この手で育てる
@haruuruu
第一章 ネジを捨てた手
寝室のドアをそっと閉めると、ドスン、と足元に小さな何かがぶつかった。
「おとうちゃん、どこいくの?」
娘のことねが、寝起きの髪をボサボサにさせたまま、うすい目をこすりながら立っていた。
「ちょっとね、ゴミ出し。すぐ戻るよ」
篠原悠真は片手にスーパーの袋、もう片手でことねの頭をなでた。
新築してまだ一年の家。明るいダイニングには、保育園から持ち帰った工作と、おもちゃと、哺乳瓶の部品が散らばっている。
テーブルの端には、開きかけたままのメール。職場の後輩からの一文だ。
──「例の治具、再検討になりました。復帰後でいいので一度相談させてください」
悠真はメールを閉じ、スマホを伏せた。
復帰後でいい。
それは優しさか、ただの形式的な言葉か。たぶん、どっちでもない。ただ“仕事が進んでいる”という事実だけ。
キッチンに立つと、朋子がカップを両手で包みながらこちらを見ていた。
「ことね、また夜中に泣いてたでしょ。大丈夫だった?」
「まあね。ひかりも一回起きたけど、すぐ寝た」
「ありがとう。今日、薬局9時からだから、先に出るね」
「うん、気をつけて」
育休が始まって、まだ半月。
最初は「夢のような時間」だと思っていた。
会社に行かず、娘と過ごす。寝顔を見て、朝ごはんをゆっくり食べて、公園に連れていって。
だけど、現実は違った。洗濯機は一日に三回回る。片づけても片づけても、おもちゃは床に戻ってくる。
ひかりのオムツ交換だけで一日が終わることすらある。
そして、夜。ふと気がつくと、自分の手が“なににも触れていない”ことに気づく。
治具でも、CADでも、ロボットのティーチング画面でもない。
この手が最後にトルクレンチを握ったのは、いつだっただろう。
「おとうちゃん、あそぼ!」
ことねが、自作のブロックカーを引きずってやってきた。
車輪の向きが逆で、まっすぐ走らない。
「これ、まがってるの。おとうちゃん、なおして?」
「うん、まかせて」
悠真は床にしゃがみ、ブロックの裏側をそっと見た。
車輪の軸が斜めに入っているのを直し、テーブルの端を使って水平をとる。
子ども用のおもちゃでも、調整の指先は自然と“現場の癖”を思い出す。
「できたよ、ほら」
「わーい!」
ことねが声をあげて走り回る。その小さな背中を見ながら、悠真は思った。
自分の手は、いま何を作っているのだろう。
この手が何かを“作る”感覚を忘れてしまわないうちに、何かに向き合いたい気がしていた。
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