第6話 過去の傷跡、未来への渇望
アリアにとって、聞こえよがしな囁き声は、日常茶飯事だった。
「……あんなのが、本当に勇者の娘なのかしらね」
「父親も、結局は魔王にあっさり負けたんだろう?」
「ユリウス先生も、どうしてあんな出来損ないに肩入れするのか、理解不能だわ」
その言葉のナイフは、アリアの耳を通り抜け、心臓に直接突き刺さる。
けれど、彼女は決してその場で泣き崩れたりはしなかった。
唇を強く噛み締め、拳を握りしめ、まるで何も聞こえなかったかのように、背筋を伸ばして前を向く。
それが、彼女にできる、唯一の抵抗だった。
あのころに比べれば、どうってことない。
アリアはそう考えている。
父が死んだ。
魔王に、負けた。
その報せは、まるで冬の隙間風みたいに、何の情緒もなく街に吹き込んだ。
最初の数日は、同情だった。
誰もが、アリアのことを、壊れ物みたいに優しく扱っていた。
英雄の忘れ形見。
悲劇のヒロイン。
そういう、安っぽいラベルを貼り付けて、自分の感傷に浸るための、便利な道具。
だが、季節が変わるより早く、空気は変質した。
同情は憐憫に、憐憫は好奇に、そして好奇は、剥き出しの悪意へと。
『魔王に敗れた、勇者の娘』
その言葉は、まるで呪いの刻印みたいに、アリアの額に焼き付けられた。
石を投げられたこともある。
家の扉に、罵詈雑言を刻まれたこともある。
涙は、出なかった。
悲しいという感情の回路が、焼き切れてしまったみたいだった。
泣いている暇なんて、なかった。
たったひとりで生きなければ、ならなかった――あのころに比べれば。
放課後、アリアはいつもの場所へ向かう。
先生には、悪いことをしたと思っている。
魔族だなんて言うつもりはない。
あのときは、ただ必死だった。
本当に、それだけだった。
手を差し伸べてくれたことが、どれだけ嬉しかったか――きっと、ユリウス先生は知らないだろう。
特訓を始めると言われたとき、胸の高鳴りがおさまらなかったことも。
先生の背中を、見えなくなるまで、ずっと見つめていたことも。
ユリウスの指導は、徹底的に合理的だった。
感情論は一切排除し、物理法則と人体工学に基づいた、最短距離での戦闘技術を彼女の身体に叩き込んでいく。
無駄な動き、無駄な思考、無駄な感情。
それら全てを削ぎ落とし、純粋な戦闘機械へと作り変えるかのように。
アリアは、ユリウスの予想を上回る速度で、それを吸収していった。
まるで、乾いたスポンジが水を吸うように。
あるいは、長い間、雨を待ち望んでいた大地が、最初の恵みを貪るように。
日々、彼女の動きから無駄な贅肉が削ぎ落とされ、洗練されていくのが分かった。
その変化は、目に見えて明らかだった。
夕闇が訓練場の隅々まで染み渡り、風が止み、世界の音が遠ざかっていくような、そんな静寂。
アリアは、地面に座り込み、肩で息をしながらも、その瞳の奥の光だけは、少しも揺らいでいない。
むしろ、やり遂げたという達成感と、明日への期待で、より一層輝いているようにさえ見えた。
「――持久力は悪くない」
その言葉に、アリアは目を輝かせる。
ユリウスは、「今までの努力が分かる。すべては繰り返しで積み重ねだ。誇っていい」と続ける。
アリアは、更なるご褒美として、ユリウスからの評価を期待していたところだったが――
「だがそれだけだ。他はまるで駄目だ」
まあそうだろうな、とアリアは思うが、それでもがっかりしてしまう。
いつものことだったが、それでも。
「良い指導者を雇っていれば、まるで違ったはずだ。父親が勇者なら、いくらか資産はあったはずだろう?」
その、あまりに配慮のない、だが純粋な疑問に、アリアはきょとん、と目を瞬かせた。
そして、次の瞬間――
「……遺産、ですか? そんなの、ひと欠片も残ってません」
アリアは小さく笑って答える。
その答えに、ユリウスは納得いかないようで、
「勇者という職業の報酬は、決して低くないはずだが」
「ええ、まあ、そう、だと思いますけど……」
アリアは汗を拭いながら、どこか遠い目をした。
その表情は、悲しいというよりは、ひどく困ったような、でも、どうしようもなく愛しい誰かのことを思い出す顔だった。
夕陽が彼女の横顔を照らし、その輪郭を柔らかく縁取っていた。
「うちのお父さん、すっごく、お人よしだったんです」
その声は、まるで秘密の宝物の在り処を教えるみたいに、弾んでいた。
そして、どこか誇らしげだった。
「困ってる人がいたら、絶対に放っておけない人で。魔物がでたって聞けば、自分の村じゃなくてもすっ飛んでくし、隣の村の畑仕事が終わらないって聞けば、剣を農具に持ち替えて手伝っちゃう。雨漏りがするって聞けば屋根に登っちゃうし、迷子の子猫がいれば、何時間でも探しちゃう。そんな人でした」
だから、たくさんの人が父を慕ってくれた。
それは、アリアの記憶の中で、今もまだ色褪せない、あたたかい風景だった。
まるで、陽だまりの中にいるような、そんな日々だった。
「でも、その……お金の管理とか、そういうのは、からっきしで。誰かが『これは未来の子供たちのためになる投資ですよ』とか『困っている人を助ける崇高な事業です』とか、ちょっとでももっともらしいこと言うと、すぐに信じちゃうんです」
アリアは、少しだけ照れたように、そして、本当に困った、というように笑った。
「家にいた執事さんとかメイドさんに、『皆さんのために使いましょう』とか『これは未来への素晴らしい投資です。勇者様のお名前でぜひ』とか、うまいこと言いくるめられて、気付いたら、ぽんぽん寄付しちゃってたみたいで。父が死んだ後、家も財産も、ぜーんぶ差し押さえられちゃいました。もう、本当に、空っぽ」
「……不合理の極みだな」
ユリウスは、ほとんど反射的に呟いた。
そんな人間が、どうして勇者などという重責を担えたのか。
いや、だからこそ、だったのかもしれないが。
「もう、本当にどうしようもないんです。でも、なんというか……お父さんらしいなあって、ちょっと思っちゃいました」
その言葉には、非難の色など微塵もなかった。
ただ、どうしようもない父親への、深い愛情と、ほんの少しの諦観。
そして、それでも変わらない敬愛がにじんでいた。
アリアは立ち上がり、パンパンと服の土を払った。
その瞳は、夕陽を映して、きらきらと輝いていた。
「おまけに、信じられます? 何もかもなくなった後で、お父さんの、ギャンブルの借金まで見つかったんですよ! しかも、結構な額!」
「……なんだと?」
ギャンブルの借金。
それは、ユリウスの持つ『勇者』という概念の、最も遠い位置にある単語だった。
「本当馬鹿ですよね! 大馬鹿ですよ大馬鹿! ばかー!」
アリアは、お腹の底から笑っていた。
その笑顔は、まるで夏の太陽みたいに、一点の曇りもなかった。
悲壮感なんて、どこにもない。
そこにあるのは、どうしようもない父親への、呆れたような、だけど、どうしようもなく深い愛情だけだった。
その笑顔は、見ているこちらまで、つられてしまいそうなほど、明るく、そして、どこか儚かった。
「だから、自分で稼ぐしかなかったんです。ギルドの門を叩いて、『働かせてください! なんでもしますから!』って。最初は子供だって全然相手にされなかったけど、毎日毎日、しつこく食い下がって。ネズミの駆除くらいならって、ようやく仕事を貰えるようになって」
アリアは、腰に差した、使い古された短剣を、カチンと鳴らした。
それは、彼女の数少ない財産の一つなのだろう。
「おかげで、今じゃネズミの急所は一突きです! 闇の中でも、気配だけでどこにいるか、だいたい分かるんです」
小さな胸を張るその姿は、たくましく、生命力に満ち溢れていた。
だが、そのたくましさは、彼女が経験してきたであろう困難の裏返しでもあった。
ユリウスは、しばらくの間、何も言わなかった。
ただ、目の前で笑っている、この非合理なエネルギーの塊を、観測していた。
父親の遺産を食い潰され、そのお人好しが原因で全てを失い、挙句の果てには借金まで背負わされ、それでも、その父親を笑って許し、自らの力で泥水を啜って生き延びてきた少女。
あまりに歪で、あまりに力強い生き方を、彼の持つ論理では、まだ完全には理解できなかった。
ただ、そこには、計算ではじき出せない、何かがある。
それだけは、理解できた。
「……お前は」
ユリウスは、ぽつりと言った。
その声は、いつもより、ほんの少しだけ、柔らかかったかもしれない。
「父親に、よく似ているのかもしれないな」
「……え?」
アリアは、大きな瞳をぱちくりさせた。
「……不合理なところが、だ」
それは、ユリウスなりの、最大限の評価だったのかもしれない。
あるいは、彼自身にもよくわからない、感情の欠片だったのかもしれない。
アリアは、その言葉の意味を正確には理解できなかったけれど――なんだか、すごく褒められたような気がした。
父親に似ている、と言われることは、彼女にとって、何よりも嬉しい言葉だった。
アリアは、訓練用の剣を握り直した。
その手は、まだ小さく、豆だらけだった。
「さあ、先生! もう一本、お願いします!」
その瞳には、さっきまでの疲労の色なんて、どこにもなかった。
ただ、明日を掴むための、強くて、明るい光だけが、真っ直ぐに輝いていた。
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