第4話 五分五分の幻想と現実
「――何か質問は」
講義の終わりに、形式的にそう問いかけると、教室を満たすのはいつもの、淀んだ沈黙だけのはずだった。
だがその日、そのルーティンは、予期せぬ割り込みによって破られた。
「……先生」
おずおずと、という形容詞が最も似合う、か細い声。
挙手したのは、実技ではそこそこの成績を収めているが、座学になると途端に思考のノイズが混じる、平均的な男子生徒。
「勝つ確率が、五分五分だった場合は……戦っても、いいですよね?」
その問いは、教室の凍りついた空気に、小さな、だが無視できない波紋を広げた。
他の生徒たちの視線が、微かな好奇の色を灯して、その発言者とユリウスの間を交錯する。
五分五分。彼らにとっては、それは勇気という名の非合理なリソースを投入すべき、ギリギリのラインなのだろう。
華々しい英雄譚に汚染された思考回路の精一杯の抵抗――それがユリウスの解釈だった。
――悪くない問いだ。
ユリウスは、その問いに一定の評価を与えた。
戦術的判断における、最もクリティカルな分岐点の一つ。
状況認識の精度と、許容リスクの閾値を問うている。
少なくとも、思考停止している他の連中はよっぽどマシだ――とユリウスは考えている。
無感情な視線で、ユリウスは教室全体を一度眺める。
期待の色。
そうだ、こいつらは期待しているのだ。
その時こそ、死力を尽くして闘えという、陳腐な英雄ごっこの台詞が飛び出すことを。
ユリウスが教師となることを許された、選抜試験、トーナメント。
教室の中には、それを噂として知っているものもあれば、現実にその目で見たものもいる。
圧倒的な実力差は、生徒たちの憧憬の対象となるのに充分すぎた。
――彼の、ユリウスの座学が開始されるまでは。
「五分五分、か」
ユリウスは、静かに口を開いた。
「その確率を算出した根拠は何か。敵戦力、地形、天候、己と味方の練度、補給状況、精神状態――それら全てを完璧に把握し、なおかつ、その上で未来予測の誤差がゼロであると仮定した場合の、五分五分か?」
生徒の顔に、困惑の色が浮かぶ。
また面倒なことを言い出した。
そんな表情の者もいるが――ユリウスは気にすることなく続ける。
「戦場において、真の意味での五分五分という状況は、限りなくゼロに近い。それは、情報不足による誤認か、あるいは、そうであってほしいという希望的観測が生み出した幻想だ。もし、仮に、万が一、そのような奇跡的な均衡状態が存在したとして――」
ユリウスは、一度言葉を切った。
教室の空気が、ピンと張り詰める。
もう何度目かの、失望の予感。
「――その五分を、六分、七分に引き上げるための工作を試みることなく、無策で戦闘に突入するのは、ただの自殺行為だ。それでもなお、五分五分という不確定要素に命運を賭けるというのなら、それは個人の自由だ。ただし、その結果、部隊が壊滅し、より多くの犠牲者を生み出したとしても、その責任は全て、その愚かな判断を下した指揮官にある。仲間を道連れにする権利など、誰にもない」
しん、と教室は静まり返った。
微かな期待を宿していた瞳から、急速に光が失われていく。
代わりに浮かび上がるのは、深い失望と反感。
安っぽい解答を提示するのは簡単だが、それは不合理で、非現実的な幻想だ。
ユリウスの目的は、あくまで魔王――彼の父親――との全面衝突における、双方の被害を最小限に抑えることにある。
そのためには、人間側に「無駄な抵抗は死を招くだけだ」という、極めてシンプルな真理を理解させる必要があった。
だというのに、こいつらは。
まるで、自ら燃え盛る炎に飛び込む豚の群れだ――とユリウスは考えている。
ただ。
生徒たちは若く、思考も柔軟だった。
賢明な判断ができない幼さは、もうそこにはないはずだった。
だからこそ彼の、ユリウスの仕草や口調や表情、そもそも教え方自体に大きな問題がある――ことには、まだ、ユリウスは気づいていなかった。
そして、もうひとつ。
単純な強者が教育者としても優秀なのか。本人の戦闘能力と、人材育成能力は比例するのか。人間の国において、それは歴史が証明していた。
比例しない。無関係。まったく何も影響なし。
わかったうえで、それでも4大陸すべてが合意のうえで、強者に教鞭を執らせることを選択したのが――この勇者育成学院だった。
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