第7話 英雄になるための覚悟
「先生は、どうして実技をやらないんですか?」
以前、ユリウスはそんなふうに質問されたことがある。
その問いへの回答は、たったひとことだった。
「無駄だからだ」
まず、『勇気』『仲間』『自己犠牲』といった旧世代の考えを排除すべき。
下手に実技を教えて、根拠のない自信で無謀な闘いに向かうのでは意味がない。
剣の振り方や、魔法の詠唱――それは、戦術レベルの話だ。
まず身に付けるべきは、戦略レベルの思考。
つまりは、『戦わない』という選択肢を、思考回路に、いかにして焼き付けるか。
勝てないと判断した敵の前から、いかにして迅速に、効率よく『逃げる』か。
そのためには、まず、思考そのものを根底から書き換える必要がある。
肉体を鍛え上げるのは、その先の話だ。
決して、お前らに教えるのは無駄だ――という趣旨ではないはずだった。
言い方が違えば、生徒の受け止め方も違っただろう。
ただ、その言葉は信頼を失うには充分過ぎ、印象は最悪だった。
結局のところ、ユリウスの教師一年目の成果は無に等しく――指導者としては、二年目に突入している。
二度目の新入生担当。新入生には、アリアも含まれている。
アリアとの訓練の終わりに、ユリウスは不意に切り出した。
「俺の授業は、やはり、不評か」
アリアは、汗を拭う手を止め、きょとんとした顔でユリウスを見上げた。
その瞳には、問いの意図を解析しようとする戸惑いの色が浮かんでいる。
数秒の思考の末に、はっきりと、だがどこか困ったような、それでも一生懸命に言葉を選んでいる、そんな微笑みを浮かべて言った。
「ええと……そうですね……正直に言うと、みんな、ちょっと、いえ、かなり戸惑ってると思います。あの、先生の言い方とか、内容とか……ちょっと、怖いみたいで……」
まるで、友達の秘密を打ち明けるみたいに、声を潜めて。
「だろうな」
ユリウスは、表情を変えずに頷いた。
予想通りの反応だ。
生存確率という数字、そして逃亡という現実より、勇気や仲間や逆転勝利といった耳障りの良い嘘が好まれることは分かっている。
「でも、わたしは……私は、先生の言ってること、全部が間違ってるとは思いません」
アリアは続けた。「むしろ、すごく、正しいことも言ってるんじゃないかなって……思うんです」
意外な返答だった。
ユリウスの理論は、彼女の持つ『勇者』という名の、おそらくは父親から受け継いだであろう、ひどく感情的で、非合理な固定観念とは、最も遠い位置にあるはずだった。
アリアを例外的に鍛えているのは――正直なところ、一年目の反省、という部分もあった。
「先生の言う通り、生き残らなきゃ、何も守れない。それは、きっと、本当に、正しいんだと思います。戦う前に、まず生き残る方法を考えるのは、すごく大事なことだって、思うようになりました。ただ……」
アリアは、言葉を選びながら、それでも、自分の心の奥底にある、消せない想いを、ゆっくりと紡ぎ出した。
「ただ、わたしは……やっぱり、諦めたくないんです。誰かを見捨てることも、誰かが犠牲になるのも、本当は、絶対に嫌なんです。みんな、助けたい。お父さんが、いつも、そうしようとしてたみたいに。……それが、すごく難しいことだって、分かってはいるんですけど……」
その言葉には、揺るぎない、青臭いとさえ言えるほどの純粋な信念が、まるで硬質な結晶のように宿っていた。
その結晶は、脆く、すぐに砕けてしまいそうでありながら、同時に、何よりも硬い芯を持っているようにも見えた。
――非合理だ。
だが、その非合理さこそが、彼女という存在の根源なのかもしれない。
「……それに」
アリアは、不意に、いたずらっぽく、それでいてかすかな憂いを帯びた表情を浮かべた。
「先生の話し方にも、ちょっと問題があると思います。その、なんというか……」
「何だ」
「だって、その……暗いんです。声のトーンとか、表情とか。あと、言葉が、ちょっと、難しすぎたり……。もう少し、こう……なんていうか、希望を持たせるような話し方とか! その、要するに、つまりは笑顔とか……ダメ、ですかね? あ、いえ、今のなしで! すみません、出過ぎたことを……!」
アリアは、おずおずとユリウスの顔色を窺う。
その提案は、合理性という観点から見れば、完全に無駄なものでしかない。
生徒のモチベーション管理という側面を考慮したとしても、あまりにも非効率的な発想だ。
だが、その真っ直ぐな指摘は、ユリウスの予測範囲外からの、不意の一撃だった。
「……それは、難しいな」
「で、ですよねー……。すみません、変なこと言って……」
アリアは、気まずそうに頬を掻いた。
その仕草は、まるで叱られた子犬のようだ。
だが、その瞳の奥には、かすかな安堵の色が浮かんでいる。
アリアの言葉を、少なくとも頭ごなしに否定しなかったからだろうか。
あるいは、ユリウスにも、ほんの少しだけ、そういう『普通の』感情があるのかもしれないと、期待したからだろうか。
訓練場に、しばしの沈黙が落ちる。
夕闇は、さらにその濃度を増していた。
風が、アリアの汗で濡れた髪を、優しく揺らしている。
その小さな肩が、微かに震えているように見えたのは、疲労のせいだけではないのかもしれない。
やがて、アリアは、ぽつり、と呟いた。
それは、まるで独り言のような。
夕闇に溶けてしまいそうな、か細い声だった。
「でも、先生の言うこと、分かるんです。本当に、どうしようもなくなったら……」
ひどく、か細く。無理やり喉の奥から絞り出すような、悲痛な響き。
どこか、未来に起こり得る絶望に怯えているようだった。
「誰かを犠牲にしないと、みんなが死んじゃう。そんな時が、もしかしたら……本当に、来るのかもしれなくて」
認めたくない真実を、無理やり喉の奥から絞り出すように。
その言葉は、彼女の唇からこぼれ落ちると同時に、重い鎖となって彼女自身に絡みつくかのようだった。
「そういう覚悟は、きっと、いつか……勇者になるなら、必要になるんだろうなって……」
幼い少女が背負うには、あまりにも重すぎる葛藤。
その純粋さが、優しさが、矛盾という名の刃となって、彼女自身を追い詰めている。
ただ、その葛藤は、アリア自身が乗り越えるべき壁だ。安易な言葉で介入すべき領域ではない。
ユリウスは、何も言わなかった。
アリアの視線は、床の一点に縫い付けられたままだった。
その横顔に、夕闇が深い影を落としていた。
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