企画参加短編:『月の光はレモンの香り』
江口たくや【新三国志連載中】
月の光はレモンの香り
金曜日の午後七時半。
今日は仕事が早く終わった。
早く終わらせた。
明日が休みだから、という理由は半分合っていて、一番の理由は前々から約束をしていたからだ。待ち合わせの場所には、この前出たばかりのフラペチーノを片手にした愛しい相手がちょこんとベンチに座っていた。
「ごめん、待たせた。行こうか」
家に呼ぶのは、何度目だろうか。
程よい緊張感は時間を忘れさせる。あっという間に家に着いた。エレベーター。フロア数が増えていく。最上階。ドアが開けば、そのまま真っ直ぐだ。
部屋に入った。鞄を下ろし、コートを掛ける。
おもむろに後ろから抱きしめると、ふんわりと香るレモンの酸味。
「いい香り。今日は、何かつけてるの?」
僕は知っている。君がその香水をつける時は、僕を誘っている合図だ。爽やかな柑橘系の、黄色を感じさせる匂いだ。
「今日も一日、よく頑張りました」
頭を撫でた。社内恋愛なんてものはこのご時世、コンプライアンスに自ら引っ掛かりに行くようなものだと誰もがわかっているのだろうが、気づいた時にはこうなっていた。
尤も、昨今のセクシュアル・ハラスメントで問題になっているのは、相手のことを置いてきぼりにした老害たちの悲しいまでの不器用や、自分本位な感情の暴発が起因になっているのは明々白々だ。
その証拠に、自慢じゃないが僕は好かれこそすれ、嫌われたり恨まれるようなことは一切無い。そういうミスを犯すのは、自分自身のマーケティングコンセプトのポジショニングを理解していない無能な偽物のビジネスパーソンだけだ。ニーズというものは、何もエンドユーザーだけを相手どって捉えるものじゃない。社内においても、それは同じだ。
ぐっと腕を引き寄せると、とろん、と蕩けそうな目をしながら見つめてきた。
「そんな顔してもわからないよ」
恥ずかしそうにしながら上目遣いになった後、荒い呼吸で肩を上下させながらネクタイとボタンを外してくる。そんなに焦らなくてもどこにもいかないのに。
都会の真ん中にありながら、都会の喧騒も決して届かない高層マンションの最上階での情交に、誰かの邪魔が入ることなんて無い。摩天楼の頂にあるその空間は、四六時中カーテンも閉めていない。空に囲まれたガラス張りの巨大な檻のようでもある。
「可愛い」
指をゆっくりと柔らかな髪に差し込んでいく。抱きしめると、互いの肌が触れ合った。その体に掌を滑らせ、肌の感触を確かめるように指を遊ばせる。こそばゆいような刺激のせいか、びくん、と一瞬肩を震わせた。
「嫌だ? ……嫌なら、やめるけど?」
懇願するような顔で首を横に振ってきた。
「本当に?」
返事の代わりに、唇を唇で塞がれる。舌先で唇を小刻みにあやされ、こじ開けるように歯列をなぞられながら、背中をベッドに預けた。少しだけ、フラペチーノのチョコレートの味がする。深くなる口づけに、小さく喘いだ声が耳を撫でた。
「どうした? 今日はやけにがっつくじゃないか。まさか仕事中も、僕のことを考えていたんじゃないだろうな?」
月明かりが照らし出した表情は、常日頃美人と呼ばれる端正な顔立ちをほどよく歪めていた。まいったな。狼男の気持ちがなんとなくわかるような気がしてきた。
僕の体温は低い。
指先が身体に触れるたび、びくびくと小さく跳ねるのがつい楽しくなって、いじわるな愛撫を続ける。
「いいかい? 無理はしないこと。約束して」
抵抗する素振りすら見せない肌に、唇を落としていく。吸い上げて、吸い上げて、吸い上げて、腹から、首筋、胸元。至る所に痕跡を残していく。どくん、どくん、どくん、と大きな鼓動が聞こえてきて、思わず笑ってしまった。
「心臓、なんだかこのまま飛び出てきそうだな」
君の香りは汗のそれと混じって、より一層淫靡な刺激になる。雲が途切れると、体中に愛おしんだ刻印が並んだ白い四肢が照らされる。
「綺麗だ」
月の光はレモンの香りを際立たせる。
月光に映し出された影が、一つになった。
企画参加短編:『月の光はレモンの香り』 江口たくや【新三国志連載中】 @takuya_eguchi1219
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