第3話

 カタツに滞在して、三週間ほど過ぎた。町営にかかわる仕事を中心に滞在することを決めたので、役場近くにある貸し部屋に拠点を置くようにしている。様々な仕事を一つずつこなしていくうちに、皓は自然と町の人々に溶け込んでいた。

 朝は早く、午前中は農家の手伝いに出かけ、午後は役場の内勤補助に励む。畑に出て土を耕し、季節の野菜を収穫する作業は、初めのうちは体力を要したが、少しずつ手際も良くなった。農家たちからも「なかなか頼りになるね」と笑顔をもらえるようになってきた。役場の仕事でも、簡単なものから始めていたが、今では内部の打ち合わせにも顔を出すようになっている。

 

 ある朝、まだ薄暗いうちから畑に出て、朝露で湿った土を踏みしめた。


「この土のおかげで、町の料理はこんなに美味しいんだな」


 と皓は思いを馳せる。食堂で初めて味わった朝霧茸や香鯛の風味が蘇り、あの独特の味わいが、この燈力の染み込んだ土地から来ていると実感すると、この土地が持つ豊かさが改めて心に染み入った。

 人々の手によって育まれる野菜や果物が料理となり、町の人々の活力へとつながっていく――それが、土地の力と人の営みの結びつきにより成り立っていることを、皓は深く感じていた。


 「おはよう、皓くん」


 農家の人々はすでに一日の仕事を始めており、皓も小さく手を振って挨拶を返す。綴喜つづきさんに、日引ひびきさん――陽に焼けた顔に刻まれた皺、どこか穏やかな自信を宿した笑顔が印象的だ。その笑顔には土地と長く共に生きてきた穏やかな自信が宿っていた。新顔の皓にも彼らは分け隔てなく接してくれ、ちょっとした収穫のコツや苗の植え方など、時折丁寧に教えてくれる。


「晧くん、今日は市場のほうにも行ってくれないかね。搬入と店番をやってほしいんだ」

「もちろん、いいですよ」


 皓は早速収穫したものを担ぎ、市場へと向かった。収穫した野菜を抱えて市場に向かう途中、町の小道では軒先で手を振る人や畑で働く人々が彼に軽く声をかけてくる。「今日は市場かい、がんばってね!」と、農家の女性が笑顔で声をかけ、他の人々も温かく見送ってくれた。

 

 市場は朝の柔らかな光に包まれ、活気にあふれていた。町の中央にある広場には、さまざまな露店が立ち並び、それぞれの屋台には新鮮な野菜や果物が色とりどりに並んでいる。人々は籠や袋を手に、選りすぐりの野菜や果物を吟味し、売り手と買い手の賑やかなやり取りがあちこちで交わされている。一角に目をやると、熟した細長い赤い実が一層鮮やかに見える紅灯果こうとうかや、青い葉を何枚も纏ったような霧露葉きろはといった多彩な野菜が並ぶ。すっかり晧の好物になった朝霧茸も並んでおり、小ぶりで紫がかった傘がしっとりとして独特の香りを漂わせている。店主が朝露果あさつゆのみと呼ぶ青みがかった果物も積まれていて、その名が示すように朝露の中で育った新鮮さが見るからに伝わってきた。


「さて、俺も陳列しなきゃな」


 皓は頼まれた野菜の籠を持ち上げ、売り場の棚へと運び込む。収穫されたばかりの蒼梢豆ルビを入力…星灯根菜せいとうこんさいを手に取り、陳列に取り掛かる。蒼梢豆は、細長い緑の莢の中に淡い青みがかった豆が並んでおり、先端がまるで小さな梢のように枝分かれしている独特な野菜だ。噛むとほんのり甘みが広がり、町の料理に欠かせない一品とされている。星灯根菜は、白い肌に小さな星形の模様が散りばめられた美しい根菜で、炙ると甘みが増し、煮物や焼き物にすると芳ばしい香りが引き立つと評判だ。


「どうぞ、採れたてですよ!」


 皓が声をかけると、通りがかった人々も足を止め、興味深そうに手に取っていく。ひとつひとつ野菜が見栄えするように並べながら、額の汗をぬぐった。


 活気あふれる市場全体は、ひとつの大きな台所のようだ。

 買い物をする町の人々の声、鍋や包丁を仕入れる屋台から聞こえる会話、魚を並べる店主が冗談を飛ばして笑い声を誘う様子が混ざり合う。彼は自然と笑顔になりながら、他の農家たちと協力しあう。通りかかる子供たちが興味深そうに覗き込む様子に目を細めた。

 彼はこの町で繰り返されてきた時間を感じながら、「こうして収穫された野菜がここに並び、人々の手に渡るんだ」と実感する。畑で見た土の温もりと、この市場での賑やかさが、ひとつながりに感じられ、心の中に小さな満足感が広がった。

 荷物を降ろし終えた皓は、しばし賑わう市場の空気を感じながら立ち止まり、町の人々と共に流れる豊かな日常の一端に、自分が関わっていることを感じ取っていた。


「皓くん、これは今日の目玉だよ。今日のご飯に使って」


 と、馴染みとなった農家の女性が手渡したのは、まだ土が少し残っている朧葉人参だ。思わず微笑む。


「ありがとう、おばさん! これ、好物です」


 この人参は、表面にほんのりとした白い粉が吹いており、土の中から掘り出されたばかりの姿がどこか素朴で愛おしい。土の香りがわずかに鼻先に届き、晧の胸に幼い頃に家で食べた人参料理の記憶が蘇る。朧葉人参は、加熱すると甘みが際立ち、特に焼き物にすると甘みが深くなるのが特徴で、大好物だった。実家の食卓にはよく並び、そのたびに彼はその素朴な味わいを楽しんでいた。町の市場でこうして再会できたことが嬉しく、晧は自然と手際よく泥を軽く払う。


 市場で賑わう人々の声と温かい日差しに包まれ、皓は町の人々とともに日常の豊かさを分かち合う一員になったことを感じていた。


 ◆ ◆ ◆


 午後の役場は、昼下がりの柔らかな燈力の光に包まれ、静かな空気が漂っていた。窓から差し込む陽の光が、役場の古びた燈石に当たり、ほのかに淡い青色の輝きを放っている。燈石は、町に昔からある小さな装置で、燈力を蓄えた石がほんのりと光を放ち、場内の温度を一定に保つ役割を果たしている。役場内の机や棚の上には、積み重ねられた古びた記録巻物や、燈力によって動く小さな記録装置が並んでおり、どれも町の歴史を刻む大切な存在だ。


 皓は、町の水路や農地、そして燈塔に関する古い資料を一つひとつ確認しながら、分類していた。それらには、燈塔の設置位置や町の人々が共同で運用してきた燈力装置に関する記録、さらには役場で保管されてきた灯火祭りの儀式の段取りなど、町の文化や生活と密接に関わる貴重な情報が収められていた。どれも町の営みを支えるための知識が記されており、皓はその重みを感じながら目を通していった。


 ふと顔を上げると、役場内の棚には各地から持ち込まれた燈石の標本や、町の象徴的な植物である朝霧茸が乾燥された姿で飾られている。燈石のさりげない輝きが空間全体を包み込み、役場の中は、まるで小さな光の精霊たちがひそやかにささやき合うような幻想的な雰囲気に満ちていた。


「皓くん、お茶でもどうぞ」と、年配の女性職員――朱莉あかりさんが優しい笑顔を浮かべながら湯飲みを差し出してくれた。湯飲みの中には、この町で採れる霧露草を使った特製のお茶が注がれている。湯気の立ち上る湯飲みを手に取り、皓は一口含んだ。霧露草は燈力を吸収して育つ植物で、その葉には心を落ち着かせる作用があると言われている。口の中に広がるさわやかな味わいとともに、体の緊張がほぐれていくようだった。


「朱莉さんのお茶、おいしいです。ありがとうございます」

「いいえ。晧くんは覚えがいいから、助かってるわ。私はもうすぐ上がってしまうから、あとはよろしくね」


 自然に任せてもらえている。晧は何げない言葉の中から、自分が積み上げられている実感を得ていた。

 皓は静かな午後の中で、町の人々と共に役場で働くこのひと時が、自分にとって穏やかな時間であることを感じていた。燈力の満ちた資料や役場に積もる知識と共に、皓はこの町の一部として少しずつ根を張り始めていることを、心の奥で感じ取る。


「朱莉さん、晧さん。戻りました!」

「お帰りなさい、陽菜さん」


 皓が初めてこの役場へ来たときに応対した若い職員――陽菜が、外での打ち合わせから戻ってきた。彼女は柔らかな栗色の髪を一つにまとめ、光を浴びてほのかに透ける肌が、町の日差しをそのまま映したようだった。温かみのある笑顔を浮かべながら、皓に視線を向ける。


「皓さん、この町の暮らしには慣れてきましたか?」


 その問いに、皓は少し考えてから微笑んだ。


「ええ、皆さんが親切にしてくれるので、だいぶ慣れました。農作業も役場の仕事も新鮮で……。都市にいた頃には想像もしていなかったですけど」


 陽菜は少し驚いたように目を見開いてから、ふっと優しい表情になった。


「そう言ってもらえると嬉しいです。私たち、普段はあまり外のことを知らないから、こうしてよそから来てくれた方が町に馴染んでくれるのを見ると、なんだか安心するんです」


 皓は彼女の言葉に頷きながら、少し照れたように続けた。


「この町の空気や人が、心をほっとさせるんですよ」

「そうですか……それなら、よかった」


 陽菜は微笑を浮かべ、少し照れたように視線を落とす。


「私はこの町から出たことがなくて、外の世界のことをもっと知りたいなって思うこともあるんです。でも、こうして皓さんが来てくれたことで、少しずつ外のことを聞けるのが楽しみなんです。」

「何でも聞いてください。そんなに面白い話があるわけじゃないですけど。」


 皓は笑いながらそう返し、彼女の瞳が興味深そうに輝くのを見て、どこか心が温かくなった。

 しばらく雑談が続き、役場の空間には穏やかな静けさが戻る。だが、ふとした沈黙の中で、陽菜が何かを言いかけるように唇を動かし、また止まる。それに気づいた皓が、優しく促すように微笑んだ。


「どうしました? 遠慮せずにどうぞ」


 陽菜は少し迷った後、小さな声で尋ねた。


「皓さんが、もしもこの町にずっといてくれたら……って。長期滞在も考えること、ありますか?」


 その思いがけない質問に、皓は驚きつつも、じっくりと考え込んだ。


「そうですね……今はまだ、いつまで居るか決めていませんが……。こんな風に皆さんと一緒に過ごせるのは、悪くないなと思っています」


 陽菜はその言葉に小さく微笑み、再び机の上に視線を戻した。その横顔には、わずかにほっとしたような、穏やかな表情が浮かんでいた。


 業務が終わり、役場を出ると、外はすっかり夕暮れに包まれていた。薄紅色に染まる空が、町の建物の輪郭を柔らかく浮かび上がらせ、その輪郭が温かな余韻を町に落としている。晧が静かに戸を閉めると、すぐ隣で陽菜も「ふうっ」と深呼吸をしながら背伸びをした。その表情には一日の疲れが和らぎ、ほっとした安堵がにじんでいる。


「今日もお疲れさまでした、晧さん」


 陽菜がほころんだ笑顔で言い、晧の隣に並ぶと軽やかに歩き出した。


「こちらこそ、いつもありがとうございます。まだ慣れないことも多くて、毎日助けられてばかりですけどね」


 晧は少し照れくさそうに微笑んで返しながら、彼女と並んで歩き始めた。二人の足音が、静かな町の通りに心地よいリズムを刻む。

 夕暮れの町は、橙色の燈力が灯る街灯や軒先の小さな灯りが道をぼんやりと照らしていた。燈火が静かに揺れるたび、影が淡く揺れて町の記憶が映し出されるようだ。どこか懐かしさの漂う風景に、晧は自然と肩の力を抜き、町の温もりに包まれるような心地よさを感じていた。

 しばらく言葉なく並んでいたが、ふと陽菜が歩みを緩め、何かを思い切ったように口を開いた。


「晧さん、この町に来る前の話……少し聞いてもいいですか?」


 その問いに、晧は少し驚いて足を止めた。陽菜も立ち止まり、澄んだ目で彼をまっすぐに見つめている。


「……もともと、ある夢を追いかけるために都会に出たんです」


 と、晧はゆっくりと思いを言葉にしていく。


「出身は北のほうで、ここよりももっと鄙びたところなんですけど。憧れの職になりたいと思ったんです」


 陽菜はしっかりと彼の言葉に耳を傾けている。晧は遠くを見つめるような表情で続けた。


「でも、いろいろとあって……その夢を追うのをやめようと決めたんです。今までそればかり追い求めていたので、今は大きな空洞が空いていて……だから今は、自分にとっての『灯り』を探すために、こうして旅をしているんです」


 笑みを浮かべる晧の瞳に、町の光が溶けて揺らいでいる。その眼差しに陽菜は静かに頷き、彼の言葉を丁寧に噛みしめるようにして聞いていた。


「そうだったんですね……夢を、諦めたなんて……」

「湿っぽい話で、すみません」


 晧は苦笑しながら付け加えたが、陽菜は即座に首を振った。


「そんなことないです! むしろ、晧さんはすごいです。農作業だって事務仕事だってできて、私なんかよりずっと頼りになりますし……」


 その勢いで話していた陽菜は少し赤面し、言葉を落ち着けながら、ふっと優しく微笑んだ。


「だから……晧さんも、きっとご自身の灯りを見つけられると思います」


 その励ましの言葉に、晧は驚いたように陽菜の顔を見つめた。まるで彼の心の内を、すべて見透かしてくれているようだった。


「ありがとう、陽菜さん。……いつかその灯りを見つけられたら、その時は、この町に戻ってくるかもしれません」


 晧は穏やかにそう言って、彼女に微笑みかける。ふいに、柘榴石の首飾りがほんのりと温かくなる。しかし皓は、そのことには気付かないまま、陽菜を見つめ続けた。

 陽菜も少し恥ずかしそうに笑い、小さく頷くと、また一緒に歩き始めた。空は薄紫に染まり、星がぽつりぽつりと瞬き始める。晧と陽菜はゆっくりと、夕暮れに染まる町の中を歩き続けた。


 ◆ ◆ ◆


 午後の役場は、静かな中にも忙しさが漂っていた。皓は町の水路に関する古い資料を整理し、次の修繕計画に役立てるための情報をまとめているところだった。

 すると、突然、重たい木製の扉が勢いよく開かれ、住人の男性が息を切らして駆け込んできた。年配の住人で、顔には汗が浮かび、明らかに緊張と不安の色が見える。


「おい、大変だ! 燈塔が……燈塔の灯が……!」


彼の叫びに、役場の職員たちも動揺し、ざわつきが広がった。皓も驚きつつも落ち着いて立ち上がり、男性の方へと歩み寄った。


「どうされたんですか? 燈塔の灯がどうかしましたか?」

「燈塔の灯が急に弱まって、明かりがちらつきだしたんだ! まるで今にも消えそうで……何が起きてるのかわからなくて、皆、怖がってるんだよ!」


 男性は皓に向かって、焦る様子で続けた。

 皓はその報告を聞いて、心臓が一瞬大きく跳ねた。燈塔の灯が不安定になるなど、町全体を支える力の流れに影響が出ている可能性がある。


「わかりました。とにかく、まずは現場を確認しましょう。案内していただけますか?」


 皓の落ち着いた声に、男性は安堵の表情を浮かべて強く頷いた。


「ああ、頼むよ、晧さん! 君なら何とかしてくれるんじゃないかって、みんなもそう思ってるんだ!」


 職員たちも心配そうに見守る中、皓は準備を整え、男性とともに役場を飛び出した。外の空気はすでに夕方の冷たさを帯び始めており、遠くには燈塔の姿が不安げに揺れて見えた。

 自分に何ができるかは分からない。トラブルの解決などした事はない。それでも、この町の灯の危機に何もせずにじっとしていられない。皓は手足が強張りを感じながらも、心の奥で小さな決意が芽生えてくる。


 町の住民たちは塔の周りに集まって、不安げな表情で様子を見守っていた。皓が燈塔に駆け込むと、不一致を知らせる赤い光と警告音が異常を告げていた。塔内に臨時パネルが展開されており、そこにはいくつもの通知が並ぶ。燈力の出力が明らかに不安定になっている。

 皓装置の小さな表示画面をじっと見つめた。画面には「律調りっちょう更新」と表示され、細かな設定が自動で変更されているのがわかる。


「これは……律調が勝手に変わっている……」


 一緒に来ていた住人が戸惑った顔を向けると、皓は慎重に説明を始めた。


「律調っていうのは、燈力をこの町に合うように整えるための設定なんです。もともと土地ごとに最適なバランスがあって、普段は『巡律』として灯火守が手作業で調整しているんですが……どうやらそれも無しに最新の律調に更新されたみたいで、この町の環境に合わない変化が起きてしまったようです」

「なんでこんなことに?」


 住人は不安そうに眉をひそめる。


「たぶん、最新の律調配信システムによって、一斉に適用されるようになったのかもしれませんね……。全体の効率を上げるために一部が勝手に変更されるようになったんだと思います。つまり、この町独自の調整が失われているから、燈力の流れが不安定になってるんです」


 そう話しながら皓は苦々しく呟く。


「技術の進歩は便利ですが、こうして管理が難しくなることもあるんです」

「皓さんにも直せないものかね?」


 不安げな視線を受けて、皓は深呼吸し、軽く頷いた。


「おそらく、元の設定に戻せば安定すると思います。やってみます」


 慎重に装置の手順書に目を走らせながら、皓は手元の操作に集中した。燈塔に備え付けられた『燈導装置』は本来、自動的に土地の燈力の流れを調整する仕組みを持つが、予想したとおり律調更新により、新たな律動の速度や強度が上書きされ、町の設備に馴染まず不安定になっていたようだ。皓は、装置の設定をひとつずつ見ながら、手動で元の数値に戻し、町独自に合わせて再調整を行っていく。


『そもそも、この装置自体が無理に組み込んである物だ。設定の優先順位が見た目どおりではないかもしれない……』


 彼が操作を行うたび、燈塔内の小さなランプが順に穏やかな灯に変わり、まるで呼吸が整っていくかのように、燈力の流れが穏やかになっていった。塔内の光が次第に安定を取り戻し、揺らぎも収まるころには、異常を知らせる警告音は全て消えていた。

 燈塔全体が安定した柔らかな光で満たされた。外から見ていた住人たちも、感嘆の息を漏らす。

 皓は一息つき、緊張が解けた笑顔を向けた。


「大丈夫です。少し手を加えたので、これで安定しているはずです」


 すぐ横にいた男性は安堵の表情で皓の手をしっかり握る。外から見守っていた人々も、一斉に拍手を送った。


「皓さんがいなかったらどうなっていたことか」

「頼りになる人だねぇ」


 彼の知識と経験が、町の役に立った瞬間だった。塔の外へ出た皓は、住民たちの感謝に応えるように、皓はぎこちないながらも微笑む。


「力になれて、本当に良かったです。……問題は落ち着いたと思いますが、大切な燈塔です。念のため、専門の灯火守にも確認してもらいましょう」


 その言葉に、住民たちは頷き、皓の慎重な判断に感謝の意を示した。安堵と共に、彼の顔に向けられる視線には、かつて自分が目指した灯火守に対する信頼に似たものが感じられた。

 装置を操作していたときの手応えや、住民たちの感謝の眼差し――それらは、皓に小さな達成感をもたらした。しかし、その一方で、心の奥に微かな違和感が芽生えるのも感じていた。かつて都市で、効率や便宜を優先した『律調更新』が急速に導入されたものの、手に負えずかえって不便を生むことになった場面が、脳裏をよぎったのだ。


「この律調更新も、誰のためのものなんだろうか……」


 皓は心の中でそう問いかけ、塔内を見渡した。便利さを追求するはずの技術が、住民の不安を招く一方だ。これは管理する側――灯火守たちのためにあるのではないかと思うと、そこにある矛盾が浮かび上がる。


 住民にとって本当に必要なのは、安定した灯火と、その光のもとでの日常であるはずだった。それなのに、更新が自動で適用される仕組みの中で、誰もその変化に気づくことなく、問題が起こるのを待つだけという現状が、腑に落ちない。役に立てた安堵と共に、「誰のために存在する灯りなのか」という疑問が、皓の心に深く残っていた。

 

 ◆ ◆ ◆


 翌朝、町の空が少し曇りがかった色を帯びる中、カタツの町に灯火守がやってきた。灯火守の到着に住人は安堵を覚えたが、それも束の間だった。

 彼の姿は重厚な精燈機関のローブに包まれ、深く被ったフードが顔を隠している。精燈機関の制服は、濃紺の生地に銀色の縁取りが施され、肩や胸には厳格な装飾がある。胸元には機関の象徴である小さな燈火の紋章が刻まれており、そのシンプルながら威圧的なデザインが、着用者の職責と権威を強調していた。

 ローブの袖がわずかに揺れるたび、彼の動きがわずかな風圧と共に冷たい威圧感を周囲に漂わせる。身長は皓よりも低く、一見すると小柄で華奢に見えるが、その姿勢には隙がなく、フードの奥から覗く鋭い眼差しが、まるで自らが町全体を支配しているかのように役場の中を見回していた。

 住民たちは灯火守の無機質な態度に一抹の不安を感じ、彼を遠巻きに眺めている。フードの奥にある瞳が一人一人に鋭く向けられるたび、居心地の悪さが広がり、彼を囲むようにして立っていた住民たちも思わず距離を取ってしまう。

 灯火守が装置の操作に移ると、その手つきは無駄がなく洗練されていた。彼はまず慎重に装置の履歴を確認し、皓の見立て通り律調更新の不一致が問題の原因であったことを突き止めると、淡々とした口調で結論を告げた。


「この町の律調に少し合っていなかったようですね」


 冷ややかな声音だった。不安な気持ちに寄り添うようなものは無く、ただ冷たく事実を伝える事務的なものだ。

 皓は思わず眉をひそめた。律調の不一致が、町の日常にどれほど大きな影響を与えるか理解していないわけがないのに。町の安全に関わる問題だというのに、あくまで機械の不具合として処理しているような冷淡な態度に、怒りさえ湧く。


「このような更新が町と適合しない形で適用されてしまうと、同様の障害が起こりかねません。今後もこのような事態に対処できるとは限りませんから、少なくとも事前に連絡をいただけませんか?」


 皓は慎重に言葉を選びながら訴えた。しかし、灯火守は眉ひとつ動かさず、抑揚のない声で答えた。


「今回の更新に関しては、先週、精燈機関から通達が出されています。燈導装置にも事前に警告を表示したはずですが、ご覧になっていませんか」

「いえ、そうかもしれませんが……その燈導装置に触ること自体、住人の方々には難しいのです。お知らせの仕方も含め、もう少しご配慮いただけませんか」


 灯火守は無表情なまま一瞬だけ皓を見下ろすように目を細め、冷ややかに口元を歪めた。彼の視線は、フードの奥から鋭く皓を射抜くように覗き、その眼差しにはどこか嘲笑の色が混じっている。皓が首から下げている首飾りは、役場の職員である証だ。それを一瞥してから、彼は口を開いた。


「しかし、あなたは対応できたのでしょう?」


 灯火守とは思えぬ冷たい物言いだった。皓はひどく動揺しながらも、言葉を続けようとする。


「私は、臨時のもので……」


 灯火守は薄く嘲るような笑みを浮かべた。


「ほう……そこに正規の職員がいらっしゃるようですが」


 灯火守の視線が皓から陽菜へと移り、じろりと彼女を見据えた。


「この業務は町営の一環としてみなすべき内容でしょう。自分たちの町なのに、自分たちで責任を持てないというのは、あるまじきことではありませんか」


 その一言とともに、鋭く冷ややかな視線の矛先が陽菜に突き刺さる。小柄な体躯にも関わらずその威圧感は凄まじく、フードから除く鋭い目つきが彼女に刺さる。そこに侮蔑が含まれていることは明らかだった。

 陽菜の顔が緊張に強ばる。彼女は思わず一歩後ずさりし、視線をさまよわせた。住民たちも、その冷淡な態度に不満そうにざわつき始めた。皓の胸には怒りと悔しさが広がっていく。


「……ッ、あ、あの、私は……!」

「待ってください!」


 陽菜が震えながら言葉を絞り出そうとしたその瞬間、皓は反射的に彼女の前に立ち、灯火守の視線を受け止めた。彼の姿に、強い反発を覚えつつも、それを押し殺し、皓は冷静に言葉を重ねる。


「適応の問題だとおっしゃるならば、せめて助力をいただけませんか。住民が対応できる手順や、もう少しわかりやすい通知の方法など、私たちが維持していけるように」


 灯火守は皓の言葉を聞き流すように顔をそらし、短くため息をついた。そして、少し厳しい声でこう言い放った。


「私たちもリソースが限られているのです。すべての町や村に細かな支援を行う余裕はありません。更新は一律で行うことで効率化を図っているのです。この町もその例外ではありません」


  ――この灯火守は、町に生きる人々のためではなく、ただ任務として立っている。

 住民たちの間から不満の声が漏れる。彼らの表情には、灯火守の一方的な対応について困惑と戸惑いがありありと浮かんだ。皓も、心の奥で強い反発を覚えながら、それを表には出さずに問いを続けた。


「それでも、万が一の事態に備えて、各地の事情をもう少し考慮する方法はないのですか? 例えば、この町の装置に合った巡律代替の律調改修や、具体的な保守方針を一緒に教えていただくとか……」


 灯火守は一瞬だけ表情を変え、いくつか言葉を選ぶために視線を宙に浮かせた後、ため息混じりに答えた。


「……各地の現場の状況を深く把握する役目を担っていた者もいるのですが……彼は今、別の場所で優先すべき任務に就いています。私も別部隊から臨時で派遣されております。各地の保守活動をまとめる役目を担える人材は、今後調整いたします」


 その言葉に、皓はある姿を思い出していた。人々の光を守り、現地の事情すらも細かに把握していた、かつての憧れの人影がかすかに滲む。しかし、彼がどこにいるのか、あるいはなぜ現場に戻って来ないのかは、灯火守の言葉には触れられていなかった。


「とにかく、原因についてはこちらも把握できました。精燈機関に持ち帰り、今後の更新への教訓と致します」


 言葉の上ではそう発せられたが、切り落とすような声音だった。

 この町で、ようやく自分が何か始められたと感じていた矢先に、こうして冷たくあしらわれることへの無力感が募った。


 ◆ ◆ ◆


 灯火守が町を去ったその夜、役場での業務を終えた皓が部屋に戻り、静かに一息ついていたとき、外から小さなノックの音が聞こえた。戸を開けると、そこには陽菜が立っていた。昼間の騒動がまだ胸に残っているのか、彼女の顔には緊張と決意が混じった表情が浮かんでいる。


「陽菜さん……どうしました?」


 陽菜は少しの沈黙の後、皓をまっすぐ見つめたまま、深く息を吸い込んだ。そして、まるで自分に言い聞かせるかのように言葉を紡ぎ始める。


「皓さん、町の灯火の点検や緊急対応を、私ができるようになりたいんです。どうか、その方法を教えてもらえませんか?」


 その言葉に皓は驚きつつも、すぐに真剣な眼差しに変わった。あの灯火守とのやり取りが、彼女にとって大きな影響を与えたのだろう。町のために役立ちたいと、強く決意した彼女の瞳が、その覚悟を語っている。


「陽菜さん、……。知識が必要だし、時には危険も伴います。それでもやりたいですか?」


 陽菜は迷うことなく力強く頷いた。


「私一人で何でもできるとは思っていません。でも、今日のように町が不安に包まれる中で、私が何もできないのは嫌なんです。この町を守りたいって気持ちは、私にもあるんです……皓さんが助けてくれたように、私も自分の力で町を支えたいんです!」


 陽菜の瞳には、強い決意とともに一筋の涙が光っていた。その気持ちを受け止めた皓は、心の中でそっと彼女の覚悟に寄り添った。彼女が本気で、この町を支える一員としての役割を担おうとしていることが伝わってくる。


「分かりました。陽菜さんがそこまで考えているなら……、僕が知っていることを少しずつお教えします。思っている以上に根気がいるかもしれませんが……それでも大丈夫ですか?」


 陽菜は表情を引き締め、大きく頷いた。


「もちろんです。ありがとうございます、皓さん!」


 陽菜は皓に深々と頭を下げたあと、ほんの少し息をついて微笑みながら言った。


「実は……あの時、本当に恥ずかしかったんです」


 皓は少し驚きながら、彼女の顔を見つめた。陽菜の瞳には、恥じらいと悔しさが混じった色が宿っていた。


「灯火守さんに言われたこと……全部図星でした。町のことなのに、私たちが何もできなくて、頼るしかないのは確かなんです。でも、その時に私、何も言い返せなくて……恥ずかしくて、悔しくて……」


 彼女は唇を噛みしめ、小さく肩を震わせた。昼間の出来事が胸に重く残っているのだろう。その表情には、ただの悔しさだけでなく、町を支える一員としての自分の未熟さを痛感している様子がうかがえた。


「それに……きっと私がもっとしっかりしていれば、こんな風に見下されることもなかったのかもしれません。だから、せめて少しでも、町のために自分ができることを覚えたいって思ったんです。皓さんのように……」


 陽菜の言葉は小さく、けれど決して途切れず、強い決意に満ちていた。彼女の純粋な心が伝わり、皓も思わず胸の奥が熱くなるのを感じた。彼は優しく微笑みながら、ゆっくりと陽菜の肩に手を置いた。


「陽菜さん、僕も……この町に来たばかりのときは、みんなの役に立てるか不安ばかりでした。でも少しずつ自分にできることが増えていって、それが今こうしてつながっています。だから、あなたの気持ちは、絶対に無駄にはなりません」


 陽菜はその言葉に小さく頷き、わずかに目を潤ませた瞳を上げて皓を見つめた。彼女の中で芽生えた強い決意は、今、静かに光を宿し始めていた。


 翌朝、陽菜は小さなノートを片手に持ち、熱心に皓の説明を聞きながら、必要なことを一言一句漏らさぬように書き留めていた。二人は町の小さな燈塔の前で、朝早くから燈力の定期メンテナンス手順を確認していた。


「まずは外部の灯導装置を確認するところからですね。ここに巡律と出力が表示されているんです。最初に出力が通常の範囲内にあるか確認します。問題があったときは……」


 皓はそう言いながら、装置の前で、具体的な確認方法を指差しで示した。

 陽菜はノートにしっかりと書き込みつつ、時折真剣な表情で皓を見つめた。彼が見守る中で慎重に操作を行いながら、少しずつその手順に慣れていった。


「こうして……次に、燈石の出力を読み取って、それが正常値か確認するんですね」


 と陽菜がつぶやく。


「そう、あとこの部分を注意してください。異常値が出た場合には、まず一度出力を切ってから手動で再調整。ここは少しコツが要るから慎重に……」


 と皓がアドバイスを加えると、陽菜は力強く頷きながらそれを記録した。


 数日間、二人は一つひとつの手順を確認しながら、町に合わせた独自のメンテナンス手順を整理していった。皓は、陽菜が理解しやすいように言葉を選びながら、時には実際にやり直しながら、ゆっくりと確実に進めていく。従来の手順書も見直し、トラブルシューティングの方法や具体的な対策を加えて、町の人々が日々の中で使いこなせるものへと刷新した。


「これで、何か異常があっても、陽菜さんならすぐに対応できるはずです」


 皓はメンテナンス手順書を見ながら、ほっとした表情を浮かべると、陽菜も手に持った手順書を胸にぎゅっと抱きしめ、深く息をついた。


「ありがとうございます、皓さん。こんなに丁寧に教えてもらって……」


 ふと、しばらくの沈黙が訪れた。陽菜は何かを決心するように、少し俯きながらも顔を上げ、小さな声で続けた。


「私がこうして頑張れたのは、皓さんに町を安心して旅立ってほしかったからなんです」


 その言葉に、皓は思わず陽菜を見つめた。彼女の顔には、どこか強い決意が宿っている。


「皓さんに甘えすぎていました。旅の途中だと知っていたのに、町のことを気にかけるあまり、皓さんが出発できなくなるんじゃないかって……。だから、私がちゃんと覚えて、この町を包む温かな光を守りたいって思ったんです」


 陽菜のまっすぐな言葉が皓の胸にじんわりと染み込み、静かにこみ上げるものがあった。自分がこの町で過ごした日々が、新たな力を育んでいたのだと、彼は静かに実感する。陽菜の真っ直ぐな思いに触れ、彼は心の中でそっと感謝の意を伝えた。


「ありがとう、陽菜さん。あなたのおかげで、僕もまた一歩前に進む勇気をもらいました」


 皓は柔らかな微笑みを浮かべ、深く頷いた。陽菜も同じように微笑み、彼を見つめ返す。その眼差しは、いつか再会する日のための約束のように温かく、穏やかであった。

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