第5話 烙印と特訓の序章


 勇者の娘――アリアが、他の生徒たちから、あからさまな排斥行為を受けている。

 ユリウスが他の教師からそんな話を聞いたのは、ひととおり授業の終わった、ある日の夕刻だった。

 日常生活に影響があるほどではないが、保護者として注視して欲しい。そんな話だった。


 アリアが排斥される理由。

 魔法が使えない。学力は平均以下。

 頼りの身体能力も――この学院においては平凡、といったところだ。

 そんな人間が、明らかに『勇者の娘』という理由で入学を許された、明確な不正への不平と不満。

 入学の経緯を考えれば、ユリウス自身にも反省すべき点はあったが――実際のところ、最大の理由は、アリアが『勇者の娘』であること。ただその一言に尽きる。


『勇者の娘』


 その肩書きは、かつては羨望と期待の象徴だったのかもしれない。

 だが、今は違う。


『魔王に敗れた、勇者の娘』


 それは、今の彼女に貼り付けられた、剥がしようのない烙印だった。

 その一点が、最もクリティカルな排斥理由として機能している。

 お粗末な自尊心と集団心理が複雑に絡み合った、実に人間的な、そして不合理な現象だった。


 滑稽だ、とユリウスは思う。

 かつて、彼女の父親は人類の希望であり、救世主であり、崇拝の対象だったはずだ。

 その男が、たった一度敗北したというだけで、価値判断のベクトルが反転する。

 群衆心理というやつは、かくも単純で、かくも残酷なアルゴリズムで駆動しているらしい。


 他の教師は、自ら解決に向かうことはなさそうだった。

 面倒なことに関わりたくない。入学させたのはお前だろう。

 お前の問題はお前が解決しろ。甘えるな。切り捨てるなら切り捨てろ。

 

 思わず、ユリウスから乾いた笑いが漏れる。

 その思考プロセスはどこか、ユリウスの知る魔族に似ていた。



 放課後。

 ユリウスは中庭で一人、剣の素振りをしているアリアを見つける。

 夕陽に照らされた彼女の影は、ひどく細く、頼りなげで、まるで世界から切り離された孤島のようだった。

 振り下ろされる剣は、ただひたすらに、空気という名の抵抗体を切り裂き続ける。

 頬のあたりにかすかな擦過傷すりきず。この素振りでついたものだ――ということでもないのだろう。

 内部抗争や権力闘争ならともかく、幼稚な癇癪をぶつけられることは許容できない。


「まだ続ける気か」


 ユリウスは、物音ひとつ立てずに、気配を感じるさせることなく接近したはずだったが――アリアは、まるで背中にでも目がついているかのように、びくりと肩を震わせ、反射的に剣を構え直した。

 その初動の速さだけは、評価に値する。

 その瞳には、一瞬、怯えにも似た色が浮かんだが、すぐにいつもの、少しばかり頼りないが、ひたむきな光に戻った。


「ユリウス先生……」


 疲労のせいか、アリアの呼吸は乱れているが、ユリウスは気にすることなく続ける。


「お前の父親は、英雄だったはずだ。だが、その英雄の娘が、今は臆病者の代名詞として扱われている。不合理だとは思わないか?」


 アリアは、唇をきゅっと噛みしめた。

 その仕草は、まるで子供の意地みたいで、どこか痛々しい。


「……だから、勝つんです」


 絞り出すような声だった。「模擬戦で、勝って、証明します」


 なるほど、とユリウスは理解する。

 嫉妬や不満を攻撃性で発露するくだらない連中は、結局のところ、実力で黙らせるしかない。

 それでも駄目なら――まあ、やりようはいくらでもある。教師として許容されるだろう。


 模擬戦とは、この学院において、月に一度、定期的に開催される、実戦形式の試験のことだ。

 そのルールは、極めてシンプルかつ原始的。

 指定されたフィールド内で、一対一の戦闘を行う。

 相手を場外に叩き出すか、あるいは「まいった」という降伏の意思表示を引き出せば勝利。

 戦闘が膠着したり、一方的すぎる展開になった場合、教師の判断によって試合が中断されることもある。

 生命の安全確保は最優先事項として組み込まれているが、万が一、大怪我を負ったとしても、生命維持機能さえ活動状態にあれば、学院に常駐する治癒魔法の専門家によって、欠損した四肢すらも修復は可能だ。

 ある意味、失敗を許容する、効率的な試行錯誤トライアンドエラーのシステムと言えなくもない。

 もっとも、本物の戦場ではただのエラーでは済まないが――そのことを、ここの生徒たちの何人が真に理解しているかは、疑問が残るところだ。


「勝って、証明します。お父さんは、弱かったんじゃない。勇者は、やっぱり強かったんだって」


 その言葉は、彼女の根幹に深く刻み込まれているようだった。


「……お前は、人を守りたいんじゃなかったのか?」


 ユリウスは、確認するように尋ねた。

 その目的と、今の彼女の行動原理は、果たして一致しているのか。


「え……?」


 なぜ、そんなことを今さら尋ねるのか。

 アリアの顔には、そう書いてあった。

 彼女の思考回路の中で、それはあまりにも自明の前提で、疑う余地など存在しないのかもしれない。

 ただ。

 目先の勝利と、みんなを守ることは、必ずしも両立しない。

 敗北することで、逃げることで、誰かを守れることもある。


 ユリウスは、上着を脱ぐと、それを雑に放り投げて、


「試してやる。好きに攻撃してこい」


 感情の乗らない無機質な声で、そう告げた。


 アリアは、一瞬ためらったが、すぐに意を決したように、鋭い呼気と共に踏み込む。

 振り下ろされる剣。

 それは、彼女の持つ全力を投入した一撃のはずだった。


 だが――空を切る。

 ユリウスの身体は、まるで蜃気楼のように、そこに存在しながら届かない。

 連続攻撃。

 突き、払い、斬り上げ。

 その全てが、ユリウスの最小限の動作によって、いとも容易く回避され、あるいは受け流されていく。

 アリアの額から、再び汗が噴き出す。呼吸が、さらに荒くなる。


「――回復効率が悪い。呼吸に無駄が多い。体幹の制御もできていない」


 ユリウスが、温度のない声で告げる。

 その強さに触れたのは、アリアはこれが初めてだった。


「思考に体が追い付いていない。イメージしろ。繰り返せ。安易な逆転の一撃など戦場にはない」


 教師と生徒。

 大人と子供。

 それ以上の埋めようの無い戦力差。

 それでもせめて一度だけ――、とアリアが足を踏み込む、その刹那。


「ここまでだな」


 ユリウスがアリアの足を薙ぎ払う。

 勝算のない無謀な突撃に対する戒めの一閃。

 

 その圧倒的な速度にアリアの感覚が追いつかない。

 無重力。自身の落下に気付くより早く、頬がずきりと痛む。気付けば地面がすぐ目の前にあった。

 攻撃は足だけだったのか。

 追い打ちがあったのか無かったのか。

 それすらアリアには理解できない。


 ユリウスの瞳は、アリアという存在を読み解こうとするかのように、じっと向けられている。


 ユリウスはこの少女に、ある種の可能性を見出し始めていた。

 魔法の才能は、絶望的なまでにない。おそらく、魔力回路そのものが、極めて脆弱なのだろう。

 だが、身体能力――特に、反射速度と動体視力は、並の生徒のそれを凌駕している。

 神経伝達の反応が、異常に速い。

 それは、訓練で培われたというよりは、天性のものに近い。

 そして何より、あの『他者の力の源流を見抜く能力』。

 それは、敵の能力をリアルタイムで読み取る、高性能な索敵センサーに等しい。

 適切な戦闘理論さえあれば、これは強力な武器になる。


 ふと、ユリウスの脳裏を、五年前の光景が掠めた。

 

 ひしゃげた鎧。途切れ途切れの呼吸。

 アリアの父親、勇者と呼ばれた男の、最後の姿。

 あの男は、強かった。

 絶望的な戦力差を前にしても、ただの一度も、退くという選択をすることなく――

 その不合理なまでの勇気と自己犠牲の精神が、結果としてどれほどの無駄な血を流させたことか。

 人間どもに、教え込まねばならないのだ。

 戦うべきではない、ということを。

 無駄な抵抗は、さらなる犠牲を生むだけだと。

 生き残ることこそが、最も優先されるべき戦術目標なのだと。


 この少女に、父親とは真逆の戦い方を叩き込む。

 徹底的に効率化され、生存確率を最大化するための戦闘。

 せめて、そうすることで、あの勇者に――


 ユリウスは、思考のノイズを振り払った。

 感傷など、合理的な判断を鈍らせるバグでしかない。

 アリア・クレシオンは、使える駒だ。それ以上でも、それ以下でもない。

 彼女を育成し、戦場で生き残る術を教え込む。

 それは、冷徹な計算に基づいた結論のはずだった。

 だが、その結論に至るプロセスの中に、ほんのわずか、予定調和を乱すような、奇妙な熱量が混じっていたことに、ユリウス自身はまだ気づいていない。

 あるいは、気づかないふりをしているだけなのかもしれない。


 あの勇者が、守ろうとしたもの。

 その娘が、何かを掴もうと必死にもがいている。


「――特訓を、開始する」


 その声は、いつものように感情の温度を欠いていた。

 だが、その言葉の背後に潜む複雑な要因は、アリアにはもちろん、ユリウス自身にさえ、まだ完全には解析できていなかった。

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