第4話

 皓が役場の仕事を終えて夕暮れの町を歩いていると、『食事処 ほのほの亭』から漂ってくる香ばしいご飯の匂いに、自然と足が引き寄せられた。店の前で立ち止まっていると、中から聞こえた覚えのある笑い声に心が和む。


「おお、皓くん! 仕事終わりかね」


 扉を開けると、皓の目に農家の綴喜さんと、初日に食事をした男性が座っているのが映る。カウンター席でちょうど料理を待っているようだ。


「以前お会いしましたよね、僕が御膳をいただいている時に」


 皓が声をかけると、男性は思い出したように目を細めて微笑んだ。


「ああ、朝霧茸の御膳を食べていた。そうか、君が皓くんだったか。綴喜さんとは付き合いがあってね。ひと月に一度、ここに集まるんだ。改めて、篠目しのめという。外で商売をしているよ」

「篠目さん、改めてよろしくお願いします」


 皓は手を差し出し、篠目と固い握手を交わした。握手の力強さに、どこか頼もしい温かさを感じる。


「固い、固いよ。皓くん、ここでは一度会ったことがあるならもう家族みたいなもんだよ」


 と綴喜が横から冗談めかして言い、篠目も自然と笑顔を返す。皓はその言葉にほっとしたような笑みを浮かべ、ゆっくりとカウンター席へ歩み寄った。暖かな灯りが揺れる店内は、夕暮れ時の町の穏やかな雰囲気をそのまま映したような、落ち着いた空気に包まれていた。


「皓くん、座りなさいな。ちょうど、君のことも話していたところなんだよ」


 と綴喜が笑いながら促してくれる。皓が腰を下ろすと、店主が「今日の逸品だよ」と優しく声をかけてくれた。温かい湯気を立てる湯呑みとともに、香ばしい料理の盛り合わせが次々とカウンターに並べられていく。皓は朝霧茸の風味が漂う小鉢を見て微笑む。


「この町の食事には、本当に元気をもらいます。皆さんと一緒に食事の機会が巡ってきて、嬉しいです」


 篠目もにっこりと微笑み、皓を見つめながら言葉を続けた。


「皓くん、旅人として町を見てきてどう思った? 綴喜さんとは長い付き合いだけど、君のような目線も、私たちにとっては新鮮でね」


 皓は一瞬考え込み、続けた。


「みなさんがこの町を愛していて、町そのものが生き生きと息づいている……そんな感覚があります。僕も、すごく居心地が良くて」


 綴喜が満足そうに頷き、皓の肩をぽんと叩いた。


「そう言ってもらえると嬉しいよ。皓くんもこの町の一員みたいなもんだ」


 温かい言葉が胸に響き、町の一員として認められている喜びとともに、自分を支えてくれた人々への感謝が湧き上がる。

 だからこそ、心の中で次への覚悟が、確かに固まっていく。


「最近、陽菜さんが色々頑張ってくれたんです」


 皓の言葉に、二人は真剣な面持ちで耳を傾け、彼の決意を尊重するように静かに頷いた。町での日々と支えを思い返しながら、皓は自分が向かうべき先を思い描く。


「僕がいつでも旅立てるように、自分の手で町を守れるように……。きっと、ほとんど知らないことに飛び込んでいったんです。彼女の頑張りに応えられる自分でありたい。だから、近いうちにまた旅に出ようと思っています」


 皓の胸に、静かな熱がじわりと湧き上がった。この町で過ごした日々を通じて、彼はただ灯火守を目指すだけの自分ではなく、新たな自分を発見し始めている。その自分がどこまでやれるのか、未知の世界に踏み出して試したいという気持ちが強まっていった。助けられるばかりではなく、自分の力で進み、見えない未来を切り開く――そんな挑戦への思いが、彼の心を奮い立たせていた。


「そうか。陽菜ちゃん、頑張ってるんだな」

「はい、とても。……役場でも、皆さんに助けられながら学ばせていただきました。だからこそ、次の一歩踏み出すときが来たのかな、と」


 皓の言葉に、二人はしみじみと頷いた。


「君は若者だ、体力もあるし冒険心もあるだろう。どうだ、次の駅まで少し変わった道で行ってみないか」


 と綴喜がにやりと笑う。


「変わった道、ですか……?」


 篠目はカウンターの上に指を滑らせ、山の方角を指差した。


「あの山を越えた先に駅がある。一晩、山小屋に泊まることになるが、自然の景色も楽しめるぞ。きっと山そのものが、君の旅を祝福してくれるだろう」


 皓の瞳が少し輝く。


「山越え……いいですね」


 綴喜と篠目は互いに頷き合い、口元に穏やかな笑みを浮かべた。


「それなら決まりだな。皓くん、準備は我々に任せておけ。旅立ちに必要なもの、山越えに持っていくべきものをみんなで用意しておこう。町のみんなもきっと、喜んで君を送り出したいと思っているよ」


 皓はその気遣いに感謝の気持ちを抱き、深く頭を下げた。


「ありがとうございます。……この町で過ごした時間が、本当に力になりました」

「よしてくれ、まだそう言うのは早いよ」


 綴喜は照れ隠しに皓の背中を何回か叩く。


「そうと決まったら、事前に知っておくべきことを今日は話そうじゃないか」


 と篠目がうなずいた。


「山には美しい湧き水がある場所もあれば、空気も澄んでいるけど、夜は冷え込むし、獣も出るからね。いろいろ用意しておこう」


 皓はその温かい気遣いに、再び頭を下げた。心にわずかな不安もよぎるが、それ以上に、町で得た思い出とともに、新たな道を歩む喜びが湧き上がってくるのだった。


 数日後、役場や農家の人たちが、山越えのための地図や乾燥した茸、携帯できる保存食を用意してくれた。手渡された包みには、丁寧に包まれたお守りまで添えられている。荷物を整えるたび、山越えの旅に向けて心が少しずつ膨らんでいくのを感じながら、皓はふと、また新しい場所での出会いや風景を思い浮かべ、期待と感謝を胸にそっと深呼吸をした。


 いよいよ旅立ちの日、皓はいつものように役場に顔を出してから町の広場へと向かった。住民たちは既に彼の噂を聞きつけて集まっていた。


「皓くん、ちゃんとした地図は持っていると思うが、こっちも持っていってくれ」


 馴染みの農家の年配の男性が微笑みながら地図を差し出した。手描きの線が丁寧に引かれた地図は、町を出て山道を登り、越えた先に駅が描かれている。目印になるものや、ちょっとした見どころなどが添えられていた。町をゆっくり振り返り、心の中で気持ちよく次へ向かうための道案内のようだった。


「山を歩いてみると、きっとまた違った景色が見えるさ。町を出たといっても、まだすぐそこにいるような気分でさ」


 皓は地図をしっかりと手に取り、深く頭を下げた。


「ありがとうございます。少しの間ですが、お世話になりました」


 すると、役場で一緒に働いた朱莉が手作りのお弁当を手渡してくれた。


「晧くん、これ、今日のご飯にして。栄養たっぷりのおにぎりとおかずが入ってるわよ」

「ありがとう、朱莉さん」


 皓はほのかな涙を目に浮かべながら、受け取ったお弁当を大事そうに抱えた。役場での仕事を共にした日々が蘇り、胸が温かくなる。

 そして、陽菜も小さな袋を差し出した。


「これ、山での小さなおやつにどうぞ。甘いものがあると、疲れた時に元気が出るって言うから」


 袋の中には、町の市場で見つけた甘い果実と小さなお菓子が入っていた。この町にしかないものだ。彼は陽菜の顔を見つめ、その優しさと気遣いに改めて感謝の念を抱いた。彼女がいたからこそ、こうしてまた一歩踏み出す勇気が湧いたのだから。


「陽菜さん、本当にありがとう。どんな旅路でも、この町を忘れません」

「私、頑張ります。皓さんも……」


 陽菜の瞳には涙が浮かんでいたが、溢れることはなかった。気丈に振る舞おうとしている姿に、皓も気持ちが込み上げてくる。

 そんな様子を察してか、集まった住民たちは「元気でな」「またいつでも戻ってきていいんだぞ」と、口々に声をかけてくれた。町の温もりが彼を包み込み、離れがたい思いが胸を締め付ける。だからこそ、彼は前を向く決意を改めて固めた。


「それじゃ、行ってきます」


 皓は町の人々に大きく手を振りながら歩き始めた。彼が一歩一歩進むごとに、町の景色が遠ざかっていく。その光景を振り返りながら、手に持つ地図と餞別が、彼にとって確かな道標のように感じられた。

 

 町を背に、静かな山道を登り始めた皓。足元の枯葉がカサカサと音を立て、木々の隙間から差し込む光が柔らかく道を照らしている。山に入ると、風が少し冷たく感じられ、葉の擦れ合う音が心を落ち着かせた。

 ふと立ち止まり、地図と一緒に渡されたお弁当の包みを眺めた。町の人々の思いが詰まった餞別に、再び感謝の気持ちがこみ上げた。これから進む道には、不安もあるだろうが、こうして自分を送り出してくれる人々がいることが、彼にとって何よりの励みになる。


「また、いつか戻ってこれたらいいな」


 そう呟いて、皓はゆっくりと山道を歩み続けた。次の町で何が待っているのか、それはまだわからない。けれど、彼の胸には柘榴石の温かさ以上に、確かにこの町で生きた思い出と、前に進む勇気が宿っていた。


 ◆ ◆ ◆


 山道は木々に囲まれ、風が枝葉を揺らしながら森全体がささやき合っているような音を立てていた。大地に足を踏みしめるたびに、小さな石や苔の感触が足裏に伝わり、その自然の生き生きとした息づかいが皓の体に染み込んでいく。

 道が少し開け、視界が広がった時、遠くに青く広がる水面が見えた。皓の胸が自然と高鳴る。湖が近いと気づくと、歩みにも自然と力が入った。

 木々の間を抜け、足元に落ちる光が次第に強くなってきた頃、ついに湖のほとりへとたどり着いた。そこは、森の静けさがそのまま水面に映り込んでいるかのような場所で、硝子のように澄みきっていた。湖面に映る森の緑や空の青さは、鮮やかな色彩を放ちながらも静かに湖底へと溶け込んでいる。まるで夢の中にいるような錯覚に陥りそうだ。


「ここが……地図にもあったところ……」


 湖面を照らす光が揺らめく。柔らかな金色の輝きで、辺りの木々や石さえも淡く染め上げていた。その光は、生き物の持つ温かさと呼吸を感じさる。カタツで感じられた町の燈力ともまた違う、自然そのものが放つ純粋な光だった。湖のそばの草むらに、いくつかの小さな石がころがっていたが、それらも光を浴びるにつれて柔らかに発光し、微かに息づいているかのようだった。

 人の手による制御が一切なく、それでも一貫した秩序がある。皓は自然の神秘に触れた気がした。自然がこのままの姿で織りなす光と影の世界――。湖面に映る光は澄み渡り、彼の影がその中に浮かぶと、自身がその光とひとつになったように感じられた。


「俺も……、この中に居る……」


 どこまでも純粋でありながら力強く、抑え込むことも囲い込むこともできない、ただそこにあるだけで圧倒的な存在感を放つ――そんな静かな力が湖の空間全体に満ちていた。

 少しばかり疲れを感じていた体が、静かな水音と周囲の清涼な空気に包まれるうちにほぐれていく。湖のほとりに座り、目を閉じて耳を澄ませると、微かに風が通り抜ける音が聞こえ、木々が優しく揺れてささやき合っているようだ。皓はゆっくりと深呼吸しながら、心の奥底まで清らかな気配を感じ取り、この自然の中に自分がすっぽりと溶け込んでいるような感覚に包まれた。


 ◆ ◆ ◆


 湖のほとりを辿って進むと、山小屋が見えた。今日はここで夜を過ごすと決める。


「せっかくだから、外で食べようかな」


 山小屋の前に腰を下ろし、皓は荷物から餞別の包みを取り出した。町のみんなが気持ちを込めて用意してくれた保存食やお守りが、ひとつひとつ丁寧に詰められている。おにぎりや干し魚、乾燥した茸が並ぶ様子に、町の温かい心遣いを感じて胸がじんと熱くなる。


「本当に、ありがとう」


 小さく呟きながら、おにぎりを一口頬張る。塩気が口いっぱいに広がり、同時にどこか懐かしい味が心を満たす。小さなランプの柔らかな光の中で、一人静かに食事を楽しむ時間は、これまで過ごした日々を振り返るための、ささやかなひとときとなっていった。


 夕食を終え、湖のほとりで佇む。皓はゆっくりと深呼吸をしてみる。食後の心地よい満足感が、体と心を穏やかに包み込み、周囲の静けさがさらにそれを引き立てていた。湖面には空の淡い色が映り込み、波ひとつないその姿はまるで鏡のようだ。

 湖の中に魚の影がさっと泳ぎ、群生する蛍苔がよく見えた。ほのかな光を放ち、水中から光が立ち上る。しかし瞬時に消え、薄暗い闇が静かにかぶさって行った。湖そのものが生きているかのような神秘的な瞬間だった。

 彼は、その場から動き出すことさえ惜しく感じ、ただこの静謐で豊かな瞬間に身を委ね続けた。


「ああ、良い山だな……」


 皓は幼い頃の山遊びを思い出す。地元の山はもっと背の高い樹々が鬱蒼と繁り、禁足地めいたところだった。祭の時くらいしか山に入る機会はなく、人を拒むような山の怖さがあった。ここの山は、人に寄り添ってくれるような空気をしている。

 山の静寂の中で、皓は座り込んで空を見上げる。いつしか夜の空となり、散りばめられた星が瞬いている。ただそこにあるだけで淡く光り、皓を柔らかく包み込んでいく。それらの光は、何も要求することなく静かに存在し、それだけで心に深い安らぎを与えていた。


「そういえば……」


 皓はふと、カタツでの出来事を思い出した。燈塔での突発的な対応に追われたあの時のこと――彼は夢中で対処にあたっていたが、決して『灯火守の真似事だ』なんて思わなかった。自分自身として自然に動けたことに、今さらながら気づいた。


「少しはちゃんとやれていたんだな……」


 心にじわりと遅れて訪れる、静かな充足感があった。カタツでの時間を振り返ると、自分のできることで町の人たちを支えることができたと感じた。そしてそれが、「自分らしい」行動だったと素直に思える。

 皓はそんな自分に、初めて出会えたような気がした。

 

 星の光が優しく彼の姿を照らし、皓の心にするりと潜り込んだ。小さくて微かな光だが、静かに輝くことで周囲も照らしている――それと同じように、自分も誰かの力になれていたのかもしれない。


「だから、陽菜さんも頑張れたのかも……」


 自分では気づかぬままに、彼女に何かしらの影響を与えていたのだろうか。目に見えずとも、確かに存在する灯りが、自分にもあるのかもしれない。胸の奥にある星の瞬きが、他者を照らす存在になれたのだ。


「こんな俺でも、できること……」


 皓は、その小さな灯りを胸の中でそっと包み込むように、柘榴石に触れた。

 ひたむきに生きること。ただ自分であること。それだけでいいのかもしれない、と皓は夜の湖畔で静かに時を過ごした。


 ◆ ◆ ◆


 山を越えて下り始める。朝の光が木々の間から差し込み、足元の草や葉に柔らかな影を作っていた。澄んだ空気が心地よく、鳥のさえずりが軽やかに響く中、皓は一歩ずつしっかりと地面を踏みしめながら進んでいった。

 山道を抜けた頃、遠くに小さな駅舎が見えてきた。瓦屋根の駅舎は、周囲の静かな風景に溶け込むように佇んでいた。皓は足を止め、ゆっくりとその光景を見つめる。ここからまた、新しい場所へ向かうのだ。

 何となく地図を確認し、次の電車の時間を確かめる。辺りは陽射しに包まれ、静かな風が山から吹き下ろしてきた。駅に向かう道が一本道に伸びている。皓は少し足を休めるためにベンチに腰を下ろし、水筒から冷たい水を一口飲んだ。山で沸いていた水だ。見上げると、淡い青空に雲がぽつぽつと浮かび、心地よい静けさが広がっている。

 皓は駅舎へ行くため、立ち上がって軽く伸びをする。ふと視界の隅に人影が見えた。精燈機関のローブをまとい、近寄りがたい雰囲気を持つ男の姿――カタツで対応にあたった、あの灯火守だった。


「ど、うも……その節は……」

「ああ、あの時の……」


 一瞬、心臓が跳ねたように感じたが、皓は何とか平静を装った。灯火守の彼もまたも皓に気づいた様子で、視線をそらしながらもわずかに会釈をする。その様子は、以前の冷たい態度とはどこか違って、ぎこちなさと気まずさが滲んでいるようだった。

 二人は駅に向かって、互いに少し距離を保ちつつ並んで歩き始めた。沈黙が流れる中、皓がふと口を開く。


「灯火守さんも忙しそうですね。あちこちの町で……」


 灯火守は一瞬だけ視線を皓に向け、軽くうなずいた。


「……ええ、まあ」


 それだけの短い返事だったが、以前より少し柔らかさが感じられる。皓はその変化に内心驚きつつ、続けて言葉を紡いだ。


「あの時、町のために何かできたのは、僕にとっても大きな経験でした。おかげで、いろいろと学ばせてもらえました」


 灯火守は少し黙った後、視線を前に向けたまま、低い声で答えた。


「……あの町でのこと、悪かった。思ったことを、そのまま口にしてしまったな」


 皓は驚きとともに、その言葉を受け止めた。言いづらそうに謝罪を口にする灯火守の横顔には、少しばかりの後悔が浮かんでいるようにも見えた。敬語の抜けた口調がこの人の素なのかもしれない。皓は穏やかに微笑み、静かに答えた。


「いえ、あの経験のおかげで、僕も前に進むことができましたから」


 その言葉に、灯火守は何も言わず、再び視線を正面に戻す。ただ、わずかにうなずいた姿に、何かを少しずつ受け入れている様子が感じられた。


 しばらくして、駅が見えてきた。二人は改札へと向かう。灯火守の彼は皓と逆方面のようだ。無言で並ぶ中、皓が口を開いた。


「カタツでは、陽菜さんが……正規職員の方が、頑張ってくれています。あの町の灯を、彼女がしっかりと支えようとしているんです」


 灯火守は歩みを止め、一瞬だけ表情を曇らせたように見えたが、すぐに表情を戻し、わずかに首を縦に振った。


「……そうか」


 それだけを短く告げると、皓は前を向き、改札へと向かう。小さな駅ゆえ、ホームが一つしかなく、二人は少し距離を取って立つ。しかし、それでも気配が交錯し、緊張感が漂うようだった。互いに何を話すでもなく、ただそこに立つ時間が少しずつ流れていく。


火鹿かじかだ」


 突然、皓の隣から低い声が響く。皓が驚いて振り返ると、灯火守の彼が真っ直ぐこちらを見つめていた。彼の背丈は皓よりも少し低く、そのため鋭い目つきで見上げるような視線が皓に向けられる。だが、視線は落ち着きなく彷徨い、威圧感は少しも感じられない。

 火鹿はフードを軽く払うように取り外した。暗い影の中から現れたその顔は意外に若く、瞳は涼やかで切れ長だが、どこか憂いを帯びているようにも見える。表情は愛想とか愛嬌といったものは一切なく、ただ静かに皓を見据えていた。彼の身に付ける濃紺のローブは肌の白さを引き立てている。胸元には精燈機関の紋章が銀糸でさりげなく輝き、その慎ましやかな装飾が彼の職務をより誇り高く示しているように見えた。


「えっ……」


 皓は一瞬、言葉に詰まる。


「名前だ」


 火鹿は冷淡に、無駄のない一言だけを付け加える。皓は少し慌てつつも、名乗らなければと慌てて声を出した。


「お、俺は太刀花です!」


 皓は火鹿の視線を受け止めようとしたが、互いに視線がうまく合わず、なぜだか気恥ずかしい気持ちが湧いてくる。こうして会話をしていると、冷ややかな態度の裏に、灯火守としての彼の確固たる信念と誠実さが垣間見え、少しずつ善性のある人柄にも感じられた。


「あなたも、灯火守を目指しているのだろう」


 火鹿が咳払いと共にそう問いかけると、皓の反応を待たずにふと視線をそらした。少しずつ冷静さをまとい始めている。皓はというと、戸惑いつつも、どうして彼がそのことを知っているのか気になって仕方がなかった。


「なぜ、それを」

「……あの時は、あなたを技術に長けた民間人としてみなしたが、今聞いた名前に聞き覚えがある。試験で優秀な成績を収めていなかったか」


 鋭い目がしっかりとこちらを向いた。好奇心に近い心情で観察されている。隠そうともしない火鹿の態度に、皓は自分の未熟さが見透かされているような気がしていた。


「あ、はは……参りましたね……。先般の灯火守試験では、確かに良い成績でした。けど、灯火守の適性がなくて……」

「適性が?」


 火鹿が僅かに眉を動かす。彼は一歩も引かずに皓の言葉を受け止めている。皓は、彼の強い視線を感じながら続けた。


「適性で不利なら、せめて知識と技術を……と思ったのですが。……適性は不向きどころか、無いとはっきり告げられました。技術や知識があっても、不合格でして……。それで、今は……灯火守以外の、出来ることを探すために旅をしてます」


 躊躇いがちに言葉を選んだ皓の言葉を、火鹿は、静かに聞きながら目を閉じた。威圧的ではないものの、そこには独特の厳しさが漂っている。彼のその態度が、皓にとっては静かな刺激となる。自分ではこういった落ち着きは醸し出せないと思えた。皓は改めて、自分の足りなさを思い知らされるようだった。


「そうか、……」


 火鹿はそれ以上は言わず、黙って前を向いた。少し冷たい風が吹き、彼の小柄な体を軽く揺らしたが、その目線は揺らぐことなく、ただ淡々と次の行き先を見据えているようだった。

 やがて、都市方面へ向かう列車が到着した。


「どうぞ、お達者で」


 皓が少しの寂しさを込めて告げると、火鹿は僅かに頷いた。


「ああ、……あなたもな」


 その言葉を最後に、火鹿は電車に乗り込んだ。皓はその小さな背中を見送りながら、胸の内で彼との短い対話を反芻する。自分の進むべき道を再確認するように、静かな決意が胸に広がるのを感じた。


 

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