第二章 子どもは“故障”しない

 ひかりが泣き始めたのは、午前3時だった。

 なだめても、抱いても、ミルクをあげても泣き止まない。熱はない。お腹は出ていない。オムツも替えた。

 篠原悠真は、薄暗い寝室で、娘を抱えながらそっとため息をついた。


 「なあ、ひかり。どうして泣いてるのか、教えてくれよ」

 小さく囁くと、ひかりはぐずぐずと声を震わせながら、わけもわからぬ叫びを続けた。


 技術者としての悠真は、「変化には必ず原因がある」と信じて仕事をしてきた。

 ラインが止まるときは、何かが異常なのだ。圧力センサ、コンベア速度、部品のはまり…どこかに必ず“異常値”がある。

 それを見つけて、直して、再起動する。それが彼の誇りだった。


 だが今、この腕の中にある“異常”には、何ひとつパラメータが見えない。

 どこも壊れていない。数値は測れない。だのに泣いている。


 「故障じゃないんだよな。……仕様、か」

 思わず苦笑がこぼれる。朋子の口癖だ。「ひかりはひかりの仕様で動いてるの。ロボットじゃないんだから」


 その瞬間、寝室のドアがそっと開いた。

 朋子が、髪を結んだまま顔を出した。

 「交代する?」

 「いや、大丈夫。もう少し抱いてみるよ」

 「ありがとう。無理しないで」


 ドアがまた静かに閉じられた。

 悠真はリビングへ移動し、薄暗い照明の下でソファに座った。

 胸の中で泣き続けるひかりを、ただ、ゆっくりと揺らす。


 こうして泣き止まない夜は、もう何度目だろう。

 けれど、不思議と腹は立たなかった。ただ、戸惑っているだけだった。


 娘の体温を、ほのかな汗のにおいを、泣き声の響きを受け止めながら、悠真はふと思った。

 この小さな命に、マニュアルなんてあるわけがない。

 それでも、ひかりは“壊れている”わけではない。どこも故障していない。

 ただ、「わかってほしい」と泣いているのだ。


 そう気づいたとき、ひかりがふっと息を抜くように泣き止んだ。

 まるで、悠真の気持ちが少し届いたかのように。


 小さな体を抱いたまま、彼はそのまま眠りに落ちた。

 次に目が覚めたとき、朝日がレースのカーテン越しに差し込んでいた。

 そして腕の中で、ひかりが静かに笑っていた。

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