きるのかと思えば――ただの時間の浪費。この学院は随分と牧歌的な雰囲気に満ちているようですわね。反吐が出そうですわ」


 リゼットは、唇の端を微かに歪め、明確な侮蔑を込めた声音で言い放つ。

 その視線は、まずアリアを値踏みするように一瞥し、次いでユリウスへと向けられる。

 アリアの剣技は、数日前と比較すれば格段の進歩を見せているものの、リゼットの基準からすれば、依然として評価に値しないレベルだった。


 ユリウスが即座に反応する。

「この学院に、他者を無能と断定できるほど、能力が高い生徒がいるようには見えないが――過保護という温室で培養された貴族のお嬢様なら、自分の能力を高く見積もり過ぎることもあるだろう。牧歌的に見えるのなら、お前の周辺が平和だということだ。財力を誇るといい」


 その言葉は、平坦で感情の起伏を感じさせない。

 だが、端々に、リゼットのプライドを的確に穿つ棘が仕込まれている。


「なんですって……!」


 リゼットの眉が、瞬間的に吊り上がる。

 その反応速度は、彼女の高い身体能力と、感情制御の未熟さを示唆していた。


「わたくしの実力は、常に正当な評価に基づいておりますわ! それに比べ、そちらの無能――いえ、出来損ないにどれだけ手を尽くそうと、結果は自明の理でしょう? あなたのような方が、そのような非効率極まりない作業にリソースを割いていること自体、理解に苦しみますわ。それとも、落ちこぼれを慰めるのが、ご趣味でいらっしゃいますの?」


 その言葉が放たれた瞬間、それまで呼吸を整えることに集中していたアリアの肩が、かすかに震えた。


「……っ!」


 アリアは、自分の未熟さを指摘されることには慣れていた。

 だが、ユリウスの指導や、彼の存在を貶められることは、許せなかった。


「リゼットさんっ!」


 普段のアリアからは想像もつかないほど、鋭く、強い声が訓練場に響いた。


「先生は、この学院で一番、すごい先生です! 先生のことを何も知らないで、悪く言わないで!」


 そこまで言って、アリアは言葉を詰まらせた。

 リゼットの冷徹な視線が、真っ直ぐにアリアを射抜いていたからだ。

 しかし、アリアは怯まなかった。

 ユリウスのために。

 自分を見捨てなかった人のために。

 助けてくれた人のために。

 その一心だった。


「先生は……先生は、本当にわたしたち生徒のことを考えて……!」


 頬を紅潮させ、必死に言葉を紡ぐアリアの姿は、リゼットの目には滑稽に映ったかもしれない。

 だが、その瞳の奥に宿る、ユリウスへの絶対的な信頼と、それを汚させまいとする純粋な怒りは、リゼットの計算高い精神に、無視できないものとして干渉していた。


 リゼットは、数秒間、アリアを無言で見つめた後、ふいと視線をユリウスに戻した。

 その表情には、先程までのあからさまな侮蔑とは異なる、複雑な感情の揺らぎがあった。

 それは、驚きと、かすかな好奇心、そして――おそらく彼女自身も自覚していないであろう、一種の焦燥感。


「随分と高い評価を受けていらっしゃいますわね、ユリウス先生」


 リゼットの声には、先程とは質の違う、探るような響きが混じっていた。


「ですが、言葉だけで実力が伴わなければ、それはただの虚言に過ぎませんわ。……よろしいでしょう。そこまで豪語するのでしたら、その成果、近々開催される模擬試験で、わたくしが直々に評価して差し上げますわ」


 そう言い放つと、リゼットは、これ以上この場に用はないとでも言うように、優雅に、しかしどこか挑戦的なオーラを残して踵を返した。

 リゼットの気配が完全に遠ざかり、訓練場に再び二人だけの静寂が戻る。


 ユリウスはアリアに視線を向けた。


「ああいう人間が、お前を排斥していた連中の主犯格かと思っていたが――」


 ユリウスの声は、確認というよりは、自身の初期予測の修正を求めるような響きを含んでいた。

 彼にとって、リゼット・フォン・アルベインという存在は、その卓越した能力値とプライドの高さから、集団においてリーダーシップを発揮しやすい――あるいは、他者を見下し、排斥する行動の起点となりやすい個体であると分析されていた。


 アリアは、ユリウスの言葉に少し驚いたように瞬きし、それから慌てて首を横に振った。


「い、いえ! リゼットさんは違います! あの……確かに、すごく厳しいですし、言葉にも棘がありますけど……でも、それは誰に対しても同じなんです」


 アリアは、必死に言葉を探す。


「リゼットさんは、たぶん……すごく真面目で、一生懸命で、だからこそ、中途半端なことが許せないんだと思います。特定の人を狙って意地悪をしたり、陰で何かをしたりするような人じゃ、絶対ありません。わたしなんかが言うのもおこがましいですけど……リゼットさんは、みんなに厳しい分、自分にもっと厳しい人だと思います」


 その言葉は、アリアがリゼットという少女を、表面的な言動だけでなく、その本質に近い部分まで見抜こうとしていることを示していた。

 それは、彼女が持つ『他者の力の源流を見抜く』という特殊な知覚能力が、単なる戦闘面だけでなく、人間関係という複雑なフィールドにおいても無意識に作用している結果なのかもしれない。


「……なるほど」


 ユリウスは短く応じた。

 アリアの観測データは、彼の初期分析におけるバイアスを修正するに足る情報量を含んでいた。


「アリア。模擬試験、初戦の相手はおそらくあの女だ」


 リゼット・フォン・アルベイン。

 彼女が望んでいるのなら、学院としても対応するだろう。

 勇者の娘――というよりも、アリアに対する個人的な想いがあるのは明らかだった。


「初戦に向けて、お前にはいくつかの制約を課す」


 ユリウスは、無造作に人差し指を立てる。


「第一に、戦闘において、利き腕の使用を禁止する」


「え? き、利き腕を……ですか?」


 アリアは、信じられないというように目を見開いた。


「第二に、開始から50秒間は、一切の攻撃行動を禁じる。回避と防御に専念しろ」


「そ、そんな……それじゃあ、ただの的じゃないですか……!」

 アリアの顔に絶望の色が浮かぶ。


「第三に、50秒経過後、お前の判断で攻撃を仕掛けろ。ただし、攻撃が許容される時間は10秒間のみとする」


「10秒……」


 ただ反復するだけの反応。

 ユリウスの言葉に、アリアの理解が追い付いていない。


「最後に、その10秒が経過した時点で、状況を問わず、自発的に戦闘放棄を宣言しろ」


 アリアは、一瞬、きょとん、としてから、


「そ、そんなの、無茶苦茶です!」


「なぜだ」


「そんな短い時間じゃ練習になりません! せっかく、せっかくの模擬戦なのに!」


「模擬戦だからだ」


「……先生は、わたしが負けるって、思ってるからですか? 勝てるはずがないって。リゼットさんは強いから。でも、だけど、わたしだって、先生に教えてもらって、ぜったいに強く――」


「勝つ可能性はある」


 ユリウスは即答する。

 思ってもいないことをユリウスは言わない。

 そのことは、アリアも信じていた。だからこそ、理解できない。


「それなら、どうして……!」


 アリアの声は、悲痛な響きを帯びていた。

 彼女の抱く正義感と、勝利への渇望が、ユリウスの非人間的とも思える指示に真っ向から反発している。


「命令だ」


 ユリウスは、一切の感情を排した声で告げた。


「指示に従えないのなら、今後、俺がお前を指導することは、未来永劫あり得ない」


 アリアは、唇を強く噛みしめ、俯いた。

 その小さな肩が、悔しさと、納得のいかなさと、そして、ユリウスに見捨てられることへの恐怖で、かすかに震えている。


「ユリウス先生のことだって、あんな、ふうに、馬鹿に、されたのに……」


 いろんな感情が、彼女の内で激しく入り乱れていた。

 長い、息の詰まるような沈黙の後、アリアは、絞り出すような声で顔を上げた。

 その双眸には、未だ拭いきれない困惑の色と――それでもなお、この不合理な指示の先に何かがあると信じようとする、まるで最後の希望の光にすがるような、脆くもひたむきな決意が宿っていた。

 その光は、あまりにも頼りなく、今にも消え入りそうだったが、確かにそこにあった。


「……分かりました。先生の、言うとおりに、します」


 声は震えていた。


「先生を、信じます」


 その言葉は、アリアの覚悟が凝縮されていた。

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